アート・アーカイブ探求

フリーダ・カーロ《二人のフリーダ》──痛みの存在「堀尾眞紀子」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2023年10月15日号

フリーダ・カーロ《二人のフリーダ》
1939年、キャンバス・油彩、173×173cm、メキシコ近代美術館蔵
Copyright Schalkwijk / Art Resource, NY / DNPartcom
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着衣の解剖図

生命力を感じさせる奇妙な絵、双子の姉妹の肖像画と思った。なぜ血管と心臓を描く必要があるのだろう。これは肖像画というより着衣の解剖図ではないか。若い女性と生々しい内臓を組み合わせた異様さ。しかも自分の血管を自分の手で止血するという無謀さはただごとではない。メキシコの画家フリーダ・カーロの《二人のフリーダ》(メキシコ近代美術館蔵)である。

メキシコの絵画とはこれほどに激しいものなのか。メキシコ合衆国の人口は、約1億2,601万人(2020年国立統計地理情報院)で、1億2,445万人(2023年人口推計総務省統計局)の日本とほぼ同じだが、面積は日本の約5倍という。アステカ文明が繁栄し、1521年以来スペインの植民地だったが、1821年に独立した。しかし、1910年に大統領の独裁に対し、自由主義者が蜂起したことに始まるメキシコ革命が起きた。民族主義的な民主革命であり、内戦を経て1917年新憲法の制定により、現代のメキシコの基礎が確立された。公用語はスペイン語でカトリック教徒が多い。メキシコと日本は感性が正反対ともいわれるが、伝統的に友好関係にあり、2023年は外交関係樹立135周年にあたる。

日本にフリーダ・カーロを紹介したことで知られる文化学園大学名誉教授の堀尾眞紀子氏(以下、堀尾氏)に《二人のフリーダ》の見方を伺いたいと思った。堀尾氏は『フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像』(中央公論社、1991)や『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』(ランダムハウス講談社、2009)など、フリーダについて多くの著書を出版されている。東京・調布市仙川のカフェで話を伺った。


堀尾眞紀子氏[提供:堀尾眞紀子]




あなたは何者か

3人姉妹の長女で好奇心が強い子だったという堀尾氏。小学生の頃、戦後すぐの時代で貧しかったけれども、親戚の叔父が画家で油絵を描いていた影響もあり、クレヨンや水彩絵具で絵を描くのが好きで、東京都の賞などをもらったこともあるという。

高校生のとき、初めて行った東京国立博物館で見た「ルーヴル・フランス美術展」が衝撃的だった。作品を見て未知の世界が開け、西洋文化を体験し、堀尾氏は東京藝術大学美術学部へ入学した。そして友人に誘われて東京・駒場にある日本民藝館を訪れた。そこで染色工芸家の芹沢銈介(けいすけ。1895-1984)の作品と出会い、美術は暮らしのなかで身近な存在であることを知る。堀尾氏は大学で染織を学び、1969年から1年間パリのフランス国立美術工芸大学へ留学、染織の作品を自ら制作し、個展やグループ展に出品するなど作家活動を始め、1972年東京藝術大学大学院修士課程を修了した。

その後、東京クラフトデザイン研究所と文化女子大学(2011年校名変更で文化学園大学)で教鞭を執り、2019年文化学園大学教授・造形学部長を退任。1982年から2年間、NHK教育テレビ(現Eテレ)「日曜美術館」の司会も務め、2023年からは日本エッセイスト・クラブの理事長に就任されている。

堀尾氏が、メキシコへ行ったのは1988年だった。大学教員時代に、インディオの染織調査のために訪れた。調査を終えて帰国する直前に、たまたま立ち寄ったチャプルテペック公園内にあるメキシコ近代美術館で、フリーダ・カーロの作品と出会った。そこで《二人のフリーダ》や《ハチ鳥とイバラのネックレスをつけた自画像》を初めて見た堀尾氏は、「何とも不気味で怖い絵だった。真っすぐな目で、曖昧さや不安を見抜かれ、突きつけられたような落ち着かなさがよぎった。フリーダの眼差しに『あなたは一体何者。どこから来て、どこへ行くの』と問われているような感じだった」と述べた。堀尾氏は、西洋的な美意識がひっくり返され、フリーダの人生には何があったのか、と気になり始めた。しかし帰国後、国立国会図書館には一冊の文献もなく、自分でメキシコへ赴きながら独自に取材を重ねて探究していくほかなかった。


18歳のバス事故

洗礼用の二つの名前を得たマグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ=イ=カルデロンは、メキシコ革命(1910-17)が勃発する3年前の1907年に、メキシコ市郊外のコヨアカンに生まれた。メキシコの魅力に惹きつけられ、ドイツから移住してきたハンガリー系ユダヤ人で写真家の父ギジェルモ・カーロと、スペイン人とインディオの混血で信心深い母マティルデ・カルデロンとの4人姉妹の3番目。父は再婚だったため異母姉2人もいた。生家は通称「青い館」(現フリーダ・カーロ美術館)と言われ、青い化粧漆喰壁の高い塀に囲まれた大きな屋敷で、中庭は花と鳥に溢れていた。フリーダはドイツ語で「平和(フリーデ)」を意味していた。6歳の頃、小児麻痺にかかり、右足が発育不全で細くなって「フリーダの棒足」と友達からからかわれた。孤独感から現実と夢想の世界に引き裂かれ、自分自身をひとつに保てない心理的葛藤が生じていた。

解剖学に関心を持ったフリーダは、1922年に医師を目指して、国立予科高等学校に入学する。そこで壁画を制作中の国民的画家ディエゴ・リベラ(1886-1957)と初めて出会う。勝気な性格で美人のフリーダは、二、三の欠点はあったが、かえってそれが魅力を高めていた。眉毛が額の下で一本につながり、官能的な唇の上にはうっすらと口ひげが生えていた。学校では社会主義やナショナリズムを支持する文学集団「カチュチャス」に入り、リーダーのアレハンドロ・ゴメス・アリアスと恋に落ちた。アレハンドロは後年弁護士、政治評論家として国民の絶大な尊敬を集めた。1925年18歳のときアレハンドロと二人で乗った木造バスが路面電車と衝突し、大惨事に見舞われる。背骨が折れ、右足と骨盤が砕け、壊れたバスの鉄棒が下腹部を貫通、瀕死の重傷を負った。母は居心地のいいベッドになるようにと天井に鏡を、寡黙に見守っていてくれた父は絵具をプレゼントしてくれた。

療養中に「自分の真実だけを描く」と、自己流で描いた自画像をディエゴに褒められ、1929年43歳のディエゴと結婚する。ディエゴはフリーダの率直さ、頭の回転の速いウィットに富んだ快活さに惹かれ、フリーダは22歳でディエゴの3人目の妻となった。後年、ディエゴは「彼女は、穏やかな獰猛さと言えるかもしれないが、赤裸々に、そして比類のない素直さで〈普遍的で女性特有の事柄〉を表現した、初めての女性美術作家である。彼女は、〈深い愛情と憎悪の意識が対になった〉人生の出来事を誠実に、そして議論の余地もないほど確信をもって描いた」(図録『フリーダ・カーロとその時代展』p.24)と評している。


画家として自立

フリーダは、ディエゴの壁画制作に同行して、1930年米国サンフランシスコに滞在。右足の変形が進行したため、医師のレオ・エラーサー博士の診断を受けた。アメリカの上流社会に馴染めず、翌年には「青い館」のあるコヨアカンに近いサンアンヘル地区に建てた新居兼アトリエに帰った。1932年フリーダは流産し、母が死去。

フリーダと1歳違いの仲のよい妹クリスティーナとディエゴが関係を持ってしまうのは1934年、翌年フリーダは別居してニューヨークへ旅立った。ディエゴの女関係に当てつけるようにフリーダも性的な放縦さが増して同性愛を楽しみ、彫刻家イサム・ノグチ(1904-88)と情事。また、スターリンの一国社会主義論に敗れた、ロシア革命のリーダーで永久革命論を唱えたトロツキー夫妻の亡命を1937年に受け入れ「青い館」にかくまうなかで、いつしかフリーダとトロツキーは密かな逢瀬を楽しむようになった。しかし、3年後にトロツキーは暗殺された。

1938年シュルレアリスムを創始した詩人アンドレ・ブルトン(1896-1966)が、フランス外務省から派遣されてアトリエのあるサンアンヘルの家に逗留する。フリーダの作品を見て、これこそシュルレアルと絶賛する。フリーダは、ニューヨークのジュリアン・リーヴィ画廊で初個展を開催、オープニングには女性画家ジョージア・オキーフ(1887-1986)や画家ベン・シャーン(1898-1969)、実業家ジョン・ロックフェラー(1839-1937)など、芸術家や社交界の人々が参集し、25点のうち約半数が売れた。人気の肖像写真家ニコラス・ムライ(1892-1965)とマンハッタンでの恋もあり、画家として自立していく。


ディエゴと離婚、そして再婚

1939年には、ブルトン主催の「メキシコ展」参加のためパリへ向かう。ピカソミロカンディンスキーらが祝福し、小品《フレイムと二羽の鳥と一緒の自画像(The Frame)》がルーヴル美術館に買い上げられた。しかしフリーダは、パリと議論好きなシュルレアリストたちに嫌気がさし、ニューヨークを経由して帰国する。するとディエゴから「気兼ねなくほかの女と付き合うために別れたい」と申し出があり、年末に離婚した。そして《二人のフリーダ》が描かれる。

翌年、ブランデーを毎晩一瓶空けるようになり、フリーダの生活は荒れて体調が悪化する。同年ディエゴの依頼により信頼するサンフランシスコの医師レオ・エラーサー博士が仲介に入り、二人は再婚した。体力が回復したフリーダは、1943年文部省絵画彫刻学校で絵画を教える。後遺症がひどくなって鋼製コルセットを1944年に使い始めると、皮製、石膏製など、30個近くのコルセットを使用することになった。この頃から日記をつけ始める。1946年に国立芸術宮殿全国展絵画部門で《モーゼ》が文部大臣賞を受賞。1953年現代美術画廊でメキシコ国内で初の個展を開催する。壊疽(えそ)になってしまった右足の膝から下を切断した。1954年7月13日、肺塞栓(そくせん)症のためコヨアカンの「青い館」にて死去。享年47歳。

生涯30数回に及ぶ手術をし、後遺症に苦しんだ。肉体と精神の痛みに抗わず、受容する力を身につけたフリーダの作品の多くは、レタブロ(奉納絵)の手法を取り入れた土着的な自画像で、約200点の作品が残された。フリーダは、メキシコ・シティのロトンダ・デ・ロス・オンブレス・イルストレス(名士の殿堂)に埋葬されている。


★──メキシコの教会で災厄から救われた後に、謝辞を金属板に書き込んで献納するもの。日本の絵馬に似たもので、手術や交通事故、崖くずれの瞬間などの絵が描かれており、一般の人が描くものとプロが描いた2種類がある。


【二人のフリーダの見方】

(1)タイトル

二人のフリーダ(ふたりのふりーだ)。英題:The Two Fridas

(2)モチーフ

フリーダ・カーロ、心臓、血管、鉗子、ロケット、ヴィクトリア朝のウェディングドレス、民族衣装のテワナ、籐の長椅子、雲。

(3)制作年

1939年。フリーダ32歳。

(4)画材

キャンバス・油彩。

(5)サイズ

173×173cm。正方形。フリーダの作品のなかでは最大。

(6)構図

遠近感が乏しく平面的だが、等身大で正面性が強い。

(7)色彩

白、青、赤、黄、緑、オレンジ、茶、ピンク、黒など、鮮やかな色彩で多色。

(8)技法

油彩画。薄塗りで筆触を強調せず、個々のモチーフは写実的に描いている。

(9)サイン

右下に「FRiDA KAHLO.1939.」と茶色で署名。

(10)鑑賞のポイント

結婚10年目の1939年、メキシコの著名な画家である夫のディエゴ・リベラから離婚を告げられたフリーダが描いた幻想的な二重自画像。浅黒い肌をしたフリーダは、ディエゴが愛していた民族衣装のテワナを身につけ、手には慈しむように少年時代のディエゴの写真が入ったロケット[図1]を持っている(右)。一方、ヴィクトリア朝(1837-1901)のウェディングドレスを着ているもうひとりのフリーダは、心臓が干からび[図2]、破裂した動脈を外科用鉗子(かんし)で止血している(左)。エル・グレコ(1541-1614)の風景にインスピレーションを得たと言われる不穏な暗雲が垂れ込める背景に、長椅子に二人が並んで腰かけ手を握り合う。むき出しの二つの心臓が一本の血管でつながっており、抜け殻のような白いドレスのフリーダは、生きるための血液を吸い取っているものの体液が少しずつ失われ、白いドレスは死装束のようで生きながらにして死んでいる。愛されないフリーダと愛されたフリーダ、フリーダの絶望と孤独の叫び、不安や痛みを可視化させた。痛みは生命保存のための注意信号であり、痛みを感じるのは生命があることの証である。1940年「国際シュルレアリスム展」(メキシコ芸術ギャラリー)と「20世紀メキシコ美術回顧展」(メキシコ近代美術館)に出品され、1947年にメキシコ近代美術館が4,000ペソで購入した。フリーダの代表作である。


図1 少年時代のディエゴの写真が入ったロケット(《二人のフリーダ》部分)


図2 干からびた心臓(《二人のフリーダ》部分)



葛藤を可視化

堀尾氏は《二人のフリーダ》が描かれた背景について、「フリーダは、ディエゴが離れたとき、つねに悲痛な叫びを絵にしている。その代表作が《二人のフリーダ》。つまり愛されている自分と愛されていない自分。なぜそれほどまでにディエゴに執着したか。それは互いの絵をもっとも理解し合っている仲間であり、メキシコ革命の同志でもあったこと、何より彼女は身体的条件もあってつねに生存の怯えのなかにあり、メキシコの大地にアイデンティティの根を張ることを望んでいた。そのメキシコを象徴するものがディエゴであり、ディエゴとの相克こそがフリーダの人生を形成していたと思う。フリーダほど自分の心のなかの葛藤を可視化した人を知らない。自分の裡から突き上げる慟哭を絵にしているが、それはすべてディエゴへの訴えでもあろう」と述べた。

メキシコの混沌とした光と影を見るようなフリーダの黒い髪と情熱的な顔立ち、挑むような怜悧な眼差しは、こちらの迷いを一瞬にして見抜かれるような怖さがある。「フリーダは芸術と人生が一体化し、自らの過酷な心身の痛みを白日の下に実にあっけらかんと晒している。フリーダほど鋭いかたちではないにせよ、それは誰にでも共通する普遍的テーマでもあり、見る者の迷いを浄化し、開放する力がある。それがフリーダブームの背景ではないか。いまや“現代のイコン”として人々の共感と崇拝を集めているのも頷ける」と堀尾氏。

ラテンアメリカ美術に詳しい元神奈川大学の加藤薫(1949-2014)教授は、フリーダ作品を「具象絵画でありながらモチーフの読みを許さない絵画のあり方は必然的に我々をより高次のレクチュールへと導く。それはドゥルーズの定義する〈変態〉、すなわち意味可能態が意味化する現場、に立ちあう時の驚きを伴う鑑賞である」(『夢人館3 フリーダ・カーロ』p.36)と記す。

堀尾氏は「フリーダの絵画は、既成概念や認識の枠組みを蹴破ってくる。これこそがアートの力。アートは政治や経済など社会を推進する枠組みの外にあるようで、実は閉塞感のある世の中に風穴を開ける力を持っている」と語った。



堀尾眞紀子(ほりお・まきこ)

文化学園大学名誉教授、美術史家、日本エッセイスト・クラブ理事長。1943年東京都出身。1968年東京藝術大学美術学部卒業、1969年から1970年フランス国立パリ美術工芸大学に留学、1972年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。1972年東京クラフトデザイン研究所講師、1978年文化女子大学講師、助教授、教授、2011年校名変更により文化学園大学教授・造形学部長、2019年退任。1982〜84年NHK教育テレビ(現Eテレ)「日曜美術館」の司会を務め、2023年より日本エッセイスト・クラブ理事長。専門:フリーダ・カーロを中心とする女性画家論。主な受賞:1987年第35 回日本エッセイスト・クラブ賞(『画家たちの原風景』日本放送出版協会)。主な著書:『フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像』(中央公論社、1991)、『鏡の中の女たち 女性画家の自画像』(文化出版局、2002)、『女性画家 10の叫び』(岩波書店、2013)など。

フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)

メキシコの画家。1907~54年。メキシコ市郊外のコヨアカンにドイツから移住してきた写真家の父ギジェルモ・カーロと、スペイン人とインディオの混血である母マティルデ・カルデロンとの4人姉妹の三女として生まれる。父は再婚だったため異母姉2人がいた。6歳のとき小児麻痺にかかり右足が不自由になる。医師を目指して、1922年国立予科高等学校に入学。そこで壁画を制作中だった国民的画家ディエゴ・リベラと出会う。学校では社会主義を標榜する文学集団「カチュチャス」に入り、リーダーのアレハンドロと恋愛。1925年18歳のときアレハンドロと乗った木造バスが路面電車と衝突し、瀕死の重傷を負う。療養中に自己流で描いた自画像がディエゴに褒められる。1929年22歳で43歳のディエゴと結婚。1934年夫と妹クリスティーナの情事が発覚。翌年ディエゴと別居し、ニューヨークへ旅行。1937年政治家トロツキー夫妻の亡命を受け入れ同居。1938年シュルレアリストのアンドレ・ブルトンがサンアンヘルのディエゴ家に逗留。ニューヨークのジュリアン・リーヴィ画廊で初個展。1939年ブルトン主催の「メキシコ展」に参加するためパリへ行き、帰国後に離婚。翌年医師レオ・エラーサー博士の仲介によりディエゴと再婚。1943年文部省絵画彫刻学校教師に任命。1946年《モーゼ》が国立芸術宮殿全国展絵画部門で文部大臣賞を受賞。1953年メキシコの現代美術画廊で国内初の個展。壊疽にかかった右足を切断。約200点の作品を残し、1954年7月13日、肺塞栓症でコヨアカンの生家「青い館」にて死去。生涯30数回手術をし、後遺症に苦しむ。享年47歳。代表作:《二人のフリーダ》《ヘンリー・フォード病院》《私の誕生》《私の乳母と私》《ハチ鳥とイバラのネックレスをつけた自画像》《希望の樹、しっかりと立て》《折れた支柱》《スイカ“生命万歳”》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:二人のフリーダ。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:フリーダ・カーロ《二人のフリーダ》1939年、キャンバス・油彩、縦173×横173cm、メキシコ近代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:メキシコ近代美術館、Schalkwijk、Art Resource、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式64.3MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:コレクション番号=ART60404(Jpeg形式64.3MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:メキシコ近代美術館、Schalkwijk、Art Resource、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《二人のフリーダ》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACからメールが届き、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、64.3MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像のトリミングは2点まで、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。メキシコ近代美術館のWebサイトにある作品を参考に、Photoshopで色調整を行なった(Jpeg形式64.3MB、300dpi、8bit、RGB)。本画像は、ところどころフィルムに付着していたと思われる細かい糸くずのような汚れが見えた。活用の多い本作品こそ、デジタルカメラに切り替えて、作品の状態が鮮明にわかる画像を提供してほしい。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・ヘイデン・エレーラ著、野田隆+有馬郁子訳『フリーダ・カーロ:生涯と芸術』(晶文社、1988)
・ホイットニー・チャドウィック著、伊藤俊治+長谷川祐子訳『シュルセクシュアリティ──シュルレアリスムと女たち 1924-47』(パルコ出版局、1989)
・小柳玲子企画・編集『夢人館3 フリーダ・カーロ』(岩崎美術社、1989)
・図録『フリーダ・カーロ展』(西武美術館、1989)
・堀尾眞紀子『フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像』(中央公論社、1991)
・ローダ・ジャミ著、水野綾子訳『フリーダ・カーロ──太陽を切りとった画家』(河出書房新社、1991)
・マルタ・ザモーラ著、マリリン・ソード・スミス編、北代美和子訳『フリーダ・カーロ──痛みの絵筆』(リブロポート、1991)
・J.M.G.ル・クレジオ著、望月芳郎訳『ディエゴとフリーダ』(新潮社、1997)
・マンドレア・ケッテンマン著、ABC Enterprises訳『フリーダ・カーロ:その苦悩と情熱 1907-1954』(タッシェン・ジャパン、2000)
・堀尾眞紀子『鏡の中の女たち 女性画家の自画像』(文化出版局、2002)
・ラクェル・ティボル著、加藤薫訳「マリア・イスキエルドとフリーダ・カーロの芸術に見られるシュルレアリスト的要素について」(図録『フリーダ・カーロとその時代展』野中雅代監修、東京新聞、2003、pp.17-28)
・上野清士『フリーダ・カーロ~歌い聴いた音楽~』(新泉社、2007)
・森村泰昌+藤森照信+芸術新潮編集部『フリーダ・カーロのざわめき』(新潮社、2007)
・クリスティーナ・ビュリュス著、堀尾眞紀子監修、遠藤ゆかり訳『フリーダ・カーロ──痛みこそ、わが真実』(創元社、2008)
・堀尾眞紀子『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』(ランダムハウス講談社、2009)
・イザベル・アルカンタラ、サンドラ・エグノルフ著、岩崎清訳『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』(岩波書店、2010)
・堀尾眞紀子『女性画家 10の叫び』(岩波書店、2013)
・石内都『フリーダ 愛と痛み』(岩波書店、2016)
・マリア・ヘッセ著、宇野和美訳『フリーダ・カーロ──絵でたどるその人生』(花伝社、2020)
・フリーダ・カーロ著、堀尾眞紀子解説、星野由美+細野豊訳『フリーダ・カーロの日記 : 新たなまなざし』(冨山房インターナショナル、2023)
・Webサイト:「FRIDA KAHLO (1907-1954) Las dos Fridas, 1939」(『MUSEO DE ARTE MODERNO』)2023.10.5閲覧(https://mam.inba.gob.mx/destacadas.html#obra18




掲載画家出身地マップ
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2023年10月

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