アートプロジェクト探訪

島が主役の「三河・佐久島アートプラン21」

白坂由里(美術ライター)2010年10月01日号

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ここでしかできない作品を、時間をかけてつくる

 愛知県下の有人離島は一色町の佐久島、南知多町の日間賀島、篠島の3島ですべて三河湾内に位置する。周囲11.6キロメートル、面積181ヘクタールと3島で最大の佐久島は、縄文・弥生式土器片が出土し、山の神塚古墳も残る歴史ある島。江戸時代には海運業、戦後も海苔養殖で栄えていたが、若い世代が離島するようになって島民人口は1947年の1,634人をピークに減少し、1995年には400人を切る。高齢化が進み、一色町への編入合併(1954年)以前の島独自の産業や祭の継承が年々険しくなっていった。
 そこでアートによる島おこしを目的に、1996年、一色町主催、島の有志による「島を美しくつくる会」共催で「弁天海港佐久島プロジェクト」を発足、「弁天海港佐久島アートフェスティバル」が2000年までに3回開催された。その後、これまでの内容が再検討され、代わって2001年から岡崎市にある「オフィス・マッチング・モウル」がプランニングとコーディネートを手がけることになった。オフィス・マッチング・モウルは、現代美術を介したコミュニケーションの場を創造すべく代表の内藤美和、池田ちかの2人で1999年10月に設立された若い会社だった。
 当時、島民の多くは島を「なにもないところ」だと思っていた。しかし内藤氏は「佐久島は開発から取り残されてきたからこそ、豊かな自然や昔ながらの集落風景、祭りなどの文化資源や歴史遺産を保持している」と見た。そこで一色町役場と、島民有志からなる「島を美しくつくる会」とともに、「祭りとアートが出会う島」を掲げて島の祭事や伝統行事と時期を合わせ、年間を通してアーティストが展覧会やワークショップを行なうようにした。作品は美術館など他の場所でも可能なものではなく、佐久島の場所性を生かした、佐久島だからこそ可能な作品を求めた。
 また、限られた予算のなかで、参加アーティストの数を絞り、数年にわたって作品を制作・メンテナンスする方法を取ってきた。例えば、50年間空家になっていた築100年の古民家を作品化した平田五郎の《大葉邸》は2002年から6年6期をかけた。海辺で集めた石を庭に敷き詰めて一部に溝をつくった「緑の庭」(2002)、室内と屋外一部の天井、床、壁を磨き漆喰で覆った「白い部屋」(2003)、作品と古い食器を棚や引き出しの中に展示した「水屋戸棚」(2007)ほか、板張り・土壁塗り・土間の打ち直しと版築工法による上がりがまちの制作など伝統的工法を用いる修繕もアーティスト自らボランティアスタッフとともに1年ごとに行ない、毎年公開していった。


左=平田五郎《大葉邸》。くどの三カ所の焚き口側面を白と黒の磨き漆喰、金箔で覆い、中にガラス作品が設置されている
右=《大葉邸》内部の白い部屋

 岡崎市出身の松岡徹は、2003年に《海神さま》《大和屋観音》像、佐久島太鼓ほか島風景が現われるのぞき箱などをあちらこちらに設置し「どこか、おかしい。」と題してアートで島巡りを展開。その後、2006年から3年3期で公園作品「佐久島のお庭」をつくりあげた。佐久島地蔵と弁天鳥の彫刻、島民が使っていた皿を埋めた小道、佐久島の4つの山を表わす小山など、佐久島の縮図となっている。また、木村崇人が、風を見るための装置として制作した《カモメの駐車場》は、実際に佐久島でカモメを観察していて生まれたもの。「地球と遊ぶ」をテーマに科学とアートの融合を目指す木村の代表作となった。船を磁石にするワークショップなど破天荒な試みも行なっている。
 海から山に目を向け、弘法の祠のある森の小道を見つけたのが青木野枝。大小さまざまな輪っか状に熔断した鉄をいくつも熔接した彫刻を設置した。弘法大師の力を借り、周囲の空気を壊さないように細心の注意を払っている。小川信治やふるかはひでたかなどのワークショップでも島の風景や歴史が掘り起こされた。こうしたアートを通じて島民が島を見直し、誇りを持つようになっていく。


左=松岡徹《海神さま》正念寺。いつ見てもお賽銭があるらしい
右=風の方向を向く、木村崇人《カモメの駐車場》


青木野枝《空の水−山》

島がアートを引っぱり、アートが島を引っぱる

 オフィス・マッチング・モウルの内藤氏は10年を振り返ってこう語る。
「お客さんがたくさん来てくれるようになってほっとしています。年間1,000万〜1,200万、プロジェクトとしては小規模な予算ですが田舎町にとっては大きなお金を使って、交流人口を増やすというミッションを与えられ、果たせなければアートマネジメントのプロとはいえないですからね。それ以上に良かったのは、アートが入ったことによって島民の人たちが島を再発見し、自信を持つようになったことです」。
 また、佐久島に触れた作家たちも、自身の作風から離れてチャレンジするようになった。「ものを制作するには不便な環境であるにもかかわらず、場所や島の歴史に真摯に向き合い、敬意を払ってくれました。残る作品も残らない作品も同様に重要で、特に内藤礼さんの個展『返礼』は記憶に残るものになりました」。なかでも、浜辺の岩場に雨樋のような作品を設置して水を溜め、先端が曲がっているために息を吹くとふっと消えるように見える《タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)》では、鑑賞希望者が町営施設である弁天サロンに集合し、秘密の設置場所に案内されるという鑑賞法を取った。まだ現在ほど観客の多くない2006年のことだ。
 さらに池田氏は「小学生の頃からワークショップを受けてきた子どもが現在は社会人。故郷が大好きで、美術を生活の一部としていることが感慨深いです」と語る。先日は、名古屋で働く島出身の女性とあいちトリエンナーレを見て、彼女の人生に影響を与えたことを思い「続けてきてよかった」と実感したという。また、島外のボランティアと島の子どもたちとの交流は作品完成後も続いている。現在は退社しているアシスタントディレクターの山口潤子、代わって黒目利江による奮闘記も、ウェブサイトに残る貴重なアーカイブだ。


左=大葉邸にて、右から内藤美和氏と池田ちか氏
右=内藤礼《タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)》 撮影=香村聖文

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白坂由里

『ぴあ』編集部を経て、アートライター。『美術手帖』『マリソル』『SPUR』などに執筆。共著に『別冊太陽 ディック・ブルーナ』(平凡社、201...

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