アート・アーカイブ探求
ニコラ・プッサン《アルカディアの羊飼いたち》──瞑想へ「木村三郎」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年02月15日号
※《アルカディアの羊飼いたち》の画像は2020年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
言葉を読み取る絵画
近代絵画の父といわれるセザンヌに、父は存在するのだろうか。そんな素朴な疑問からニコラ・プッサンという画家の名を知ることになった。17世紀を代表するフランスの画家なのだが作品が思い浮かばない。画集を見てみると舞台上の演劇の一場面を描いたような絵画で、セザンヌのサント=ヴィクトワール山や静物画とは趣が異なっていた。セザンヌを近代絵画の先駆者として師と仰いだマティスら多くの画家がセザンヌとは異なる芸術傾向であったように、画家の師弟のつながりは作品だけでは見出せないのかもしれない。
しかし、セザンヌが印象主義を原点としながらも反動と修正により、20世紀美術に大きな影響を及ぼした後期印象派の巨匠になり得たことと、約250年前の画家プッサンに私淑していたことは無縁ではないはずだ。代表作《アルカディアの羊飼いたち》(ルーヴル美術館蔵)を採り上げて、プッサン芸術の深遠な世界を探求してみたいと思った。
《アルカディアの羊飼いたち》は、4人の人物が集まり石棺に刻まれた文字を指差し、言葉の解読を試みているようだ。3人の羊飼いたちが大きな石棺を発見したが文字が読めない。そこへ白い顔の女神が現われ、言葉の意味を伝えているシーンに見える。身にまとった布の赤、黄、青が目を引き、真横を向いて屹立する女性像の存在感が大きい。大地に青空の雲の動きが印象的だ。固いブラシで描いたような青空の筆跡からも、プッサンの創意が見られる。
西洋近世美術史を専門とする美術史家で、プッサンを40年以上にわたり研究してきた元日本大学芸術学部(日藝)教授の木村三郎氏(以下、木村氏)に《アルカディアの羊飼いたち》の見方を伺いたいと思った。木村氏は、著書『プッサン カンヴァス世界の大画家14』(共著、中央公論社、1984)や『ニコラ・プッサンとイエズス会図像の研究』(中央公論美術出版、2007)のほか、プッサン論文を多数書かれている。東京・練馬にある日藝の江古田キャンパスへ向かった。
運筆の感覚
木村氏が案内してくれたのは、まずインタビュー場所ともなった日藝の図書館だった。洋書やカタログが収集、整理され、マンガも含めて芸術に関する書籍や資料が充実している。また学生や研究者が利用しやすいように工夫が凝らされた独自の配架やレファレンスサービスなど、開放感がある図書館だ。芸術に関する資料を記録管理する方法論とその実践的運用を研究する「アート・ドキュメンテーション学会」創立メンバーのひとりでもある木村氏が、院生と図書館員諸氏とともにつくり上げてきた形である。「図書館職員は家族みたいだ」と木村氏は言う。
1948年木村氏は、東京・新宿に生まれた。父が戦後台湾から引き揚げてきて、会社員だった父の会社の社宅に住んでいた。周りは焼け野原。東京大学経済学部を卒業しながら、文学的な素養豊かな人でもあった父は書をたしなみ、戦友には画家の坂本正直(1914-2011)がおり、居間には画伯の油絵が掛けられていた。父は息子たち兄弟4人に書の心得を指導したが、三男の木村氏はなじめなかった。しかし、毛筆で水平と垂直線を交差させ、形態や構成を作り出す繊細な運筆の感覚は、飽くことのないプッサン研究に照応しているという。若い頃、目が反応した画家は、プッサンを師と仰いだセザンヌだった。
子供の頃からスポーツ人間であった木村氏は、中学では陸上部、高校はバレーボール部、大学でも4年間バレーボールをし、いまは水泳を続けている。大学は生物学へ進む予定だったが、三島由紀夫(1925-1970)など文学の古典主義美学への関心が高まり、思い切って文系に方向転換をした。東京大学に入学後、駒場では、英文学者の由良君美(きみよし)助教授の講義に触れ、その後東京大学の文学部フランス文学科へ進学した。
ところが大学紛争直後の時代だったこともあり、授業は面白くなかった。木村氏は、整理された美や西洋の古典主義に関心を抱き、4年生の秋に、抜群のフランス語力を駆使し、文学にも造詣の深い博覧強記そのものである高階秀爾氏(現大原美術館館長)が東京大学に赴任してきたのを機に、高階先生のもとで西洋美術史を専攻することに決めた。そして1975年、プッサンの《アルカディアの羊飼いたち》で修士論文を書き、パリ第Ⅳ大学へ留学する。プッサン研究者のジャック・テュイリエ(1928-2011)に学び、《ディオゲネスのいる風景》(ルーヴル美術館蔵)について博士論文を書き、文学博士を取得した。「セザンヌも好きだけど、研究対象にしようとは思わなかった。プッサン作品にはこのラテン語は何なのか、とか文学的な関心も含めて、つねに知的な刺激が失われずにあった」とプッサン研究の奥深さを語る。
初めて木村氏が《アルカディアの羊飼いたち》の実物を見たのは、1975年パリへ留学したときだった。「なんて汚い絵なんだ」が第一印象。「それはその通りで、なぜならルーヴル美術館は絵画の洗浄を滅多にやらない。プッサンの絵画は経年変化を起こし、上塗りのニスが焼けて色彩の輝きが見られない。プッサンを嫌う人は多いが、その根拠は大体絵の汚さにある。ただ同じプッサン作でもロンドンのナショナル・ギャラリーは洗浄してあるためピカピカになっているものもあります」と木村氏。
芸術の中心地ローマ
ニコラ・プッサンは、1594年にフランス・パリから北西100キロメートルほどのノルマンディー地方の小村レ・ザンドリに生まれた。父ジャンはソワソン出身の名家の出で、ナヴァル王(のちのアンリ4世)に仕えた。母マリーは、ヴェルノン市の役人の子供であった。両親は息子が法服貴族(近世フランスの官僚貴族)になることを期待していたが、プッサンはレ・ザンドリに滞在していた画家カンタン・ヴァラン(1570頃-1634)に刺激を受け、早くから絵画に興味を示した。
1612年18歳、反対する両親の目を盗んで、画家となるためパリへ出る。フランドル出身の肖像画家フェルディナン・エル(1580頃-1649)などの工房に通い、学識豊かな人や美術愛好家からラファエロ・サンティ(1483-1520)やジュリオ・ロマーノ(1499頃-1546)の絵画の複製版画を借りて模倣した。1622年リュクサンブール宮殿装飾事業に参加、ノートル=ダム大聖堂からも注文を受けるようになる。
1624年30歳になったプッサンは、その当時の芸術の中心地ローマへ向かった。パリのイエズス会の装飾画を描いたときに知り合ったフランス宮廷で活躍していたイタリア詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・マリーノ(1564-1625)の助力によって、銀行家マルチェッロ・サッケッティと知り合い、サッケッティを仲介に教皇ウルバヌス8世や、甥のフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿、その秘書カッシアーノ・ダル・ポッツォらと交友した。当時ローマはイタリア・ルネサンス、マニエリスム 、ボローニャ派 、盛期バロック様式 とその反作用としての古典的作品などが華やかに展開され、プッサンは貪欲に学習していった。
バロック様式が花開いた時代に、プッサンは抑制の利いた色彩と構成力によって古典的な絵画を描き始めた。そのようなとき重い病に冒されてしまうのだが、パリ出身の家主ジャック・デュゲの介抱で一命を取り止めることができた。この機縁でプッサンはデュゲの娘アンヌ=マリーと1630年36歳で結婚。子供は生まれなかったが、落ち着いた慎ましやかな後半生が始まった。プッサンは古今の文学に精通し、その一場面を取り上げて画面にまとめる構想力を会得していた。1631年聖ルカ・アカデミー(ローマの芸術家協会)に登録した。
フランス古典主義の祖
プッサンは、ルイ13世の宰相を長く務めていたリシュリュー枢機卿の邸館を装飾する絵画を描いたことを機に、古代美術とラファエロの作風を融合させ、独自の古典主義様式をつくり上げ、厳格な秩序、合理性、知性を志向する「フランス古典主義」美術を展開していく。
《アルカディアの羊飼いたち》を描いたその直後の1640年、プッサンは国王付首席画家としてパリへ向かった。拒んでいたパリ行きだったが、フランス王ルイ13世の招聘に応じた。パリに到着したプッサンはルーヴル宮・グランド・ギャラリーの装飾など、大画面の注文を受けた。パリの若い画家たちに刺激を与え、フランスの知人たちとの交流を深めた。しかしその一方、パリの画家たちの嫉妬と敵意にさらされ、嫌気がさしたプッサンは妻を迎えに行くと言って1642年ローマに帰った。以後フランスへ戻ることはなかった。
1644年50歳になると、ローマ教皇ウルバヌス8世やバルベリーニ枢機卿が亡くなり、有力な支援者を失っていった。プッサンは自己の世界に沈潜し、聖書や古代歴史物語を題材に独自の「荘重(そうちょう)様式」を生み出すようになる。高貴な主題と、それにふさわしい構想と明晰で厳格な構成、調和と秩序を追求した。さらに古代音楽のモード(音階)から着想した絵画上の「モード(様式)の理論」を提唱。主題の性質に応じた一定の情趣で画面を合理的に統一する表現を説き、理想的風景画も数多く手掛けた。プッサンの考え方は、フランスの王立美術アカデミーの基本理念を築き、フランスの古典主義美術(大様式)の基軸となっていった。
1664年未完の《ダフネに恋するアポロ》(ルーヴル美術館蔵)が絶筆となり、1665年プッサンはローマにて死去。71歳だった。アングル、ドラクロワ、セザンヌ、ピカソら、多くの芸術家がプッサンにインスピレーションを得て、また同じだけの人々がプッサンに激しく抵抗した。フランスに誕生し、イタリアで育まれたプッサンは、フランス古典主義の祖となった。
【アルカディアの羊飼いたちの見方】
(1)タイトル
アルカディアの羊飼いたち。「アルカディアの牧人たち」と表記される場合もある。英題:The Arcadian shepherds
(2)モチーフ
4人の羊飼い、墓、草、木、山、空。
(3)制作年
1638-39年。プッサン44-45歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦85×横121cm。
(6)構図
画面中央の墓石の周りに人物を集め、もっとも手前には直立する二本の幹を背景に女性が立つ。遠景はゴツゴツとした山並みが緩やかな円弧を描くように墓を囲む。均衡と調和に配慮した事物の配置。画面下部3分の2は安定した大地とし、上部は移り行く空模様を不定形な雲で描き、静と動をダイナミックに表わす。画面左上から陽射しを当て、膝をついた男の影を墓石に投影させている。その影は生を奪い取る「時の翁(クロノス)」の大鎌の形を連想させる。
(7)色彩
青、赤、黄、緑、茶、白、黒など多色。青と黄色に見られるように補色を隣接させ、コントラストを強調して人物の存在感を引き立たせている。
(8)技法
素描を描いたあと、ミニチュアの舞台をつくり、小さな蝋人形を並べて、人物の配置や光の効果を調べた後にキャンバスに描き出す。知性を刺激するデッサンを重視し、明確で均整の取れた画面構成を形づくる。ラファエロ・サンティ(1483-1520)の構成やティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/1490頃-1576)の色彩に影響を受けたと思われる。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
「死に支配された幸福」についての哲学的瞑想が主題である。羊飼いたちが理想郷アルカディアの里で墓を発見し、そこに刻み込まれた銘文“Et In Arcadia Ego(エト・イン・アルカディア・エゴ)”(われアルカディアにもあり)を判読している。このラテン語の「Ego(私)」は「死」を指し、理想郷にも死は存在して逃れることはできないという意味。中世ヨーロッパに広まった言葉「メメント・モリ(死を忘れるなかれ)」の伝統を引き、現世の富のはかなさを強調する「ヴァニタス」とも通じ合う教訓的内容を示唆している。この作品以前にプッサンは同じ主題でもう一点描いており、その第一作《アルカディアの羊飼いたち》(1629-30頃、英国・チャッツワース蔵)は、グエルチーノ(本名:ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ、1591-1666)の《われアルカディアにもあり》(1621-23頃、ローマ・国立古典絵画館 バルベリーニ宮蔵)からインスピレーションを得たもので、グエルチーノ作品がこの銘文の登場してくる最初の絵画と考えられる。青黒い画面のグエルチーノ作品とプッサンの第一作には死の象徴である髑髏(どくろ)が描かれ、銘文の意味が明白であったが、第二作目の本作品では髑髏は消えて、墓の主が言葉を語っているように見える。するとこの銘文は「いまは死の世界にいる自分も、かつてはアルカディアの理想郷に住んでいた」という追憶や詠嘆の意味合いが強くなり、抒情的瞑想に沈んだ哀愁に満ちた詩の世界を感じさせる。フランス古典主義絵画を象徴するプッサンの代表作。
哲学のストップモーション
木村氏は、《アルカディアの羊飼いたち》について「地平線が描かれているが単純ではない。中央に墓を少し高めに置き、背景の山は左右を低く中央を高く、バランスを整えて全体的に安定感がある。つまり瞑想させる空間をつくっている。4人の人物がいるが、ひとりは片膝をついて指で“Et In Arcadia Ego”の文字を指で追いながら読んでおり、ひとりは文字を見たあと振り返って女性を見ている。女性はこのラテン語は何かと考え込んでいる。女性はニンフ(ギリシア神話の精霊)という解釈もあるが、羊飼いに見える。左側に立つもうひとりは墓に手を掛けて文字を読んでいる状況を見ている。4人の表情はみな異なり、プッサンは精神状態の違いを描き分けている。これは演劇だ。演劇中の人物として描いている。画面に対角線を入れ、その中心に墓を置き、画面に安定感を持たせて、手と足と表情とを組み合わせることで、絵画の意味を構成していく。見るポイントは、論理的な手の動き。ストーリーを伝えるための文字を示す人差し指。プッサンの描く指先は少し長い。指した部分を明確に伝えるようにしている。それと女性の顔を見る羊飼いの顔。微妙な心情の動きをどう表わすかを考え、表情をつくっている。演劇のストップモーションによって、物語が伝わるかどうかという考え方をしていた画家がプッサン。ストーリーのある哲学の思考を、鑑賞者に伝えることが、絵画の使命だった当時の時代背景がある」と語った。
死の寓意画
木村氏は、プッサンの周囲にはインテリゲンチャ(知識階級)がたくさんいたので、そのなかの絵描きとして、プッサンはおそらく議論に参加してこの絵を描いたのだろうと言う。16世紀イタリア文学の主要な作品のひとつに、詩人ヤコポ・サンナザーロ(1458-1530)の田園牧歌詩『アルカディア』(1504)があるが、《アルカディアの羊飼いたち》の創作の源泉として考えられる。またオペラの台本作家ジューリオ・ロスピリオージ(のちの教皇クレメンス9世、1600-1669)が、画家グエルチーノに“Et In Arcadia Ego”の主題を示唆した、とドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は捉えているという。
グエルチーノは、髑髏(どくろ)を発見した羊飼いたちが驚いた様子を表わした。それを見たプッサンは第一作では、ある部分グエルチーノを踏襲して描いたが、第二作では髑髏をなくし、驚きを瞑想のテーマへと変化させた。《アルカディアの羊飼いたち》は、死を目撃してショックを受けた瞬間ではなく、その後を描いている。「墓には誰が入っていたんだ。どういう人生だったんだ」と考え込んでいる。沈思黙考という静かな時間を描出した。死に関する寓意画と言ってよいだろう、と木村氏は述べた。
アルカディアは、古代ギリシアの地にあると信じられていた理想郷だが、現在もギリシアのペロポネソス半島中央部にある山岳地帯の景勝地で、アルカディア県として名が残っている。
木村三郎(きむら・さぶろう)
ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)
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【画像製作レポート】
参考文献