アート・アーカイブ探求
ヴィフレド・ラム《ジャングル》──私たちはひとつである「村田宏」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年10月15日号
※《ジャングル》の画像は2022年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
植物に同化する
世界的に気温が上昇し、アフリカでは異常少雨により大地がひび割れるほどの大干ばつとなり、今夏(2022)の東京の猛暑日(最高気温が35度以上)は、これまでの13日の記録を更新して16日、観測史上最多日数であった。
カーボンニュートラルという言葉を耳にするようになった。カーボンは炭素、ニュートラルは中立という複合語の意味するところは、温室効果ガスの9割を占めるCO2の排出を実質ゼロとする「脱炭素社会」の実現だという。それは人為的に大気中に排出されたCO2の量と、森林などが吸収するCO2の量との間で均衡が取れた状態だそうだ。
30年ほど前から部屋に同居する観葉植物のパキラが筆者の背丈を越えた。一枚の葉が30センチ超もあって、しなるひごのような長い葉柄に、放射状に6、7枚の艶のある大きな葉を広げた。中南米原産で耐暑性がある。人間の吐き出すCO2をパキラが光合成に使っている。植物と呼応しているような感覚になる。
今年生誕120年を迎えるキューバの画家ヴィフレド・ラムの代表作《ジャングル》(ニューヨーク近代美術館蔵)を見てみたいと思った。植物が人間化したのか、人間が植物化したのか、植物と人間が同化し、渾然一体となって融合した絵。青緑色した密林の中の人物たちは仮面をつけて、手首と足首を直角に曲げて裸で踊っているようだが、大きなハサミを差し出して警鐘を鳴らしているようにも見える。《ジャングル》の見方を跡見学園女子大学の村田宏教授(以下、村田氏)に伺いたいと思う。
村田氏は西洋近現代美術史を専門とされ、著書『トランスアトランティック・モダン』(みすず書房、2002)のなかで、ヴィフレド・ラムの芸術について興味深い議論を展開されている。埼玉県にある新座キャンパスへ向かった。
光の横顔
JR品川駅から武蔵野線の新座駅へ、そこから大学バスに乗り川越街道を経て約7分。静かな女子大の校門にある警備室で受付を済ますと、村田氏が迎えに来てくれた。パリにあるラムの家を訪れたことがあるという村田氏は、1953年東京に生まれた。小学生の頃から絵を描くのは好きだったが、高校時代に「大津事件」を知って法律に興味を覚えたという。
1891(明治24)年、滋賀県大津市を行啓(ぎょうけい)していた帝政ロシアの皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(ニコライ2世)を沿道警備の日本人警察官が斬りつけ負傷させた。日本政府はロシアの報復を恐れ、その警察官を極刑にしようとしたが、司法官で大審院長であった児島惟謙(こじまいけん。1837-1908)は、政府の圧力に抵抗、司法権の独立を守り無期懲役を宣告。この大津事件に関心を持った村田氏は、1971年早稲田大学の法学部に入学した。
大学3年生のときに、神奈川県立近代美術館で開催された「オディロン・ルドン展──静かなる幻視の画家」を参観し、1886年作のリトグラフ作品《光の横顔(Profile of Light)》に強く惹かれた。さらに4年生になってヨーロッパへ3カ月ほど旅をし、現地でさまざまな美術作品に触れ、漠然とながら美術を職業にすることを考えるようになったという。1975年に法学部を卒業し、学士入学で文学部の3年生に編入、1977年文学部を卒業した。同校の大学院へ進学し、1981年に文学研究科芸術学美術史修士課程を修了する。
その後、武蔵野美術大学の通信教育部の非常勤講師を務め、1983年には静岡県教育委員会美術博物館建設準備室へ就職した。1985年に静岡県立美術館の学芸員となり、開館記念展「東西の風景画」を担当。1988年村田氏は、シュルレアリスム作品を収集活動のひとつの柱としている横浜美術館へ転職、シュルレアリストのヴィフレド・ラムの展覧会を担当することになった。村田氏は準備のためにパリのラム家を数度訪れ、ルー・ローラン=ラム夫人と息子のエスキル・ラム氏と協議を重ねた。しかし、外国との出品交渉で展示作品が整わず、展覧会は延期となってしまった。ラムの論考「ヴィフレド・ラム《ベリアル、蠅の王》(1948)についての一試論──東と西の歴史の間で」(『日仏美術学会会報』第17号、1997)は、展覧会のために用意したものだった。
2002年に「生誕100年記念 ヴィフレド・ラム展──変化するイメージ」が横浜美術館で開催されたが、村田氏は1998年に跡見学園女子大学へ転職しており、ラム展には直接関与することはなかった。村田氏が《ジャングル》を初めて見たのは、横浜美術館在籍中の1994年頃、ニューヨーク近代美術館へ出品交渉に行ったときだったという。「非常に奇怪な絵だと思った」と第一印象を述べた。
サンテリアとの出会い
カリブ海のメキシコ湾入り口に浮かぶ島国キューバは、米国フロリダ半島から南へわずか150キロメートル外務省、令和元年12月24日)。
。スペインの援助によって新大陸を目指していたイタリアの航海者コロンブスによって、大航海時代の1492年に発見された。首都はハバナ、ヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%と多様な民族が暮らし、スペイン語を話している(ヴィフレド・ラムは1902年、黒人、中国人、クレオール(植民地生まれのヨーロッパ人)、白人が暮らすキューバ中部の小都市サグア・ラ・グランデに生まれた。父のラム=ヤムは、中国・広東省出身の華僑で、1860年頃キューバにやってきた。食料雑貨店を営み、美しい文字が書けるため中国人コミュニティの代書役も引き受け、享年は100歳を超えていた。母のアナ・セラフィーナ・カスティーリャは、ラム=ヤムの2番目の妻でスペインとアフリカの黒人奴隷の血を引くキューバ人、ラムは8番目の子だった。父母ともカトリックの信者だが、ラムの名付け親は民間信仰サンテリア
の女性司祭マントニカ・ウィルソンだった。代母としてウィルソンは、信仰説話や精霊伝説をラムに伝えた。ラムは、12歳頃から美術書を見てデッサンを始め、美術への関心を持った。1916年ハバナへ移り、両親の意向で法学を学ぶがすぐに断念し、1918年ハバナのサン・アレハンドロ美術学校に入学する。1923年21歳のとき自治体の奨学金を得て、肖像画家を志してヨーロッパへ旅立った。翌年にはスペインのマドリードにあるプラド美術館付属のサン・フェルナンド美術学校で、サルバドール・ダリ(1904-89)の師でもあった美術館館長のフェルナンド・ソトマヨールに師事する。ボッシュ(1450頃-1516)やブリューゲル(1530頃-1569)、ゴヤ(1746-1828)など、現実と非現実が統合された作品に触れて研究した。1928年マドリードのビルチェス画廊で個展を開催。1929年スペイン人のエバ・ピリスと結婚し、翌年長男ビクトルが誕生したが、1931年妻・息子とも結核で死亡。落胆して心身共に不安定な時期が続く一方、政治的な議論に加わるようになる。
黒人の精神
スペイン内戦が1936年に始まると、ラムはマヌエル・アサーニャ率いる国民主権の共和国政府への協力を表明し、反ファシストのポスターをデザインし、兵器工場の生産主任として働いた。反乱軍であるフランシスコ・フランコが、ドイツ・イタリアの援助の下に内戦の勝利を確定させた1938年、14年間生活していたスペインからパリへ移住する。スペインの彫刻家マノロ・ウゲ(1872-1945)の紹介状を携え、巨匠パブロ・ピカソ(1881-1973)を訪ねた。ピカソは、アフリカの血を誇りにするようにとラムを励ました。
パリで最初の個展を1939年にピエール画廊で開催。原始的なものへの深い眼差しがあるシュルレアリストの詩人アンドレ・ブルトン(1896-1966)と知り合い、詩編『ファタ・モルガナ(蜃気楼)』の挿絵を依頼される。繊細で堅実な線描によって、人物と天体や動植物、性的象徴などの魔術的記号が融合し、ブルトンが主張し理論化した前衛芸術思想の影響が表われている。
第二次世界大戦の暗雲がパリを襲い、1940年6月ドイツ軍のパリ占領前、ラムは作品をピカソに託して地中海に臨むマルセイユに向かった。そして翌年、アンドレ・ブルトンや人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)など、芸術家や知識人ら総勢300人超の人々と共に、カリブ海のフランス領マルティニーク島を船で目指す。マルティニーク島では、黒人で詩人のエメ・セゼール(1913-2008)と出会う。黒人であることに立脚しながら、真に人間的な普遍を創造することを思索していた。ドミニカ共和国のサント・ドミンゴなど、カリブ圏諸国を経由し、17年ぶりにキューバへ帰国した。
首都ハバナに家を構え、友人を介して作家リディア・カブレラ(1899-1991)と知り合い、親しく交際するようになる。カブレラは、キューバのアフリカ系民話を収集するため、アフリカ系のサンテリアに所属する人々を取材しており、黒人の精神を表現したいと望んでいたラムが同行することもあった。
ニューヨークでの初個展が1942年にピエール・マティス画廊で開催されたとき、アンドレ・ブルトンは「ラムには原始の驚異がそなわっている」とカタログの序文に著した。1943年《ジャングル》完成。翌年ピエール・マティス画廊での2回目の個展で《ジャングル》を発表。バルセロナの病院で結核患者研究室長をしていたドイツ人ヘレナ・ホルツァーと結婚した。1946年にはハイチで個展を開催し、ニューヨークでマルセル・デュシャン(1887-1968)やイサム・ノグチ(1904-88)、ジャクソン・ポロック(1912-56)らと会い、船でロンドンを経由してパリへ渡り、イタリアとドイツを訪れて、年末にキューバへ戻った。1950年キューバ教育省主催の個展が開催されたが、翌年ヘレナ・ホルツァーと離婚した。
中国思想と西洋の錬金術
ラムは1952年キューバを出て、パリに居を構える。ヨーロッパの前衛美術グループ「コブラ」や、詩人アラン・ジュフロワ(1928-2015)らと交友関係を結び、この頃から世界各地の旅が増えていく。1953年キューバ革命が始まる。親米のフルヘンシオ・バティスタ独裁政権に対し、ラムが忠誠を誓う革命家フィデル・カストロ(1926-2016)とチェ・ゲバラ(1928-67)が武装闘争を展開。1959年に政権を打倒、カストロが首相となり革命政権が成立、社会主義革命を推進した。同年ラムはドイツのドクメンタに《敷居》などを出品。
1960年ニューヨークで、スウェーデン出身の芸術家ルー・ローランと3回目の結婚をし、3人の男子が生まれる。1962年にはイタリアのジェノヴァ近郊にあるアルビソーラ・マーレにアトリエを設け、版画、彫刻、陶器に挑戦し、作品は小型化、描かれる形態は記号化していった。
晩年は、線描が必要な銅版画に集中し、それを詩的な絵画表現へ還元させることを目指した。1964年視覚芸術と国際親善に傑出した芸術家としてグッゲンハイム国際賞を受賞。ピカソを介して知り合った詩人で美術評論家のミシェル・レリスが『ヴィフレド・ラム』を1970年に刊行。1972年の第36回ヴェネチィア・ビエンナーレでラムの展示室が設けられた。1979年ポンピドゥー・センターで「ヴィフレド・ラム:ジャングル」展が開催され、1981年フランス政府より勲章が授与された。1982年9月11日パリで死去。享年79歳。パリのペール=ラシェーズ墓地で火葬され、遺言により遺灰はハバナに帰る。12月8日キューバで国葬が行なわれた。
村田氏は「ラム芸術には、二番目の妻ヘレナ・ホルツァーを通じて知った心理学者カール・ユング(1875-1961)の西洋の錬金術、さらには道教などの中国思想が流れ込んでいる」という。
【ジャングルの見方】
(1)タイトル
ジャングル(じゃんぐる)。英題:The Jungle
(2)モチーフ
4体の超自然的生物キメラ、サトウキビの茎、コーヒーまたはタバコの葉。
(3)制作年
1943年。ラム41歳。
(4)画材
キャンバス、紙、グワッシュ(水彩絵具)。
(5)サイズ
縦239.4×横229.4cm。パブロ・ピカソの《アヴィニョンの娘たち》(243.9×233.7cm)に呼応したほぼ正方形のサイズ。
(6)構図
大地から空へ垂直に伸びる線によって画面が覆われ、キメラの配置によりわずかに遠近感がある正面性の強い構図。
(7)色彩
青、青緑、黄、紫、茶、黒、白、ピンク、オレンジなど多色。
(8)技法
キュビスムとシュルレアリスムを取り入れ、スピード感のある鋭い輪郭線や細くかすれた微妙な描線と、青とオレンジの補色を活かした色彩、各色絵具のタッチやしたたりなどを駆使して全体を青緑のトーンで覆い、複数のイメージが多様に重なり合う効果を出している。紙に速乾性の水彩絵具で描写後、紙に接着剤を塗りキャンバスに貼り付けたようだが、制作方法と手順は不明。紙をキャンバスに貼ったために、紙がよれて皺が入った状態になっており、表面には紙の起伏がある。
(9)サイン
画面の左下に「Wifredo Lam 1943」と青で署名。
(10)鑑賞のポイント
ラムの本作は、パブロ・ピカソがアフリカ彫刻に興味を持って描いた《アヴィニョンの娘たち》(1907、MoMA蔵)に霊感を得て描かれた作品と言われている。4体のキメラの顔や胸、膝や尻、手や足は周囲の樹木や葉叢(はむら)と混成し、区別がつかないまでにハイブリッドな存在と化している。大地、人、動物、植物が結び合い、混交し合うというシュルレアル(超現実的)な世界を現出させた。またキューバに基盤を持つサンテリアと呼ばれる民俗信仰における呪術的装具のハサミが描かれている。ハサミは、鉄と金属の神オグンを象徴し、“戦い・正義”を表わし、農業労働者の守護神でもある。人も植物も物質性を失い、すべては変容のプロセスのなかで捉えられ、無限に生成するジャングルを喚起する。豊穣な自然と豊かな肉体の裸の女性のイメージは、生殖と再生という生命の連続を表わす。中国人で美しい毛筆文字を書いたという父と、アフリカ系とスペイン系の先祖を持つキューバ人の母の間に生まれた、自身がハイブリッドな存在であるラムは、キュビスム、シュルレアリスムという西欧のモダニズムを基盤としつつ自国キューバの文化に根ざした独自の境地を切り開いた。原始的な魔術性と空想的な奇想の新鮮さが漂うラムの到達点である。
すべての人にとって良きものであるように
村田氏は、《ジャングル》を「ハバナの《アヴィニョンの娘たち》である」と語る。ピカソが《アヴィニョンの娘たち》によって、現実を新しい視点で捉えるキュビスムを準備したように、ピカソの自己改革の到達点であったのと同じく、《ジャングル》はラムの画業のひとつの頂点を表わすという。
「ジャングルというタイトルは、2番目の妻ヘレナ・ホルツァーが付けたと言われている。実際キューバにジャングルはなく、キューバの風景を指しているわけではない、とラム自身が言っている。サトウキビもタバコも野生植物ではなく、ジャングルに生育してはいない。栽培作物を熱帯の密林に繁茂しているかのように描いているのは奇妙だ。そして女性の乳房とナッツのような植物の実を一体化したり、睾丸を描き加えるなど、ラムはエロスの重要さをよく心得ていた。また、紙は和紙と聞いた覚えがある。ラムの父親は中国人で毛筆の達人だったと言われており、丈夫な和紙が身近にあったのかもしれない。いずれにしても《ジャングル》はキュビスムとシュルレアリスム、キューバの宗教サンテリアが混合したラムならではの絵画である」と村田氏は述べた。
ラムの展覧会は、村田氏の準備段階から約8年後にようやく開催できた。日本で初めてのラム展「生誕100年記念 ヴィフレド・ラム展」(2002.10.26-2003.1.13)を担当した横浜美術館学芸係長の中村尚明氏は、《ジャングル》(1943)を描いた時代(1941-51)がラムのもっとも充実した時代であったと言う。「混沌の中で対立するもの同士が出会い、結合と変成の苦難を経て、新たな秩序が生まれる。その誕生の瞬間に、それがすべての人にとって良きものであるようにとの期待と祈りを込めて立ち会うようにと、ラムは私たちを誘っているのかもしれない」(図録『生誕100年記念 ヴィフレド・ラム展』p.77)。
両性具有
「《ジャングル》においてサンテリアは重要な主題だ」と村田氏。アフリカ大陸の宗教的伝統を受け継いだ独特の民間信仰で、アフリカ南西部、主にナイジェリア南西部に居住するヨルバ人を起源とする土着的な宗教と、カトリック信仰との習合形態を示すサンテリアは、キューバ特有の宗教である。キューバ人の誕生、結婚、病気、死、埋葬のときには歌と踊りによるサンテリアの儀式を行ない、現在もキューバ文化の基盤をなしている。
「《ジャングル》の左側の馬は、サンテリアでいう“オリシャ(聖霊)”。サンテリアではオリシャに憑りつかれた状態を“オリシャのカバジョ”または“馬”と呼ぶ。馬はオリシャに憑りつかれたことを表わす。その下の小さな丸い顔だけが描かれているものは、霊界への扉を守り、開ける役割を担う神“エレグア”で、サンテリアの儀式には必ず登場する。また、右の方のハサミは大きな力を発揮する“オグン”という鉄の神。世界創造に際してオグンは、最高神と人とが交流する場所として森をつくり、その後、鉈(なた)や斧を作り出し、森林を道と耕地に変え、さらに火や鉄や政治的な権力を人間に与え、人の住まう場所も用意した。オグンは鍛冶屋などの鉄に関係する職業の守護神であり、武器の神とも人々を戦争などから守る神とも言われる。ハサミの左にある三日月の顔は、“オチュン”で月の女神。男性にして女性であり、両性具有を表わしている。ラム絵画の超自然的存在は、ギリシア神話の怪物にならって『キメラ』と呼びうるものだが、《ジャングル》に現われるキメラは、人間/神、植物/動物、男性/女性といった二項対立を超え、いわば存在の統一を示唆するもののように見える。両性具有ということで言えば、西洋の両性具有には、グノーシス主義的認識があるとされる。グノーシス主義が信奉するトマス福音書では、イエスは男と女をひとりにすれば救済されると述べている。本来同一体であった男女が、さまざまな経緯で分離してしまったために、不完全な状態にあり、両性を合体させることによって完全体に復するという考え方である。男にして女であるアンドロギュヌス(両性具有)は、完全体の理想形とさえいえる。ラムはこうした西洋の両性具有の考え方に通じていたと思う。《ジャングル》は、私たちはひとつであるということを暗示しているという解釈も成り立つのではないか」と村田氏は語った。
村田 宏(むらた・ひろし)
ヴィフレド・ラム(Wifredo Lam)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2022年10月