美術館には約束事がたくさんある。「展示室では走らないようにしましょう」(来場者どうしの安全のため、作品保護のため)、「展示室内では鉛筆を使いましょう」(作品保護のため)、「展示室では飲食ができません」(同上)、「大きな荷物はロッカーに預けましょう」(同上)、そして「作品には触らないでください」(同上)。展示室において、作品に触ることはもちろん、もう少し近くで見たいのに、近寄ることさえできないこともある。その理由の多くは、替えがきかない唯一の作品を保護するためだ。これは、未来に作品を残し続ける使命を背負った美術館としてなすべき対応である。
しかしながら、美術館は、その作品を最適な在り方において人々に公開することも重要な使命としているだろう。しばしばいわれる保存と活用の矛盾が美術館にはつねに付き纏うわけであるが、そこをどうにか調停して展示を果たすのもまた重要な仕事である。今回は群馬県立館林美術館で開催された企画展「ヒューマンビーイング─藤野天光、北村西望から三輪途道のさわれる彫刻まで」の鑑賞体験、そして太田市美術館・図書館で過去に開催した企画展「本と美術の展覧会vol.4『めくる、ひろがる─武井武雄と常田泰由の本と絵と─』」を通して、「美術館でふれること」について考えてみた。
「ヒューマンビーイング」展──藤野天光、北村西望の特集展示、そしてフランソワ・ポンポン
本展は、人物表現に焦点を当て、彫刻、絵画、版画作品から構成された展覧会である。第1章「肖像」、第2章「人の営み」、第3章「人に託して」、第4章「人の気配」、そして第5章「かお」という章立てにおいて、それぞれの切口で多様な人物表現が紹介されていた。第1章から第3章および第5章は、近代から現代までの、人物がモデルである作品がバリエーション豊かに紹介されており、第4章では、画中やモチーフに人物が現われていなくても、そこはかとなく漂う人の雰囲気が捉えられている作品が並べられていた。そして、この全5章の途中で、彫刻家である藤野天光(1903-1974)および北村西望(1884-1987)、そして三輪途道氏(1966-)の作品は特集展示としてスペースが設けられ、まとまった点数が展示されていた。
「ヒューマンビーイング─藤野天光、北村西望から三輪途道のさわれる彫刻まで」タイトルサイン[筆者撮影]
まず、藤野天光と北村西望。藤野天光は館林生まれの彫刻家だ。北村西望は長きにわたり藤野が師として関係を結んできた彫刻家であり、長崎県にある《平和祈念像》の作者として知られる。師から弟子への影響と、作家としてのそれぞれの独自性が丁寧に伝えられた展示であった。
例えば、本展のメインビジュアルにも採用されていた藤野天光《ベレー帽》(1926)は、北村西望の《北村西望自刻胸像》(1918)の影響が見て取れるという。いずれも目の表情が線刻で表現されている部分に両者の共通点を見出すことができる。しかし、《北村西望自刻胸像》が全体として写実的で統一感のある表現であるのに対して、藤野の《ベレー帽》は全体的に荒造りなモデリングの顔面に、目はごくごく素朴な線描でひっかかれ、そのなかで唇だけが妙に生々しいという、少々まとまりに欠ける印象を覚えた。言い換えれば、その顔面は、構築的な鼻筋、艶かしい唇、素朴な線描の目、粘土の凹凸の残る頬など、多様な要素を備え、私の視覚を通して触覚に訴えかけてきた。
このような鮮烈な印象をもたらした作品を記憶に残しながら残りのセクションを鑑賞し、私はここ最近見飛ばしてしまっていた、フランソワ・ポンポン(1855-1933)の資料を展示する別館へ向かった。群馬県立館林美術館は、フランスの動物彫刻家、フランソワ・ポンポンのコレクションで知られ、別館には「彫刻家のアトリエ」として、彼の資料や作品が展示されている。大きな鹿の彫刻の出迎えを横目に「彫刻家のアトリエ」に入ると、ポンポンの小品(ブロンズ)が展示されていた。そして、これらの小品は「さわって楽しむポンポン作品」として、ふれてみることもできるようになっていた。
「さわって楽しむポンポン作品」展示風景[筆者撮影]
左:フランソワ・ポンポン《スカートの裾をたくしあげるコルセットの女性》 中:《アヒル》 右:《ボストン・テリヤ 「トーイ」》(すべて群馬県立館林美術館蔵)
作品付近の表示には、「手でさわって、かたちや感触を楽しもう やさしく、ゆっくりさわってみよう」という記載とともに、作品に傷がつかないよう手につけた装飾品(指輪や腕時計など)を外すこと、作品にはやさしく、ゆっくりさわること、そして、作品を動かさないことが注意事項として記載されていた。私もこの注意事項を守ってそれぞれの彫刻にふれてみたが、ひんやりとして硬質なブロンズの素材感、なめらかでツルツルとした表面、そして人間、鳥、犬、それぞれの体つきの違いを手から伝わる感覚から知ることができた。
展示室で彫刻にふれる──三輪途道作品の特集展示から
「彫刻家のアトリエ」を後にして、ふたたび本館に戻って最後の展示室に向かった。最後の展示室は、広大な芝生広場に張り出し、ガラス張りの開放感ある空間設計が特徴的な展示室1である。ここはフランソワ・ポンポンの作品など、彫刻を展示するために設えられた展示室だそうだ。ここで特集展示「三輪途道のさわれる彫刻」が展開されていた。
三輪氏は約30年間、身近な人間や動物などをモチーフに木彫を制作してきたが、2021年に病のため目が見えなくなったことから、制作方法を脱乾漆★1、そして現在では粘土の原型を石膏で型取りし、そこに漆で仕上げていく方法に変え、作品を発表し続けている作家である。目が見えなくなって以降、幼い頃に親しんだ泥団子作りの体験を下地に、その感触とつながる粘土の手触りを頼りに像を作り続けているという。目が見える頃の木彫像は皮膚や衣服の質感、そして意志を感じる目元の表情がきわめて特徴的であったが、見えなくなってからは、「細部ではなく像全体に作家の個性がにじみ出た作品」★2と形容されるように、注力するポイントが像の固まり全体の在り方にシフトしているようだった。
「三輪途道のさわれる彫刻」展示風景[筆者撮影]
本展では、三輪氏の「像全体に作家の個性がにじみ出た作品」をよりよく人々が受け取るために、「さわる」という鑑賞方法が選択されているようだった★3。そしてそれと同時に、「さわる」ための展示方法にも私は関心を寄せた。彫刻は普通、台座の上に置かれる。台座に置かれ、人間(多くは健常成人)の目線と照らして適切な位置に像が置かれることで、しかるべき展示となる。しかし、展示室1における三輪作品は、「さわる」ということを前提に展示方法が設定されていたため、緩衝性のある畳の上に、そのまま彫刻が置かれた状態であった。当然、起立状態では作品は視線の下に存在し、見下ろす格好になってしまう。そこで、多くの人は作品と向き合うために、畳の外でしゃがむか、靴を脱いで畳に上がることとなる。
畳に上がって作品に対面し、そっと手を伸ばして目の前の像を手でふれると、少し温かみを覚えるやわらかな質感が伝わってきた。それは、この展示室1に来る前にさわったポンポンによるブロンズ彫刻の、ひんやり、硬質な感覚が手に残っていたことで際立ったのかもしれないが、漆の素材感と作家による丁寧な仕上げによるものだろう。両手で像をつつみ、作品の素材感、凹凸、大きさ等を体感することで、「像全体に作家の個性がにじみ出た作品」に接することができたように思う。
さて、再び彫刻の在り方ということを考えると、野外に設置されるモニュメントについては、碑としての台座こそが本体であるという歴史的文脈もある★4。しかし三輪氏の作品は、モニュメント=碑としての作品ではない。何らかの役割を担い奉仕する道具ではなく、近代以降の美術館において、多くの人々が起立状態で一定の距離を取り、向き合ってきた作品である。そうした作品が、畳の上に置かれ、人びとは腰を下ろした状態で作品に向き合い、手を差し出してそこにふれることができるようになっている。
私たちは、彫刻が台座から下り、同じ地平で対面し、ふれることで近代以降の視覚優位の彫刻鑑賞の呪縛から解き放たれる。それにより得られることは、彫刻と人間との間に存在した緊張関係の解除であり、良かれ悪しかれ作品にもたらされる変化である。その緊張関係は、作品やその像が置かれた背景への想像力を膨らませるのに役立っていたかもしれない。つまり、人の手で表現された塊としての物体を、どう受け止めるべきか、ということから私たちの思考は活性化される。台座に乗った彫刻に対面する時、私は歴史や物語など、背景に大きな存在を感じてしまいがちであるが、同じ地平でふれることで、また違った捉え方になってくるのではないかと考えた。
また、作品にもたらされる変化という点ではどうか。人の手から滲む皮脂は作品表面を目に見えない速度で変色させるかもしれないし、無意識の損傷により傷がつくかもしれない。ふれることで、ふれないときの状態から少しずつ像は変化するのであるが、その変化は、不特定多数のさまざまな接触が積み重なって現われるものであり、どのような結果になるかわからない部分も多いだろう。このような不確定な作品の在り方であってもなお、三輪氏が作品にふれることを要請するのは、やはりそうすることでしか得られない作品の質があるということだ。
終わりに
最近の美術館では、現代美術の領域においてふれることで作品を受容する体験型の作品があったり、またインクルーシブの観点でふれることのできるようになっている作品もある。「ヒューマンビーイング」展における三輪作品の特集展示も、インクルーシブな展示としての意味合いは大きい★5。しかし一方で、畳に直置きされ、観者が座って作品に対面する状況が彫刻の作品としての本性の見直しを要請しているようで、印象深かった。
私が勤めている太田市美術館・図書館は、さわってめくらないと内容に出会うことができない本と、さわることの禁止される美術作品とが同居する施設である。両者の関係を模索する展覧会シリーズ「本と美術の展覧会」では、そうした「ふれる」という問題系にかかわる「めくる」という動作に焦点を当てた展覧会「本と美術の展覧会vol.4『めくる、ひろがる-武井武雄と常田泰由の本と絵と-』」を行なった。
ここでは、常田氏のブックスタイルの作品の一部を、手袋を着用のうえ、めくって楽しんでもらえるように展示した。本展終了後、出品作家の常田氏と信州大学人文学部芸術ワークショップゼミ(美術系)とのコラボレーション展覧会「常田泰由 あなたとかたち」★6が長野県松本市で開催されたが、その関連トークに私もご招待いただいた。その際、本展を振り返り、常田氏のブックスタイルの作品について、ふれることで生まれる作品の変化(さわった痕跡)も作品のもつ質として捉えることができるのではないか、と発言したことを思い出した。つまり、ふれることで起きる作品の変化は、作品に与えられたダメージという意味だけでなく、その作品のもつ性質をより豊かに示してくれる要素となっていくのではないか、ということである。この点について、三輪氏がどのように捉えているのかも気になるところであった。
常田泰由《mb 106》2022年、モノタイプ、無線綴じ
多くの人にめくられて、1ページ目がくるんと丸まっている
作品の在り方や作品受容の在り方が多様に展開するなかで、さわることが重要な意味をもつ作品、場面は今後も生まれてくるだろう★7。その際、現在ある作品保護のための各種基準(照度基準や温湿度基準等)とともに、ふれる際の基準も設けられていくのかもしれない。保存と活用を両立は、作品の形態とともにその方法も変化していく。すぐれた作品を、その作品が求める最適な受容の仕方で公開できるように、美術館や研究機関では素材と公開環境について、調査研究が絶え間なく続いていくことだろう。
★1──粘土で原型を制作し、漆と麻布等で張子状に立体像を制作する技法。★2──展覧会カタログ『ヒューマンビーイング─藤野天光、北村西望から三輪途道のさわれる彫刻まで』(群馬県立館林美術館、2024、p.50)
★3──それと同時に、さわる展示に関しては、作者である三輪途道氏の希望であると本展カタログには記載されていた。神尾玲子「美術館で作品をさわるということ」(同上カタログ、p.67)
★4──この点に関しては木下直之『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』(岩波書店、2014)で詳しく論じられている。また、彫刻と観者との位置関係については、小田原のどか「旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築」(小田原のどか『モニュメント原論─思想的課題としての彫刻─』(青土社、2023、pp.337-355)に《明治天皇騎馬像》を例に、モニュメントの機能面から見た構造の意図の観点から考察されている。
★5──特集展示のなかには「みんなとつながる上毛かるた」というプロジェクトの紹介もあった。本プロジェクトは、群馬県独自の文化として長年愛されている「上毛かるた」を触図として凹凸で表現し、目の見える人も見えない人も一緒に楽しもうとする試みである。県内の大学や企業、そして三輪途道氏が手を取り合って制作している様子がドキュメンタリー映像でも紹介されていた。
★6──主催:信州大学人文学部芸術ワークショップゼミ(美術系)、会期:2023年1月28日(土)〜2月5日(日)、会場:ギャラリーノイエ
★7──本稿では触れなかったが、彫刻作品の触覚性については、武末裕子「触覚と彫刻の関係性について」(『美術教育学研究』52巻1号、2020、pp.225-232)に詳しい。現代における触覚を重視した体験型展覧会の隆盛を背景に、ハーバート・リードの彫刻論における触覚性やコンスタンティン・ブランクーシによる《盲人のための彫刻》など近代以降、国内外の事例から触覚と彫刻のかかわりを論じている。
ヒューマンビーイング─藤野天光、北村西望から三輪途道のさわれる彫刻まで
会期:2024年1月27日(土)~4月7日(日)
会場:群馬県立館林美術館[群馬県](群馬県館林市日向町2003)
公式サイト:https://gmat.pref.gunma.jp/exhibition/ex/ヒューマンビーイング-藤野天光、北村西望から/
本と美術の展覧会vol.4「めくる、ひろがる─武井武雄と常田泰由の本と絵と─」
会期:2022年3月5日(土)~5月29日(日)
会場:太田市美術館・図書館[群馬県](群馬県太田市東本町16番地30)
公式サイト:https://www.artmuseumlibraryota.jp/post_artmuseum/8684.html
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