アート・アーカイブ探求
ジョルジョ・モランディ《静物》──空虚なる気品「岡田温司」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年01月15日号
※《静物》の画像は2022年1月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
冬のバラの佇まい
新年を迎えた。好天の青空からふとベランダに目を落とすと、小さな植木鉢にピンク色のバラが二輪咲いているのに気づいた。だいぶ前から同じ場所にあったが、バラの移り変わりを意識してこなかったことを知った。地球の温暖化が影響しているかもしれないが、動かない植物は日々刻々と変化し、生きていた。夏の猛暑に耐え、冬の寒気のなかで花を咲かせている。静かな気韻生動を感じた。
イタリアの画家ジョルジョ・モランディの《静物》(フィレンツェ、ロベルト・ロンギ美術史財団蔵)を見てみたいと思っていた。テーブルの上に箱と壜(びん)が寄せ集められた、ただそれだけの簡素な絵なのだが気になっていた。1980年東京・彌生画廊で開かれた日本で初めてのモランディ展において、美術評論家の今泉篤男(1902-84)が書き残した言葉に押されて探求してみたくなった。「たとえ点数は少なくとも、その一点一点は雨滴のように人々の渇いた喉を濡すだろう。世の中には、こういう寡慾で寂しく、しかも立派な絵があるということを、われわれに語ってくれるだろう。しかも極く極く控え目に、言葉少なに」(図録『モランディ展』彌生画廊)。モランディの《静物》の佇まいが冬のバラと重なった。
『モランディとその時代』(人文書院、2003)や『ジョルジョ・モランディ──人と芸術』(平凡社、2011)など、モランディに関する書籍を多数執筆されている京都精華大学大学院特任教授の岡田温司氏(以下、岡田氏)に《静物》の見方を伺いたいと思った。岡田氏は、京都大学名誉教授でもあり、西洋美術史、芸術学、思想史を専門とされている。京都精華大学の洋画や立体造形などの実習棟である7号館へ向かった。
ルネサンスとバロックの享受
JR京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、終着駅である国際会館駅から約10分、スクールバスに乗って京都精華大学に着いた。日本で初めてのマンガ学部を2006年に設置した大学であり、「京都国際マンガミュージアム」(館長:荒俣宏)の管理・運営も行なう。まっすぐな坂道を登ったところに7号館が見え、彫刻を制作中なのか鈍い金属音が聞こえてきた。ドアをノックして研究室に入るととても静かだった。
岡田氏は、1954年に広島県三原市に生まれた。絵を見るのが好きだったそうだ。高校時代は読書と映画鑑賞が趣味で、大学は京都大学文学部へ入学、美学者の新田博衞(1929-2020)先生に学んだ。イタリアのルネサンス美術に関心を持ちながら、歴史や芸術、思想、哲学、精神分析などの本を読んでいたという。大学院へ進み、文学研究科の博士課程へ入った後、イタリアのパドヴァ大学へ2年半ほど留学、1985年に満期退学した。同年岡山大学の文学部助教授となり、1989年京都大学へ移り、教養部助教授、1991年同大学大学院人間・環境学研究科教授、2020年に定年退職をし、名誉教授となる。2020年より京都精華大学大学院芸術研究科の特任教授を務めている。
岡田氏とモランディの実物作品との初めての出会いは、イタリアへ留学していた大学院生のときだった。ボローニャにあるモランディ美術館でのこと。「ずっと気に掛かっていたモランディ作品を初めて見たときは不思議な感じがした」と岡田氏。長年、モランディに関心を持ち続けてきたのは、「モランディが、ルネサンスやバロックの画家たちからの影響を強く受け、新しいかたちでその伝統を自分のものとして表現していたことにある。そして美術史家ロベルト・ロンギ(1890-1970)との交流があったことも大きな要因だ」という。モランディと同じ年に生まれたロンギは『純粋造形批評』を著し、空間、フォルム、光、色彩などの造形的な観点から、イタリア初期ルネサンスの画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(1415/20-92)や、バロック美術の画家カラヴァッジョ(1571-1610)など、埋もれていた画家に光を当て現代に救い出した人物である。
現存するイタリア最大の画家
ジョルジョ・モランディは、1890年イタリアのボローニャに、麻の取引業を営む父アンドレアと母マリア・マッカフェッリの五子の長男として生まれた。弟のジュゼッペは11歳で早世した。アンナ、ディナ、マリア=テレーザの妹たち3人は、生涯兄のモランディと共に過ごし、兄と同様独身だった。人生のほとんどを中世の名残をとどめる古い大学町ボローニャのフォンダッツァ通りの自宅と、避暑地のグリッツァーナ(ボローニャの南西、アペニン山麓の村)で過ごしたモランディは、13歳で初めて油彩画を描いた。
1906年16歳のとき、父の経営する会社で働き始めるが、絵画への関心が高まり、母の後押しもあって翌年ボローニャの美術アカデミーへ入学した。キュビスムが流行する芸術の都パリに出て勉強することを望んでいた。しかし、1909年父の死去により、パリの夢は断念せざるを得なくなった。同年ヴェネツィア・ビエンナーレを訪れ、そしてポール・セザンヌ(1839-1906)、アンリ・ルソー(1844-1910)、パブロ・ピカソ(1881-1973)などの作品を書籍や雑誌で知った。
1913年美術アカデミーを卒業。モデナやフィレンツェで開かれた前衛芸術家たちの集会「未来派の夕べ」に参加する。ボローニャの小学校で素描を教える職に就く(-1929)。1915年、第一次世界大戦にイタリアが参戦。モランディもパルマの擲弾兵(てきだんへい)連隊に召集されたが、病にかかり兵役不適格となり、ボローニャに帰る。大戦終結後に形而上的な絵を描き始め、1919年形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)やカルロ・カッラ(1881-1966)と出会う。
1920年盟友となる美術史家ロベルト・ロンギの初著作『カラヴァッジョ』を読み、ルネサンスやバロック時代の芸術に関心を寄せる。アトリエにこもり静物や風景など、限られたモチーフを繰り返し描くようになる。1922年グループ展「春のフィレンツェ展」に出品し、デ・キリコが「日常的事物の形而上学」とモランディを讃えた。1926年ミラノのペルマネンテ画廊で開催された、1900年代のイタリア美術の復興を目的とした第1回「ノヴェチェント展」に参加。ヴェネツィア・ビエンナーレには1928年、30年、34年と出品した。
1930年母校の美術アカデミー版画科の教授職に就任。1934年ロベルト・ロンギがボローニャ大学の美術史教授として就任し、開講講義でモランディを「現存するイタリア最大の画家」と評する。イタリアの内外で名を知られるようになり、ミラノのミリオーネ画廊の画商ギリンゲッリ兄弟と契約を結ぶ。
批評家たちとの合作
1939年第二次世界大戦が勃発。1942年批評家チェーザレ・ブランディ(1906-88)によるモノグラフ(研究論文)『モランディの歩み』が出版される。また反ファシスト運動に関わった若者たちと親交があったことを理由に、モランディは1943年5月に1週間留置所に入れられた。若者たちのなかには、モランディを敬愛して、後にモランディを「アンフォルメルの知られざる先駆者」とし、芸術のムーヴメントが台頭するや無言の抵抗を試みようとする人だとモノグラフに執筆しようとして、モランディを激怒させてしまい出版差し止めに至った批評家フランチェスコ・アルカンジェリ(1915-74)や、長編小説『フィンツィ・コンティーニ家の庭』を書いた作家のジョルジョ・バッサーニ(1916-2000)ら、批評界や文学界で活躍する俊英たちがいた。
1945年美術史家のロンギの企画により、フィレンツェのフィオーレ画廊で個展を開催。1948年ヴェネツィア・ビエンナーレの企画展「3人のイタリア画家:1910-1920」にデ・キリコ、カッラとともに参加し、モランディはヴェネツィア市賞(国内絵画部門大賞)を受賞した。翌年ニューヨーク近代美術館の初代館長アルフレッド・H・バー Jr.(1902-81)と評論家ジェームズ・スロール・ソビー(1906-79)の企画による「20世紀イタリア美術展」に絵画とエッチングを出品。1950年母マリア・マッカフェッリを亡くし、その年造花をモチーフにした花の絵を30点以上描く。
1953年サンパウロ・ビエンナーレにエッチングを出品し、版画部門で大賞を受賞。1955年第1回ドクメンタに参加。翌年66歳で、スイスのヴィンタートゥール美術館での個展開催とチューリヒでのセザンヌ展訪問のため、初めてイタリアを離れる。26年に及んだ美術アカデミーの教職を辞める。1957年サンパウロ・ビエンナーレの絵画部門で大賞を受賞。批評家ランベルト・ヴィターリ(1896-1992)が版画作品のカタログ・レゾネを編集する。モランディは批評家の原稿に、直接的、間接的に介入したが、批評家たちはそれを歓迎していたようだ。モランディ芸術は、画家と批評家・美術史家との合作であった。1959年グリッツァーナに自宅兼アトリエを建てる。
1963年ボローニャ市よりもっとも栄誉ある市民に贈られる「ボローニャ大学金賞」を授与される。ヘビースモーカーだったモランディは肺癌により、1964年6月18日、1,450点余の油彩画のほか版画、水彩画を残してボローニャにて逝去。享年74歳だった。特定の画派や運動に参加することなく、平穏を望みながら「目に見えるもの以上に抽象的なものはない」という信念をもって独自のスタイルを確立し、静物画を中心に静謐で気高い芸術を探求した。墓地チェルトーザ・ディ・ボローニャには、友人で彫刻家のジャコモ・マンズー(1908-91)が設計した墓があり、その壁の中央にモランディのブロンズの胸像が据えられている。2009年聖域だった簡素なアトリエ「モランディの家」が公開された。
【静物の見方】
(1)タイトル
静物(せいぶつ)。英題:Still Life
(2)モチーフ
首の長い白い壜、ベージュ・茶・白色の粘土のように重みを感じる直方体の箱、白いテーブル、白い壁。壜と箱は、埃を積もらせて長年モチーフとして使っているもの。
(3)制作年
1954年。モランディ63歳。1950年代はもっとも多作な時期。
(4)画材
キャンバス、油彩。絵具は、ルネサンス(14-16世紀)の古い絵画にも用いられている耐久性に優れた伝統的な天然の顔料。シェンナ、オーカー、アンバー、赤土、緑土、鉛白、ウルトラマリンなど。
(5)サイズ
縦81.0×横100.3cm。モランディの《静物》のなかでは大きい。
(6)構図
幾何学的な直方体の箱三つと首を少し傾けた壜を画面の中央に集めた構図。窓から差し込む光を、布や紙を利用し、調整しながらやや斜め上から描いている。絵画を現実にではなく、現実を絵画に近づけるために、事前にテーブルを舞台に、壜や壺などを役者に見立てて、その身体に白やグレーを塗り、そこに埃が溜まるのを待って演劇を演出するかのように舞台に登場させている。
(7)技法
油彩。キャンバスの目が見えるほど薄塗りで、絵筆の自然な動きがわかるようなゆっくりとした筆跡。輪郭線は微妙にぶれ、波打ち、まっすぐ描かれた線はない。時代の流行と距離を取りながら、ルネサンス以来の西洋絵画が開発してきた遠近法や明暗法、陰影法を受け継ぎ表現している。
(8)色彩
グレー、ベージュ、茶、白。白い壜のハイライトに見られるように色価(ヴァルール)の差を認識しながら描いている。抑制された中間色の色調が静謐さを漂わせる。
(9)サイン
画面左下にグレーで「Morandi」の署名。
(10)鑑賞のポイント
身を寄せ合うように集まったオブジェが、温かさと同時に寂寥(せきりょう)感を醸し出している。シンプルなモチーフの形態から、「すべての自然は円錐、円筒、球に還元される」というセザンヌの思想への共感が見られ、叙情性と悲劇性の間に、一にしてかつ多なるもの、同にしてかつ異なるもの、繊細にしてかつ大胆なるものを表わしている。モチーフの材質感よりもボリューム感、そして中央ではなく背景や輪郭線に着目すると空間に動きが出てくる。埃は見えるように描かれていないが、記憶や時間が芸術へと昇華する契機となる。わかったこととわからないことが融合する、モランディ特有の空虚なる気品の味わい深い絵画世界が広がっている。
無の気高さ
モランディの絵画の多くが、必然と偶然、計算と即興、意識と無意識、フォルム(形式、形態)とアンフォルム(不定形)との間の境界線が揺らぐような“閾(いき)”のなかで生気しているのではないだろうか。作品が揺らぎの振幅のなかで制作され、存在の絶対性などありえないことを、身をもって描き出そうとしたのではないかと岡田氏は言う。
岡田氏は「モランディの静物画は、一点だけを見てもなかなかわかりにくい。モランディの絵は同時に複数見た方がいい。同じモチーフを反復して描いていても、実は違う。制作年が30年代、40年代、50年代の同じモチーフの絵を並べて見る。モランディ自身が一点一点の作品のなかで、微妙な差異を追求している。モチーフを限定すればするほど画家はそれに縛られ、一個の独立した作品として絵の性格を表現するのが難しくなる。モランディは、配置や絵具の塗り方、明るさの調子など、微妙な表情の違いをどう描いていくのかに懸けていた。違うモチーフをいつも違う描き方で描くピカソのようであれば、ある意味楽かもしれない。しかし、モランディの絵画は利き酒とかワインのテイスティングにも似たところがある。よく味わってみないとわからない違いの方が、いっそう高度に洗練されている」と述べる。
この《静物》について、岡田氏はピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリストの鞭打ち》(1460頃、ウルビーノ、マルケ国立美術館蔵)の室内の場面を連想しないではいられないという。白の上に白、白の横に白を置いても画面がまったく混乱をきたしていないのは、微妙な色調の変化が計算されているから、と色調の探求に触れた。そして「一見して何の変哲もないし、これと言って華やかでもドラマがあるわけでも、何か象徴的な意味があるわけでもなく、本当にモランディの静物画はまったく何もない。そこがいいのだろう。描かれている対象(モノ)の価値や、描かれている主題の内容が、これでもかというほど削ぎ落されている。例えば、オランダの静物画であれば、貴重な陶磁器や豪華な銀食器、一瞬の美しさを誇る高価な珍しい花々が、画面いっぱいに描かれている。静物画を飾って、この世のすべてがいかにヴァニタス(はかないもの)なのかを表わすことで、どんなに豪華で高価なものであれ、いずれは朽ち果てるという貴族らの自戒のメッセージがそこに込められてきた。しかし、モランディはそれとは無縁である。どこにでもあるような慎ましやかな壜だし、ごみとしかいいようがない箱。でも何でこんなに気高くなるんだろう」と岡田氏は語った。
岡田温司(おかだ・あつし)
ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献