アート・アーカイブ探求
福田平八郎《漣》──乾性の詩情「島田康寬」
影山幸一
2011年04月15日号
平八郎様式
島田氏は、福田平八郎に関する編著書が多く、2007年には京都国立近代美術館で開催された『福田平八郎展』の監修者を務めている。1945年奈良県橿原市に生まれた島田氏は、子どもの頃より遺跡の多い環境で育ち、考古と歴史に関心を持ったと言う。思春期に石川啄木を知り文学に目覚め、中学二年時は二紀会の新進の画家だった図工(美術)の先生が話をしてくれた美術史が気に入り、高校では東北大学を出た先生から美学を教わり、そして美学科のある大学を受験するようになった。だが詩などをつくっている島田氏にとっては、美学の理論では満足できず、美術史を学んで、作家の内側から作品を見ていきたいと思うようになる。
島田氏と日本近代美術との出会いは、仕事の必要性からだと言う。島田氏は最初奈良県文化会館に就職し、まもなく新設された奈良県立美術館に転じた。この間、仏教美術が多いイメージの奈良であるが、島田氏は奈良の近代美術を掘り起こすことを思い立ち、京都を含めた関西、さらに日本全国の近代美術を調べ始めた。
初めて島田氏が平八郎の作品と出会ったのは、平八郎が亡くなった翌年の1975年2月、京都市美術館で開催された『福田平八郎遺作展』であったと言う。《漣》のほか、平八郎の作品全体が今まで見たことのない絵として記憶に残った。そして日本画家の新しいあり方を示す平八郎に惹かれていった。本人とは会っていないそうだが、繰り返し同一主題に取り組みながら、絶えず感性を成長させ、観照を深め、そのことによって人間性を豊かにし、結果として作品を高めていく、平八郎独自の様式だ。表現の自由や個性が尊重されてきた大正時代の特徴を持った、東京にも京都にもいないタイプだと言う。
学校派
1892年大分県に生まれた福田平八郎は、京都市立絵画専門学校の教師で美学者だった中井宗太郎(そうたろう)や画家の竹内栖鳳(せいほう)の影響を受けながら、ものを日々観察し、写生する態度を体質化していった。写生は円山応挙の精神を継ぐものでもあるが、平八郎の写生は、形ではなく色彩の追究から始まる。色が決まるとおのずと形も決まっていったと平八郎は言う。
「自然を隔絶する幕(先輩の技法)を取り除く必要がある。自然に直面して、土田麦僊(ばくせん)君の如く主観的に進むか、榊原紫峰(しほう)君のように客観的に進むかであるが、君は自然を客観的に見つめてゆくほうがよくはないか」と、京都の画壇を支えてもいた師である中井から忠告を受けた。平八郎はこの言葉を羅針盤として進んだ。
彼が画家である前に生活者としてのひとりの人間であり、その人間が好きな絵を描いているのだということであろう。このことは当たり前のようでいて、実は画家にとって非常に難しい生き方であったはずだが、平八郎はその道を選び、いつしかそれが身について自然体になったように思われる、と島田氏。雅号を付けることが慣習であった時代に27歳から「平八郎」の本名を作品に署名していた。画塾には属さず教師となり「学校派」と呼ばれていた。
感覚の近代化
また日本美術固有である、自然に直面した実感を基に、クローズアップやトリミングした構図、明快な色彩、純化した形態という特質を持ちつつ、平八郎の作品は文学的な思想や情感は含まない点において、従来の「日本画」の世界とは違う、と島田氏は言う。「写実を基本にした装飾画」と平八郎自身が言うように、平八郎の感性的表現は装飾的なものになっていくが、そこにはリアルを求める近代精神の底流が読み取れる、とも語る。「結局よく見ることが何よりの頼りとなるものです」「日本人が日本の伝統の基盤に立って、自然の真髄を描くこと」という言葉を平八郎は残している。
平八郎は、細部にわたる写実的な作風から、それとは対極の簡潔な形態と線描による表現を経て、1930年の六潮会(りくちょうかい) に参加し、洋画家からフォーヴやキュビスムなど、20世紀西洋美術の造形思考や表現を吸収した。そして画風を発展させ、その感覚の近代化を表現した第一弾が平八郎40歳の作品《漣》であった。
「釣りをはじめた翌年頃の作品です。よく釣れるときには気のつかぬことでしたが、ある不漁の日、ウキをにらむ眼を水に移してみますと、肌にも感ぜぬ微風に水は漣をたてて美しい動きを見せることに気がつきました。これを描いてみようとその瞬間に思いました。それから湖水のささ波、川の流れ、渓流などいろいろの波を見ましたが、最後にこの湖の漣を選びました。しかし波の形は瞬間の動きでまことに掴みにくいものです」(図録『福田平八郎』自作回想, p.158, 京都新聞社より)。