〈歴史〉の未来
第1回:作品それ自体がデータベースであり、ネットワークであり、コミュニケーションでもあるような
濱野智史(日本技芸リサーチャー)2009年07月15日号
今回、『artscape』で全6回の連載を担当することになった。編集部からのオーダーは、近年のウェブサービスの最新動向のなかから、特にデジタル・アーカイブ(データベース)という点で着目すべき事象を取り上げ、考察するというものである。
はじめに:「〈歴史〉の未来」とは
誰もが知るように、いまなおデジタル・アーカイブの進展にはめざましいものがある。昨今では、GoogleやAmazonといった巨大企業が「クラウド・コンピューティング」と呼ばれる潮流を牽引し、あらゆる情報やデータは、一企業の運営する巨大なデータセンター──IT評論家である梅田望夫のよく知られた言葉を借りれば「あちら側」──に収められつつある。こうした事態を端的に象徴しているのが、さきごろ出版界を中心に物議を醸した「Google ブック検索」であろう。人類の「知のアーカイブ」の代表格であった図書館は、いまや国家ではなくGoogleの手によって、いともたやすく「ググれる」ものとなりつつある。この事態が「デジタル・アーカイブ」にとって極めて重要な問いを投げかけていることは、いうまでもないことであろう。
しかし今回、筆者はこれ以上この問題について立ち入った検討を加えることはしない。その代わりにここでは、なぜ本連載のタイトルを「〈歴史〉の未来」と名づけたのか、その意図について簡単に触れておきたいと思う。
「〈歴史〉の未来」とはなにか。その言葉の順序を逆にすれば「未来の歴史」となるが、もちろん本稿が意図しているのは、「未来に起こるであろう出来事/歴史/物語」を予測することにはない。むしろここで照準を当てたいのは、いまさまざまに生じつつある情報環境の進化によって、いつか未来にもたらされるかもしれない〈歴史〉なるものを支える「環境」ないしは「インフラ」の変容である。いいかえれば、筆者は歴史の具体的な「内容」ではなく、それを支える「形式」──あえて大仰で、かつ誤用的な表現をすれば、歴史の「下部構造」ないしは「唯物論的側面」──の変化に着目したいということだ。
というのも、これまでデジタル・アーカイブといえば、一般に「博物館・美術館・図書館・史料館といった諸々のアーカイブに収められた文書・作品群を、デジタル化したうえで保存し、その劣化から守ること」を指していたが、そこでの「デジタル」と「アーカイブ」の関係は、比較的シンプルな図式によって結び付けられていた。それはすなわち、「デジタル媒体はアナログ媒体に比べ、情報の(ほぼ)永続的な記録・保持を可能にする」というものだ。
しかし、ここではまだ詳論しないが、いまやデジタル技術は単に「情報を永続的に保管する」というだけではなく、むしろ逆に「情報を(適度に)淘汰=生存競争させる」というような、新たな振る舞いやパターンを実現−実装(implement)しつつある。ウェブサービスの登場からおよそ10数年が経ち、筆者がいうところの「アーキテクチャ」の実験と進化が進んだことで★1、情報の記録(データベース)・関係(ネットワーク)・流通(コミュニケーション)といった諸要素は、いま多様な組み合わせの下で実装されるようになった。よって、いま「デジタル」と「アーカイブ」の関係は改めて再考されるべきであろう。これが筆者の考えである。
とはいうものの、もちろん筆者は歴史なるものが、いとも簡単に変化するなどとは考えてはいない。歴史なるものが、客観的で実在的な情報、すなわち史料(史実)の記録・蓄積(アーカイブ)と、その実証的検証によってのみ編まれるようなものではないということは、筆者も当然承知しているつもりである。歴史は純粋に客観的なものではない。そこには物語や解釈が介在する。だとするならば情報の生産/流通様式(インフラ)が変わったという程度のことで、歴史のあり方は変わりようがない。まして人間が歴史/物語を手放すこともない。このような認識は当然のものだ。ただし、筆者はこの問題について、残念ながら正面から取り組むだけの力量もない。よって本稿では、現状の情報環境における実験的な試みを紹介しつつ、そこから触発を受けながら、あくまで思考実験のかたちで「〈歴史〉の未来」のあり方を描写できればと考えている。