アート・アーカイブ探求

田中一村《不喰芋と蘇鐵》──トロピカルな精霊花鳥画「松尾知子」

影山幸一

2010年09月15日号

立神の風景

 「閻魔大王への土産品」と一村が手紙に書き残したように、《不喰芋と蘇鐵》と《アダンの海辺》は晩年の一村が納得いくまで、とことん取り組み執念を実らせた作品だ。松尾氏は《不喰芋と蘇鐵》は、空の色の明暗と取り囲むような植物の配置で、遠景にある立神に目が行くようにつくられており、さらに不喰芋の花の成長の様子を同一の画面に描いているのは、理想郷的世界を組み上げる絵画ならではの着想だと読み解いた。今回の展覧会のために行なった調査では、《不喰芋と蘇鐵》の構想画のようなスケッチブックや紙の切れ端が出てきた。それらを見ると、一村が画面の四隅から決めていった様子が見て取れるそうだ。特に画面の中で最も大きい丸とした不喰芋の葉をどうもっていくかに苦心が見られ、込み入ったものをその後どう配置し、どう重ねるかを工夫していったようだ。
 松尾氏は「一村は、花鳥画の伝統が沁みついている人だと思う。山水画をずっと描いていた人だし、絵の描き方にそれらの原理がある。描いたモチーフが南国的なので、目新しく見えるが、例えば縦長の構図を使い、その四角い画面の上や遠い部分に、尊いものがくる。近景に現実世界、遠景に尊い世界。そこへ連なる仕組みをつくって中景がそのあいだを繋ぐ、これは伝統的な発想だ。《不喰芋と蘇鐵》では中景を飛ばし、強烈な対比が印象深いが、近景と遠景の絵のつくり方は、伝統的な構成原理に基づいている」と述べた。
 奄美では港口や沖合に屹立する岩を「立神」といい、土地の信仰と結びついている。《不喰芋と蘇鐵》は、奄美の生き物の繁栄と奄美の信仰を表わした「奄美曼陀羅」という説や、かつて島民たちが風葬していた霊地に一村が立って見た景色という説、あるいは人間が避けることのできない4つの苦悩「生老病死(しょうろうびょうし)」を表わしたという説、一村が世話になっていた姉の喜美子を立神に見立てる説など、さまざまな作品の解釈が出ている。
 画面左の不喰芋の花は、黄緑のさやから黄色い花芯をのぞかせ、あるものは真っ赤に熟れた実をはじき出している。画面右の黄色い蘇鐵の雄花と左下のオレンジ色の蘇鐵の雌花。実際にはこれら花と実の生態を一株で一度に見ることは難しいが、一村はエロティックな不気味さをも魅力にし、生命の循環を表現したのだろう。大きな曲線が形づくる不喰芋の葉、ムカデの足のような蘇鐵の葉、皮をむいたトウモロコシのような蘇鐵の雄花、イソギンチャクのような蘇鐵の雌花、外に目を転じれば静かな海に凛と立つ立神、空は神の時間といわれる夕暮れ。そして右下には子孫繁栄を意味するハマナタマメの薄紫色した花が清楚に咲いている。風景にクローズアップの植物を組み合わせる大胆な空間構成の中に、奄美大島の精霊たちが象徴的に描かれている。
 現在もこの《不喰芋と蘇鐵》は個人蔵である。一村が存命中に奄美のホテルで作品を見せたとき一村に購入を申し入れた。暮らしぶりを気の毒に思って購入したと報じられもしたが、「一村が貧乏だから絵を買ったのではない、と強く所有者は仰っていた」と松尾氏。作品は田中一村記念美術館に寄託している。

一村探求の始動

 アンリ・ルソーは「自然を観察して見たものを描くほど、私を幸福にするものはない」と言ってはいるが、フランスから一歩も出ずに、新鮮な詩情をたたえ、克明に熱帯のジャングルを描いた。生活環境すべてが芸術活動と一致していた一村とルソーとは正反対であった。一村は新聞や雑誌などいろいろなものを切り抜いておく習慣があったが、それら資料のなかにはルソーのものは無かったそうだ。
 1980年代メディアによって一躍多くの人々の関心を得、作品が教科書に載るなど、従来にない経緯で有名になった一村。その一村の生涯を描いた映画『アダン』(2006)も公開されている。
 現在開催中の「田中一村 新たなる全貌」展は、時系列に約250点の作品が展示され、順路に沿って行くと今までイメージしていた孤高の一村とは異なる一面を見ることができる。色紙や掛け軸、襖、屏風などに文人画や日本画を描き、多くの人に支えられ交流していたことがわかる。一村は自然観察と精神鍛練に集中し、日本画家の生き方を貫いた。一村の作品と資料を網羅したずしりと重いハードカバー359ページの図録が、過去最大規模の今展の充実度を表わしている。
 3年前から展覧会に取り組んできた松尾氏は「彼の生き方は素晴らしかったけれど、苦しい生き方までして残したかったのは、この“絵”。この絵から発せられるものと向き合ってほしい。奄美大島で制作した作品が有名だが、東京時代や千葉時代の作品を併せて作品を通観すると、奄美での到達点に至るまでの紆余曲折が見て取れて面白い」と語った。
 一村が命を削って描いた《不喰芋と蘇鐵》。大作は残されたが、一村はいまだ異端の画家に変わりはない。トロピカルな花鳥画一枚の作品から、一村の日本画の世界、日本の絵画、日本の美術へと探求が広まる。田中一村記念美術館がそのミッションを担い、ミュージアムとアーカイブズ機能を併せ持つ施設として、世界に開かれた一村研究の拠点となることを期待したい。

「田中一村 新たなる全貌」

[会場・日程]
千葉市美術館:2010年8月21日〜9月26日
鹿児島市立美術館:10月5日〜11月7日
田中一村記念美術館:11月14日〜12月14日


主な日本の画家年表
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松尾知子(まつお・ともこ)

千葉市美術館学芸員。日本近世絵画史専門。1967年千葉県生まれ。1986年学習院大学文学部哲学科入学。1994年同大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得退学。1993年から千葉市美術館開設準備室を経て、現在に至る。主な企画展に「祝福された四季」「珠玉の日本美術」「現代根付」「絵巻物──アニメの源流」「伝説の浮世絵開祖 岩佐又兵衛」「浦上玉堂」「大和し美し 川端康成と安田靫彦」など。主な論文に「〔木曽義仲合戦図屏風〕をめぐって」(採蓮, 1999)、「立林何[ゲイ]筆 扇面貼交屏風」(國華, 2007)など。

田中一村(たなか・いっそん)

日本画家。1908〜1977年。栃木県下都賀郡(現栃木市)生まれ。木彫家の父彌吉、母セイの6人兄弟の長男。本名は孝。「米邨」「柳一村」の号。6歳の時、一家で東京に移転。1926(大正15)年東京美術学校(現東京藝術大学)日本画家に入学、2カ月で退学。23歳「本道と信ずる絵」を支援者に示すが賛同を得られず義絶となる。30歳で千葉市に移住、当地の自然と風景を題材に制作。第19回青龍展初入選するが、その後は公募展に落選し、画壇とは絶縁。1958(昭和33)年、50歳にして当時日本最南端であった奄美群島の奄美大島の名瀬市に単身移住。紬工場の染色工などで働き、亜熱帯の動植物を描く。生前作品を発表することなく、69歳で没した。1984年NHKテレビ「黒潮の画譜〜異端の画家・田中一村」がブームの口火となる。代表作に《不喰芋と蘇鐡》《アダンの海辺》《榕樹に虎みゝづく》《枇榔樹の森》《海老と熱帯魚》《熱帯魚三種》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:不喰芋と蘇鐵。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:田中一村, 昭和40年代(1965-1974)制作, 絹本着色, 155.5×83.2cm。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者: NHK出版。日付:2010.9.10。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 5MB。資源識別子:4×5カラーポジフィルム (FUJIFILM CDUII 34183 DI DJBB)。情報源:NHK出版。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:新山宏, NHK出版



【画像製作レポート】

 《不喰芋と蘇鐵》の所有者は個人だが、田中一村記念美術館が受託しており、また写真の窓口はNHK出版だった。当方で作成した概要をNHK出版へFaxし、その後電話で作品のポジフィルム借用を依頼。直接電話で著作権者から了解を得ることもでき、条件付きで特別許可を得る。(1)展覧会会期中の2010年10月25日までの画像掲載 (2)絵の部分に電子透かしを入れて画像のコピーを防止 (3)フィルムからスキャンしたすべてのデータを消去し、その抹消証明書を提出などの条件付きで、4×5カラーポジフィルム(カラーガイド・グレースケール付き)を入手。代金は1画像31,500円。
 フィルムのスキャニングはプロラボへ。300dpi・10MB・TIFF、1枚で1,050円。iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、画像の色調整作業に入る。モニター表示のカラーガイド/グレースケールと作品の画像に写っているカラーガイド・グレースケールを目視により色を調整し、縁に合わせて切り抜く。
 Photoshop形式:5MBに保存する。モニター表示のカラーガイド/グレースケール(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN, 8bit, 600dpi)。
 画像が同じでも印刷物(CMYK)とモニター(RGB)では異なって見えるものだが、《不喰芋と蘇鐵》では共に美しく感じた。しっとり落ち着いて見える印刷物と真新しく新鮮に見えるモニター。写真に興味をもつ一村が光を巧みに扱った成果が表われている。
 セキュリティーを考慮して、画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。



参考文献

松元邦暉「発掘 画壇を捨てた“凄い画家”田中一村」『芸術新潮』第36巻第10号通巻430号, p.50-p.55, 1985.10.1, 新潮社
『沖縄美術全集4 絵画・書』1989.11.30, 沖縄タイムス社
山本和弘「田中一村研究」『栃木県立美術館[紀要]No.12=1989年度』, p.43-p.70, 1990.3, 栃木県立美術館
南日本新聞社(中野惇夫)編『アダンの画帖 田中一村伝』1995.4.1, 小学館
図録『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界(3)』1995, NHK出版
南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』1999.6.1, 小学館
図録『田中一村作品集[新版]』2001.10.25, 日本放送出版協会
図録『鹿児島県奄美パーク田中一村記念美術館 新規収蔵作品と写真資料』2002.3, 鹿児島県奄美パーク田中一村記念美術館
山本和弘「田中一村研究(二)写真」『栃木県立美術館[紀要]No.15=2002年度』, p.3-p.35, 2003.3, 栃木県立美術館
大矢鞆音「連載 田中一村 豊穣の奄美 【第一回】〜【第十四回】」『美術の窓』通巻240号〜通巻254号(250号除く), 2003.4.20〜2004.5.20, 生活の友社
大矢鞆音『田中一村 豊饒の奄美』2004.4.25, 日本放送出版協会
白尾芳輝「音羽日記 田中一村」『DECIDE』6月号, p.63-p.65, 2004.6, サバイバル出版
太田秀夫「田中一村の遊印の彼方に」『鹿児島国際大学短期大学部研究紀要』第75号, p.1-p.31, 2005.3.1, 田平暢志
湯原かの子「トポスとしての南島 ポール・ゴーギャンと田中一村」『国際コミュニケーション学会誌「国際経営・文化研究」』Vol.10, No.1, p.187-p.199, 2005.11.25, 国際コミュニケーション学会
岡谷公二『絵画のなかの熱帯 ドラクロワからゴーギャンへ』2005.12.1, 平凡社
湯原かの子『絵のなかの魂──評伝・田中一村』2006.5.25, 新潮社
大矢鞆音「田中一村 〔南の琳派〕に見る自己流滴の道」『月刊美術』9月号, 第32巻第9号通巻372号, p.42-p.43, 2006.9.20, サン・アート
図録『沖縄文化の軌跡 1872─2007』2007, NPO法人沖縄県立現代美術館支援会happ
茂山忠茂・秋元有子『奄美の人と文学』2008.4.20, 南方新社
図録『特別展 生誕100年記念 田中一村展──原初へのまなざし』2008.10.18, 奈良県立万葉文化館
大矢鞆音『もっと知りたい田中一村──生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション)』2010.5.30, 東京美術
松尾知子「開館15周年記念特別展 田中一村 新たなる全貌」『C’n』Vol.55, p.4-p.5, 2010.7.6, 千葉市美術館
図録『田中一村 新たなる全貌』2010.8.21, 千葉市美術館・鹿児島市立美術館・田中一村記念美術館
小川雪「beアート 美と出会う 〔孤高の画家〕意外な一面──〔田中一村 新たなる全貌〕展」『朝日新聞』夕刊, p.3, 2010.9.8, 朝日新聞社
Webサイト:田辺周一『Syuichi Tanabe Homepage』(http://www6.ocn.ne.jp/~hitotono/)2010.9.8
Webサイト:太田秀夫『田中一村の遊印(やまももの部屋)』(http://yamamomo02.web.fc2.com/myart.htm)2010.9.8
Webサイト:NHK出版『田中一村の世界』(https://www.nhk-book.co.jp/goods/isson/)2010.9.8

2010年9月

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