2021年07月15日号
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アート・アーカイブ探求

田中一村《不喰芋と蘇鐵》──トロピカルな精霊花鳥画「松尾知子」

影山幸一

2010年09月15日号

スミソニアンの日本美術

 松尾氏の専門は日本近世絵画史である。現在館長を務めている小林忠氏の下で学習院大学大学院在学中に美術史を専攻したことが、学芸員への道となった。「様式(形)で歴史が語れるというのが不思議で面白かった」と言う。学部生のときに19のミュージアムから成るアメリカのスミソニアンでインターンをした。美術史のなかの日本美術史や、博物館・美術館という施設に目が行くようになり、異国の地にある俵屋宗達の《松島図屏風》(フリーア美術館蔵)を見たことが心に沁みたそうだ。千葉市美術館設立前の準備室の時代から美術館に関わり、これまでに「伝説の浮世絵開祖 岩佐又兵衛展」や「キンゼイコレクション 現代根付展」など、派手ではないが見落とせない展覧会を企画してきている。
 松尾氏と田中一村の最初の出会いは学生時代だが、15年以上前の準備室の時代に地元ゆかりの作家として作品を収集する話があり、一村の名が具体的な存在となった。当時は経済も一村人気もバブルの状態で、松尾氏は千葉そごうで開催されていた「田中一村展」に行ったが、個々の作品の印象が記憶にないほど批判的にしか見ることができなかったと言う。
 2008年一村誕生100年を契機に、一村ゆかりの地にある公立美術館が共同して、改めて一村の作品や資料を調査することになった。今までは奄美時代の作品群と、それらを生み出した一村の反俗的な生き方が魅力となって伝説が生まれてきたが、松尾氏は出来る限り作品と資料に沿って、一村の実像を明らかにすることを心掛けたという。「ひとりの独学の画家が、妥協を拒否し、在野で生き抜いた。その画家の命を削った作品と向き合ってもらいたい」と語る。

南へ、島へ

 田中一村(本名は孝)は、1908(明治41)年に現在の栃木県栃木市に6人兄弟の長男として生まれた。幼い頃から彫刻家の父・彌吉に南画や彫刻を習い、7歳の児童画展では天皇賞(文部大臣賞とも)を受賞する。14歳のときに描いた《泥中君子(でいちゅうくんし)》には、すでに奄美に通じる個性が垣間見られる。特に師を決めなかった一村だったが、日本の文人画や呉昌碩(ごしょうせき)や趙之謙(ちょうしけん)たち、中国の上海海上派などに学びながら、1926(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。同級生に東山魁夷や橋本明治らがいたが、「家事の都合」により2カ月で退学した。その後は、硬質な筆使いの写実的な《桜之図》(1931)や縦長の画面一杯に色彩を配した《秋色》など、先行作品の模写的作画をしている。また「本道と信ずる絵」として水辺の土手の印象を水彩画のように自由に描いた《水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹》(1931頃)や、《仁戸名蒼天》《黄昏》のように絵具の質感や構図に配慮した作品など、オリジナリティーの模索が続いた。そして1947(昭和22)年には画号を「米邨(べいそん)」から「柳一村」、のち「田中一村」と改め、青龍社展に出品した《白い花》が初入選する。しかし、その後公募展の落選が相次ぎ、挫折感を味わい、次第に画壇から離れ孤立していった。1958(昭和33)年、一村は生涯独身だったが、長く生活を共にし敬愛していた姉の喜美子と別れ、住み慣れた千葉寺町を去り、画家人生を賭けて単身奄美大島へ渡った。奄美では大島紬の染色工として働きながら、絵画にすべてを注ぎ込んで1977(昭和52)年9月11日、69歳の生涯を閉じた。
 一村は栃木に5歳まで住み、6歳から29歳までは東京、30歳から20年間を千葉で過ごし、そして50歳で奄美に向かっている。南国沖縄には伝統絵画の山口宗季(そうき)や長嶺華国(かこく)等が、花鳥画や芭蕉を描いている。絵画に没頭するためとは言え、なぜ南なのか。なぜ奄美なのか。計算された野心があったのだろうか。一村が奄美大島を選んだ理由を松尾氏は次のように述べている。「いろいろな理由があると思うが、北でなく南というのは九州、四国、紀州へ旅した経験があってのことだろう。また公募展の落選が続いて、50歳になり最期の心機一転というのもあったと思う。当時日本の最南端であった奄美に行ってしまったら、引き返せないというのもありそうだ」。
 奄美大島は、佐渡島より一回り小さい周囲約460キロメートル、面積約720平方キロメートル。意外にも年間の日照時間が日本一短く、降水量も多いことからグレーの世界などといわれるが、タンカン、ポンカン、ガジュマル、アダン、ビロウ、ヘゴやマングローブ原生林など、都会にはない360度海に囲まれた亜熱帯の大自然がある。1953(昭和28)年にアメリカの占領下から日本に復帰した奄美群島。一村は南へ、プリミティブな何かを求め、奄美を目指した。

【不喰芋と蘇鐵の見方】

(1)モチーフ

立神(たちがみ:海に立つ岩)、クワズイモ、ソテツ、ハマナタマメ、ハスノハカズラ、ホウライシダ。

(2)題名

不喰芋と蘇鐵。一村が生きているときには展覧会に出品されておらず、正式な題名はわからない。現在の題名は一村が付けたものではない。今後の調査によっては題名が変わる可能性もある。

(3)構図

近景と遠景の対比が明確。遠景に、尊いものを配置する縦長の構図は、山水画の構造。また写真を参考にしたというよりも、絵をつくるために写真で構図を検討して撮っている。一村の二眼レフカメラの画面は真四角、そして描き続けた色紙も真四角、真四角から構図を考えるというのは一村の特徴。

(4)色

多色。ひとつのモチーフの中に濃い、薄いだけではなく、いろいろな色を使い分けており、そのこっくりとした顔料の質感までが迫ってくるようだ。特に緑色は、アトリエに100種類ほどの顔料が残されていた。

(5)描法

特別に厚塗り。日本画にもかかわらず、日本画でないように見える。制作は、スケッチや下絵を原寸大に描き、構想した配置図の各位置に落とし込み、組み合わせる。モチーフは、重なるように描き、だが隣合うものは重ねないよう塗り分け、画面からあふれ出て、遠近感のある空間をつくっている。黒い輪郭線を植物の片側に入れているのが特徴。

(6)サイズ

155.5×83.2cm。一村のほかの作品と比較して少し横幅が広い。

(7)制作年

昭和40年代(1965〜1974)。昭和42年から同45年に着手し49年に完成とした可能性が高い。

(8)画材

絹本(けんぽん)、膠、岩絵具。

(9)画風

花鳥画。日本画的な写生や、洋画的な写実を基に、南国特有の植物と風景を魅力的に描き上げている。

(10)落款

一村。一村がこの絵を描いているときは、落款に関心がなく、落款を入れるつもりはなかった。絵を購入する人の求めに応じて絵を売ったあとに落款は書かれた。落款を書き入れるところがないなかで、右下に苦労して書いている。印は押したのではなく、書いているのかもしれない。

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