アート・アーカイブ探求

曾我蕭白《群仙図屏風》狂気なる自我──「狩野博幸」

影山幸一

2010年03月15日号

その時代の目

 JR京都駅から約40分、近鉄の急行を利用し、興戸(こうど)駅から長い坂道を登った頂上に同志社大学京田辺キャンパスはあった。ドアを開けるとたばこを手に原稿執筆中であった狩野氏が出迎えてくれた。いまどきたばこを吸うのは大変だろうなぁと思いながら、直ぐに本題に入った。
 狩野氏は国文学に興味があり、作家志望だったという。九州大学文学部の学生時代には『北斎漫画』を研究し、卒業後は大手広告代理店に入ろうとしたが、結局大学院へ行き、近世文学者の中村幸彦先生の“その時代の人の目になる”という理論を美術に応用して修士論文「江戸人から見た北斎漫画」を書いている。中村先生は狩野氏の直接の師ではないが、22歳のこの出会いによって人生が決まったと言う。
 そして、狩野氏は現在残っているものは残されてきている、ということに気づいて、われわれはそれを理解しなくてはいけないと思った。それから理論はぶれなくなったそうだ。「古典の研究で最も大切なことは、現代の感覚で作品や画家を律しないことだ。その作品が生まれた以後の新しい知識を用いることは厳に慎まなければならない」と言う。狩野氏は初め浮世絵研究から入り、4年ほど帝塚山大学に勤め、京都国立博物館へ移った。京都国立博物館の蔵の鍵を預けられ、中に入って見たとき、おそるべき蔵だと思ったと言う。こんな作品をこんなに自由に見れる環境はない。何物にも代えがたいものがあった。今残っているものを理解するというときに、残されているものの山である博物館に入ってしまったと狩野氏は笑った。

無頼の誇り

 蕭白は1730年(享保15)京都に生まれ、丹波屋という江戸に支店を出すほどの大きな京染めを扱っていた商家に育つが、江戸にいた兄に続き、父や母を数え年17歳になるまでに亡くしてしまう。蕭白は天涯孤独となる。丹波屋はつぶれ、荒野の中にひとり突き出された。蕭白を救ったのは絵を描けることだったと狩野氏は見ている。鈴木其一も歌川国芳も染物屋だった。染物屋は絵心がないといけない。蕭白が向かった先は、丹波屋に出入りしていた木綿屋のところだ。木綿の産地である伊勢、播州(兵庫)に行って絵を描いた。それが現在も残っている。蕭白は染物屋だったことが、画家・蕭白に大きな影響を与え、不幸だったけれど幸いしたと狩野氏は言う。
 そして蕭白を語るときには伊藤若冲と一緒に見た方がいいと狩野氏は述べている。若冲の精神的サポーターであった黄檗宗の僧である売茶翁(ばいさおう)と親しい僧侶で漢詩人でもある天台の金龍道人がある日、江戸から京都にやってきた、と狩野氏は続けた。自分のことを「我レハ釈迦法中ノ無頼ノ僧」と言い、“自由清新”という主張をした人だ。『平安人物志』の学者の部にも出ているほどの一流の人物だが、本願寺の僧侶の前でわざと肉を食い、出入り禁止となる。この人が“無頼”という言葉を使い始めた。無頼は孤立することの怖さもあるが、むしろ誇りを表した言葉。蕭白はおそらく、同時代にいたこういう孤立を保証してくれる人物に影響を受けていたに違いない。若冲の売茶翁のように、蕭白のバックボーンには金龍道人がいたと狩野氏は推測している。蕭白は若冲と同じ町衆の息子という身分でありながら、若冲は逆境がなく、絵は息苦しくない。そして若冲は妻もいない。蕭白の場合、絵はほとんどが水墨画であり、絵を描かないと生活ができない。同じ京都の同じような出自にも関わらず、二人の青年を襲っていった環境は全く違う。江戸時代京都に生きた奇想の画家たちの生き方、その共通点と差異に時代の空気が漂う。

残しも残したり

 18世紀の京都を見て行くと、重層的でかつ熱気が伝わってくると狩野氏は言う。当時、蕭白は狂人といわれていた。北斎も自分を画狂人と呼んでいる。その流れが河鍋暁斎にある。つまり“狂”ということを18世紀に京都の哲学者が言い始めたと狩野氏。人と違う“狂なる精神”、まともとは違う、その違いこそが芸術の根本である。
 さらに、「蕭白の絵をみんな変な絵というが、しかしそれを望む人がいる。たしかに変わった絵ではあるが、変わっている絵を残す人たちがいることを見落としてはいけない。こういうものを支持している人がいる。なぜ支持するのかと言えば個性を出しているからだ。狩野派は上手であっても決まり切った絵しか描かない。18世紀の文化圏で個性的な絵が作られている。蕭白を支える人たちがいる。描きも描いたり、残しも残したり。時代が人を作るのか、人が時代を作るのか、これは永遠の謎だ。奇人たちがうわぁーと集まって生きて行く中に、蕭白や若冲などの絵描きがいた。また漢詩というのは芸術の中で最も高い位置にあった。いわゆる詩論が芸術を決めていた。漢詩の動向を見て行くといろいろなことがわかってくる。詩論ではこういう言い方をしている。〔上手な人の詩を使ってうまいといわれるよりは、自分の言葉を吐き出して、下手と言わる方がよっぽどいい〕つまりここでは個性(自我)ということが言われている。個性は18世紀にある。この時代は精神の黄金時代だ」。江戸時代、怪醜によって美と快感を作り出す技術を心得ていた蕭白が、醜いもの、怪しいものを描いて評判を呼んでいた状況が浮かんでくる。

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