会期:2025/08/26〜2025/08/27
会場:ぽんプラザホール[福岡県]
構成・演出:加茂慶太郎
公式サイト:https://sites.google.com/view/kamokeitaro/just-right-entering?authuser=0

「世界、あるいは未来の入り口としての他者」だとしたら──
わたし は、どう入る? まだ、入りなおせる?

加茂慶太郎『ちょうどいい入り口』(構成・演出:加茂慶太郎)のホームページやフライヤーにはこのようなキャッチコピーが添えられている。なるほど、「他者」を「世界、あるいは未来の入り口」と捉える感覚は理解できる。だが、そこに「ちょうどいい」という形容詞が付くとなれば話は別だ。ちょっと待ってほしい。他者が入り口として「ちょうどいい」などということがあるだろうか。もちろんない。だから、試行錯誤が必要になる。『ちょうどいい入り口』は、他者としての出演者同士が、「ちょうどいい入り口」を探るその試行錯誤をそのまま(のように見えるかたちで)ごろっと舞台に上げたような作品である、とひとまずは言うことができるだろう。

加茂は福岡拠点の演劇作家。2022年から自身のプロジェクトであるマルレーベルの名義で活動をする一方、2023年からは北九州を拠点に京都や東京でも公演を展開するブルーエゴナクにもメンバーとして参加している。ほかにも東京デスロック『再生 北九州Ver.』への出演やTHEATRE E9 KYOTO『倉田翠ダンス講座』への参加と成果発表への出演など、俳優/出演者としての活動も精力的だ。そんな加茂のプロフィールには次のような文言がある。

演劇の起こる場に立ち会うこと、それをデザインすることを活動の主としている。またその全てにおいて、関わる人々にとって安全かつ創造的、豊潤な時間であることを願い実現を目指している。

日本ハラスメントカウンセラー協会の認定ハラスメント相談員Ⅱ種の資格を持つ加茂は、自らハラスメント相談窓口を開設する活動もしており、そのような活動やその根底にある姿勢が『ちょうどいい入り口』という作品にもつながっていることは間違いない。

そもそも『ちょうどいい入り口』の出演者公募にあたって加茂が発表した文章は次のような宣言からはじまっていたのだった。この公演では「いくつかの挑戦」をしており、「演劇の持続可能性を模索する」ためのそれらは「金銭的・体力的コストを可能なかぎり下げること」からはじまるのだ、と。

一方、同じ文章のなかで加茂は自らの創作手法にも触れ、「自分“ではない”誰かを演じることにはせず、自分“でもある”誰かとして、喋ったり動いたりするという行為のままに扱」う自身の作品においては、出演者が俳優である必要はないとも述べる。そのような手法を取るのは、「主導権が観客にあること」を大切にしたいと思う加茂が「演劇の『観せる』チカラを極力放棄して作品をつくりたいと思」っているからであり、同時に「プロの俳優という存在」がごく僅かである福岡という環境において「出演者の演技の巧拙に左右されずに作品の質を担保することができれば、作り続けることができると考えて」いるからでもあるらしい。加茂の演劇の持続可能性の模索はその創作手法にまで及んでいるのだ。

さて、前提の確認が長くなったが、このような姿勢や思考のもとにつくられた『ちょうどいい入り口』はどのような作品だったのか。実のところ、書けることはそれほど多くはない。というのも『ちょうどいい入り口』は加茂を含めた出演者たち(片山桃子、上条拳斗、内藤ゆき、味園晶)によるワークショップの様子がそのまま舞台に上げられたような作品であり、上演中に行なわれる2つのワークを除けば、即興で進行する作品の内容は毎回異なっていたからである。

例えば、加茂による前説らしきものからシームレスにはじまる上演の冒頭では、出演者の各々がその回の上演の「目標」や「方針」を共有するワークが行なわれる。共有されたそれらはホワイトボードに書き留められ、上演を通して出演者や観客の目に入る位置に示され続ける。私が観た回で挙がった目標/方針は「深刻にならない」「まっすぐやる」「かすめたものを逃さない」「ちゃんと居る」「うたがう」「小さいことでも知ろうとする」「関わりにいく」「みんなで先へ向かっていく」の8つ。これらの言葉は出演者にとっての指針であると同時に、上演を観る観客にとってもある種の指針になるものだろう。もうひとつのワークは「人にそう思われたくないイメージ」を紙に書くというもの。その後の上演は各々がその紙をおでこに貼り付けた状態で進行していくことになる。こちらにも目標/方針の提示と似た効果が期待できる。即興で進行する上演がそれでもさほど散漫に感じられず、舞台上で起きていることやそこに立つ出演者に対する興味を持続できたのは、このようにして見るための指針、思考のためのフックが用意されていたことが大きいように思う。

だが一方で私は、舞台に立つ人々との、その言動との距離感を測りかねてもいたのだった。上演に向けて稽古(?)を重ねてきた出演者の間にはある関係性が構築されていて、舞台上で交わされる言葉はその関係性をベースに「安全」が確保されたものなのだろうという了解はできる。だが、観客である私と出演者たちとのあいだにあるのは観客と出演者としての関係だけである。それでも、舞台上で交わされる言葉が他愛ないものである間は出演者たちとの距離はそれほどは気にはならなかった。だが、出演者のひとりが生々しい感情を発露し感極まってしまったとき、私は猛烈な居心地の悪さを感じることになったのだった。

見ず知らずの他人が目の前で感極まってしまっていることに対する居心地の悪さは、自分がそのような場面に立ち会う関係性にないということに対する居心地の悪さであると同時に、心構えができていないところに他人のあまりに生々しい感情をぶつけられたことに対する居心地の悪さでもあっただろう。加えてそこには出演者の心理的安全性への懸念も含まれていたように思う。出演者同士の関係においては「安全」である行為が、観客に開かれた状態でも「安全」であるとは限らないからだ。私のように出演者の生々しい感情の発露に対して否定的な態度を取ること自体、その出演者を傷つけることにもつながりかねないだろう(だからこそ私はよりいっそう居心地の悪い思いをする)。そのことをどう考えるのか。

上演や終演後のQ&Aでのやりとりから、出演者たちの間に「よい」関係が、つまり、「ちょうどいい入り口」を探るための試行錯誤を互いに許容するような関係が築かれているであろうことは確かに伺えた。『ちょうどいい入り口』が十分に「観られる」作品となっていたことも間違いない。しかし、観客への開き方という点においてはあまりに無防備ではなかっただろうか。演劇の持続可能性をめぐる加茂の思考や実践には見るべきところが多くある。だが、例えばリアリティショーをめぐるさまざまな問題を考えても、このようなかたちで演劇を創作するならば、観客との関係をどう設計するかは持続可能性の観点からもきわめて重要な問題であるはずだ。

鑑賞日:2025/08/27(水)


関連リンク

『ちょうどいい入り口』出演者募集の告知:https://sites.google.com/view/kamokeitaro/works/entrance_recruitment?authuser=0