2021年07月15日号
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アート・アーカイブ探求

円山応挙《雪松図》 神々しい気の写生──「佐々木丞平」

影山幸一

2009年11月15日号

対極を理解する

 中学・高校時代は陸上選手として県を代表する活躍をしていたスポーツマンの佐々木氏が、日本美術史へ関心を寄せるようになったのは、京都大学の学生時代の先生の影響だった。日本の古美術が好きなフランス文学の先生が「日本の伝統美術もいいよ」と。佐々木氏は3回生になったとき、思いきって美学美術史学を専攻した。卒業論文は、文人画で大成した「与謝蕪村」。俳人、画家、詩人でもある。日本近世絵画史の研究者として文人画から入って行った。そして文人画を調べるためには、同時代の写実的な絵を描いていた応挙を知る必要があり、応挙研究を始めたのだと言う。文人画を理解するには、対極にあるものも併せて理解しないとしっかり研究できないと思ったそうだ。応挙と交流のあった皇室の血を引く円満院(滋賀県大津市)門主の祐常(ゆうじょう)によって、応挙の言葉が記録された『萬誌(ばんし)』の解読から応挙研究をスタートさせたと言う。
 佐々木氏は研究者である一方で、京都大学附属図書館館長、京都大学大学文書館館長、京都国立博物館館長と知的財産・美的財産を管理運営する現場を歴任している。博物館、図書館、文書館とデジタルアーカイブで推進しているMLAの連携を、一人で横断してきたという稀有な経験に偶然と苦笑するが、佐々木氏の今後の国立博物館運営の采配が全国ミュージアムの情報化のゆくえを左右することになるだろう。
 12月5日に東京国立博物館で行なわれるアート・ドキュメンテーション学会では、MLAの国立の館長が国内で初めて鼎談する。ミュージアム界を代表する佐々木氏と、ライブラリーの長尾真氏(国立国会図書館館長)、アーカイブズの高山正也氏(国立公文書館館長)である。対極を理解するという研究者としての原点をもつ佐々木氏が、MLAの連携をどのように具体的に進展させるのか、その手腕に期待したい。

精神をのせる乗り物

 円山応挙は享保18(1733)年、農民の次男として丹波国桑名郡穴太村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に生まれた。幼い時から奉公に出された境遇にも関わらず、日本美術界に狩野派とは異なる潮流を築き巨匠となった。この背景には日々の精進があったに違いないが、皇室から町衆まで人気を得ていた応挙の優しくまじめな人柄と、武士の家系だった母からの精神的な支援もあったのだろうと佐々木氏は推測する。
 応挙以前の日本の絵画は絵空事が多かったという。つまり自分の頭にあるイメージを外在化させて描くのだ。写生は既にあったが、狩野派などが取り入れた写生は、花や鳥という個々のモチーフを思い出すための簡略な記録であり、“手控え”と呼んでいた。当時は師の画風を習うことが、対象物を観察するより重要視されたので、応挙の描く絵は、芸術ではなく単に図に過ぎないと批判もあった。
 応挙は狩野探幽の流れをくむ鶴沢探鯨(たんげい)を師事した石田幽汀(ゆうてい)に絵を学び、写生に目覚めていくが、時代の気風に影響を受けたところが大きい。「当時社会の流れとして、陽明学の“格物究理(かくぶつきゅうり)”という言葉が出てきた。物を正し、道理を極める。一つひとつの事物について調べ、道理や法則を深く追求することであるが、例えばこの時期に幕府の政治的な悉皆(しっかい)調査政策があった。それぞれの藩の地域でどういう動植物が生息しているのか、それは薬に使えるか、人間生活に役立つのか。動植物を見て正確に記録に留めるものである。文書とともに物の特徴を絵に描くことが求められた」と佐々木氏が語った。
 そして応挙の写生は、対象物を直に観察することに力点が置かれた。花や鳥を見ながら描き、その取り囲む環境を空間ごと写し取った。「心の中を本当に表現するためには、自分が見つめた対象の形を正確に表わせなければ、そのものが持つ精神性は描けない。外界の部分がきちんと描けて初めて、精神をのせる乗り物ができる、と考え方を逆転させた」と佐々木氏は言う。しかも多視点であらゆる部分を詳細に描く植物図譜のようではなく、1つの視点を自分で定めて、その視点から理解しながら物を見ていくことでそのものの本質、総体が実感できるのではないか、と考えた。一つの物を見つめるときは、最低3つの異なる視点からものを見ないと、そのものの形を正確に把握したことにならないとも応挙は説いていると言う。
 また、対象物に視線を送るということは、心を向けること。自然が美しいと考えていた応挙の思いが「生を写し気を描く」という、独自の写生画へと進化していった。

  • 円山応挙《雪松図》 神々しい気の写生──「佐々木丞平」

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