
この8月、artscapeでわたしが編集を担当したキュレーター関連の記事は、どちらも個人的な興味のど真ん中をついてくれるような論考でした。ひとつは石川琢也さんによる「路地から拓く文化の閾──路地という周縁から」、もうひとつは乾健一さんの「大阪・関西万博と“2度目の”万国博美術館」です。両者の関心は異なるように見えつつも、美術をとりまく空間や制度、そしてそれらの外部に広がる社会的文脈をどう読み解くかという点で響き合っています。
石川琢也さんの「路地から拓く文化の閾」は、京都市内で開催されたイベント「拓け、路地。」をケーススタディに、路地の持つ文化的価値と「コモンズ」としての可能性を探る論考です。本稿は、ZINEカルチャーに見られる小規模出版への共感を込めた「路本(ろぼん)」という造語をテーマに掲げ、AI時代における人間の創造性や身体性を伴う表現の価値を問い直しています。また、建築家・和田寛司氏による路地に「穴」を掘って住空間を拡張する試みや、環ROY氏のライブパフォーマンスを通して、「制約による創造性」という路地ならではの方法論を鮮やかに提示しています。
石川さんはかつて山口情報芸術センター[YCAM]でエデュケーターを務めており、その頃artscapeではキュレーターズノートの連載を担当されていました。当時の記事には、「ハンバーガーの『ひと口』から食のあり方を考える──YCAMの新プロジェクト『StudioD』のしくみ」、「Radlocal Practiceがめざすもの──メディア×地域の教育プロジェクト」、「『食』をめぐるYCAMの新プロジェクト──ひと口から考えるエコシステム」、「セレンディピティが解く地域社会の課題──ソーシャルアートの人材育成」、「街を変えるアートとアソシエーション──MAD CityとYCAM」などがあります。これらの連載を通して、街やストリートや食、そして音楽といった身体感覚に訴えるテーマに対する石川氏の一貫した問題意識が垣間見えてきます。今回の「路地から拓く文化の閾」は、街の周縁である「路地」という空間に焦点を当て、そこで生まれる表現やコミュニティの可能性を探る点で、これまでの活動と深く繋がっていると感じました。
ところで、わたしが執筆した前回の編集雑記では「artscapeでは今回の万博について正面から取り上げる記事は少ない」と書きました。乾健一さんによる論考は、大阪・関西万博をまさに題材としたものでしたので、担当できて嬉しく思いました。ここでは、わたし自身が6月に夢洲を訪れた際に覚えた違和感を、乾さんは鮮やかに言語化してくださったように感じています。とくに、万博において美術を俯瞰する視点が確保しづらい要因についての指摘には何度も頷かされます。簡単に要約しますと、万博において美術の全体像を把握しづらいのは、作品の散在とジャンルの融合が主な要因です。パブリックアートが会場の広範囲に点在し、複数の主体によって設置されているため、その総数を把握するだけでも困難です。これにより、多くの作品が会場の賑わいのなかに埋もれ、来場者の目に留まりにくい状況が生まれています。また、今回の万博では美術と建築やデザインといった他のクリエイティブ分野との境界が曖昧です。仮設的な建築物の高い造形自由度や、実験的なデザインの休憩所・トイレ、そして公式キャラクターをモチーフにしたアートなど、多岐にわたります。これらの分野横断的な試みは、美術という単位で全体を俯瞰することを一層複雑にしています。
同論考はこうした指摘を、国立国際美術館での展覧会「ノー・バウンダリーズ」のレビューと結び合わせることで、単なる万博批判にとどまらない広がりを確保しています。美術館と万博という二つの制度を重ね合わせ、そこで浮かび上がる「二度目の万国博美術館」という言葉は、読む者に制度的想像力を刺激するものだったように思います。
振り返れば、artscapeのキュレーターズノートには、個々の現場での試行錯誤や、制度と実践をめぐる思索が折り重なっています。今回ご紹介した石川さんと乾さんの記事も、それぞれの立場から、美術を取り巻く状況を多面的にとらえ直す試みでした。今年は30周年記念企画の一環で美術現場の試行錯誤を取り上げる記事をいくつか配信できる予定ですので、そちらについても順次お知らせしていきたいと思います。(o)