だいぶ暑さが和らぎ、街歩きにはいい季節になった。というか、夏からいきなり冬になって、その間の秋がどこかに消えてしまっている。「二季」という言い方をするようだ。寒暖の差が大きいので、体調がイマイチ。展覧会を回るなかで風邪を引いてしまって、なかなかよくならない。困ったものだが、それでも季節はどんどん進み、今年も残り少なくなってきた。幸い、写真展や写真集は充実したラインナップが続いている。もうひと頑張りということだろう。

2025年9月25日(木)

新しい写真ギャラリーがオープンした。写真プリントを専門とする写真弘社が運営するコーシャ・コーシャ・アキハバラだ。秋葉原と浅草橋の間くらいの路地裏という、ちょっとわかりにくい場所だが、奥行きのあるゆったりとした空間で雰囲気がいい。その最初の展覧会として、藤岡亜弥の「Life Studies」展(2025/9/26-11/8)が開催されたので、内覧会に出かけてきた。同シリーズは、藤岡が2007~2012年にニューヨークに滞在していた時のプライベート・ドキュメンタリーである。以前何度か展示したことのある作品群だが、今回、赤々舎から同名の写真集が刊行されたことを受けて、改めて内容を組み直して展示していた。藤岡の写真の仕事には、自分の居る場所、周囲の人たちを、斜め後ろから薄い半透明の膜を通して見ているような視点があり、それが得も言われぬ微妙な違和感として伝わってくる。本作もまさにそんな写真の集積で、異国の街での所在のなさが、切実なイメージの連なりとして提示されていた。写真集の巻末に収められた、小説ともエッセイともつかない文章がとてもいい。藤岡は、文章の書き手としてももっと期待してよさそうだ。

藤岡亜弥[筆者撮影]

2025年10月1日(水)

大西みつぐは東京綜合写真専門学校を卒業後、同校の講師だった須田一政のアシスタントを務めていた時期がある。当然、須田の影響を強く受けるわけで、カメラを35mmから6×6判に変えたのも、その表われといえるだろう。今回、東京・馬喰町のKiyoyuki Kuwabara AGで開催された「面影 1979」展(2025/ 9/17-10/4)には、その時期に撮影されたまま、ロッカーに眠っていたというプリントが展示されていた。たしかに、6×6判のスクエアなフォーマットに取り込まれた、1970年代後半の東京の下町の光景は、須田の『風姿花伝』(朝日ソノラマ、1978)などを思わせるところがある。どこか浮遊感を帯びた被写体の切り取り方など、ほぼ同じように見えるのだ。ただ、決定的に違っているのは、須田の写真から立ち上がってくる、あのアニミズム的としか言いようのない気配、見る者の心の奥底を撹乱する不穏な佇まいが、大西の写真からはあまり感じられないことだ。須田に深く“心酔”していたからこそ、大西もそのことに気づいたのだろう。同じく6×6判のフォーマットを用いていても、1980年代以降の『WONDERLAND』のシリーズは、より穏やかな空気感が漂うものになった。今回の展示は、写真家の資質が作品にどう投影されていくのかを示す、興味深い作例といえるだろう。

大西みつぐ[筆者撮影]

2025年10月2日(木)

遠藤励の新作には驚かされた。グリーンランドなど北極圏の自然、人、生き物たちを撮影したスケールの大きな写真集『MIAGGOORTOQ(ミアゴート)』(2023)で、日本写真協会賞新人賞と笹本恒子写真賞を受賞した注目の写真家だが、今回の「SHAKE-UP THE OLD FUTURE」展(CANONギャラリー銀座、2025/9/30-10/4)には、彼が1990年代から撮影してきたスノーボーダーの写真群が展示されていた。しかも、単なるスポーツ写真や記録写真ではない。自分が撮影した写真だけでなく、「倒産したスノーボードメディアの倉庫で廃棄処分を待っていた撮影者不明の膨大なフィルム」を複写した画像なども使って、コラージュしたり、立体的なインスタレーションを試みたり、文字と組み合わせたりした、インパクトの強い作品が並んでいたのだ。まさに「スノーボードフォトグラフィーの進行形」を「集団的共有」として跡付けようとする、意欲的な試みといえる。彼の写真家としての引き出しの大きさと広がりを示す、興味深い展示だった。

遠藤励[筆者撮影]

2025年10月9日(木)

2017年に上野公園周辺でスタートし、2020年には東京駅八重洲口を中心とするエリアに舞台を移した「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO 2025」。都市型の写真フェスティバルとして、ようやく定着してきたのだが、まだまだ課題も多い。今年は東京ミッドタウン八重洲のスティーブン・ショアの展示をはじめとして、メリッサ・シュリーク、スティーブン・ギル、嶌村吉祥丸、さらに北海道東川町東川賞の受賞作品による「写真と都市のアルケミー ステップ イントゥ ザ シティ」など、多彩な企画が展開されていた。だが、どれも出品点数が少なく、全体に“薄い”印象を受ける。東京駅周辺のような雑駁な環境で写真を展示する場合、ある程度集中したまとまりのある展示でないと表面を撫でただけに終わってしまう。ビルや地下街のディスプレイの写真に紛れて、せっかくのクオリティの高い写真が立ち上がって見えてこないのだ。むしろ、なんとか大きな会場を確保して、まとめて写真展を開催するほうがよいのではないかと思う。その中では、TOMOHIKO YOSHINO GALLERYの「T3 NEW TALENT 『FIVE VIWS』」展に可能性を感じた。千賀健史、鈴木麻弓、南川恵利、宮地祥平、THE COPY TRAVELLERSら5組の若手写真家の作風はバラバラだが、新鮮な作品が印象的だった。熱っぽく、元気が出てくる展示をもっと見てみたい。

「T3 NEW TALENT 『FIVE VIWS』」展 会場風景[筆者撮影]

2025年10月11日(土)

T3 PHOTO FESTIVALの一環として、「T3 PHOTO ASIA」(東京ミッドタウン八重洲4-5F、2025/10/11-13)が開催された。第2回目になる今年は、昨年の韓国に加えて台湾のギャラリーも出品するようになり、日本のギャラリーも含めて18のギャラリーがエントリーしている。まだ中国をはじめとする他のアジア諸国は参加していないので、名実ともに「PHOTO ASIA」のタイトルにふさわしい企画になるのは、やや先になりそうだが、その端緒が見えてきているのは確かだろう。他に「Discovery New Asia」と銘打って、鈴木理策、グォン・ドヨン(韓国)、ロバート・ザオ・レンフィ(シンガポール)の特別展示もあった。雨模様ということもあり、観客の数が少なく、やや盛り上がりに欠いた印象なのは仕方ない。ただ基本的に、これまで東京では、このようなフォト・アート・フェアがあまりうまくいかなかったことも事実だ。「写真をアート作品として購入する」という習慣が根付いていないというのが最大の要因であることも確かで、長年にわたって指摘され続けてきた課題であるにもかかわらず、その解決策はなかなか見えてこない。写真作品を魅力的に思わせるためには、どのような環境で、どう見せればいいのか、観客(購入者)との間の回路の作り方が、まだ組み上げられていないということなのだろうか。

「T3 PHOTO ASIA」にて、台湾のEach Modernと東麻布のPGIによる共同ブース[筆者撮影]

2025年10月13日(月)

アーティゾン美術館の石橋財団コレクションとアーティストたちの展示を一体化した「ジャム・セッション」の枠で、今年は山城千佳子と志賀理江子による「漂着」展(2025/10/ 11-2026/1/12)が開催された。山城は、作家である父、山城龍雄の記憶を辿りつつ、沖縄の戦中・戦後史をさまざまな角度から再構築する《Recalling(s)》を、志賀は「なぬもかぬも(何でもかんでも)」とフロントガラスの上に記したトラックを目にしたことから、震災後の東北と現代文明のあり方を批判的に検証する作品《なぬもかぬも》を出品している。どちらも、二人がこれまで展開してきた、会場全体を表現の場として構築するインスタレーションの凄みが発揮されており、視覚、聴覚、触覚が絡み合って、観客を巻き込む力が異様に強い展示になっていた。山城の歌、楽器の演奏、説教や語りの声、志賀の会場全体に流れるカエルたちの合唱など、耳に飛び込んでくる音声がとても強く作用して、トランス状態に連れ込まれるような感触を覚えた。石橋財団のコレクションからは、ジンジャー・ライリー・マンドゥワラワラ、ヘンリー・ムア、瀧口修造、アルベルト・ジャコメッティの作品が選出されているのだが、空間に溶け込んでいてほとんど目立たない。「ジャム・セッション」としては失敗だが、それだけ山城と志賀のインスタレーションが強烈だったということだろう。

アーティゾン美術館「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着」展にて、志賀理江子の作品[筆者撮影]

2025年10月15日(土)

GOTO AKIは新世代の日本の風景写真をリードしてきた写真家のひとりだが、今回の個展「旅垢離(タビ・ゴリ)―非線形の風景―」(ふげん社、2025/10/3-10/26)では、とても意欲的な試みをしている。GOTOは2023年11月、24年1月、8月、2025年1月の4回にわたって、大阪・天満橋から和歌山・田辺までの「紀伊路」を歩き通した。1日4万~5万歩というその旅の間、15秒ごとに自動的にシャッターを切るインターバル・カメラで撮影を続け、その数は計2万4千枚に達したという。今回の個展はその中からピックアップした写真で構成されていたのだが、会場には、まさにGOTOの意識から外れた断片的な光景が並んでいた。その「非線形」のたたずまいは、確かに意表をつくものだが、写真を選んだのがGOTO本人である以上、結果的には、その選出の基準は何なのかが問われてしまうことになる。旅の最中のトランス状態を捉えようとするGOTOの意図はよく伝わってきたが、まだ途中経過という印象だ。この試みを他の場所でも繰り返していくと、その積み重ねから何かが形をとっていくのではないかとも思う。

GOTO AKI「旅垢離(タビ・ゴリ)―非線形の風景―」展[筆者撮影]

2025年10月17日(金)

正岡絵理子の写真を初めて見たのは、北海道・東川町の「東川町国際写真フェスティバル」の一環として開催された、2016年の「赤レンガポートフォリオオーディション」だった。彼女はそこでグランプリを受賞している。その受賞作《羽搏く間にも渇く水》が、この度、スウェーデンの出版社ライブラリーマン(Libraryman)から同名の写真集として刊行されたのを契機に、今回の「羽撃く間にも渇く水/粒神」展(kanzan gallery、2025/10/10-11/2)が企画された。正岡の作品は、深瀬昌久や須田一政など、記憶の断片を擦過傷を生じさせるようなモノクロームのイメージに封じ込める作風を受け継ぐ仕事といえるだろう。現代性には欠けているが、逆に「このやり方しかない」という、いい意味での開き直りと、強力なリアリティを感じる。だが、正岡の近作は、カラー写真の日常スナップであり、新たな写真の世界の構築に向けて今、もがきつつあるということだろう。今回展示された旧作を乗り越えていくような、新たな試みを期待したいものだ。

正岡絵理子「羽撃く間にも渇く水/粒神」展[筆者撮影]

2025年10月22日(水)

『日本カメラ』を経て『写真(Sha Shin)』(ふげん社)の編集長を務める村上仁一(まさかず)は、写真家としても息の長い活動を続けてきた。『夢の又夢』(禅フォトギャラリー)は4冊目の写真集で、これまでは「旅の中で撮影した写真」と「日常の中で撮影した写真」を分けて発表していたのだが、本書では、そのどちらにも属さない写真を選んだのだという。撮影を続けていると、いつ、どこで撮ったのかわからない、時にはブレたり露出不足になったりして、普通は見過ごしてしまう写真が増えてくる。ところが、それらが「夢とうつつの境界」、つまり写真家の無意識レベルでの視界のあり方を捉えているように感じることがある。たしかに、写真集のページを繰ると、そういう身に覚えのありそうな写真が並んでいて、幽明の境を漂うような気分になってくる。タイトルの『夢の又夢』は、どこかの街のスナックらしい看板の文字から来ているのだが、ほかにも「平和小路」「不思議びっくりムクムク動物」などの看板やポスター、1時53分あたりを指す時計、電線の間を飛ぶ飛行船、耳のクローズアップなど、「夢とうつつの境界」としか言いようのない光景がちりばめられていた。

村上仁一『夢の又夢』[筆者撮影]

2025年10月23日(木)

京都写真美術館の総合会館30周年記念展の一環として開催された「作家の現在 これまでとこれから」展(東京都写真美術館2階展示室、2025/10/15-2026/1/25)の出品作家は、石内都、志賀理江子、金村修、藤岡亜弥、川田喜久治だった。なぜこの5人なのか、という理由は展示を見てもよくわからない。たしかにこれまで同館で何度か作品が展示され、作品がコレクションされている写真家たちであるが、彼らでなければならない必然性は乏しい。さらに、過去作が中心なので「これから」という側面はあまり浮かび上がってこない。企画展としては成功しているとはいえないだろう。だが、金村修と藤岡亜弥の、現在進行形の作品群はとても面白かった。金村は写真プリントだけでなく、コラージュやドローイングの仕事を見せている。写真からインスピレーションを得たものもあるようだが、ほとんどは自動書記のように線や色やフォルムを増殖させていく。これまでの仕事との“切断”が逆に新鮮に思えた。藤岡は2018年から25年にかけて毎年、広島で「8月6日」の平和記念式典とその周辺をスナップ撮影した作品を出品している。繰り返しと微妙な変化が写真から見えかけてきているのが興味深い。

「作家の現在 これまでとこれから」展にて、金村修の作品[筆者撮影]

2025年10月25日(土)

鎌倉一帯で10月に展開されているイベント「KAMAKURA POETRY FESTIVAL 詩を」(通称、「詩をフェス」)。その一環として、鶴岡八幡宮に近い個人住宅「Y邸」で、「谷川俊太郎 写真展 “lost & found ”」(2025/1025-10/28)が開催された。詩人の谷川俊太郎は、1950年代に二眼レフカメラのリコーフレックスで、盛んに写真を撮影していた。今回はその中からピックアップした写真と、同時代に書かれた詩をカップリングして出版された『楽園』(Two Virgins、2023)から10点が展示されている。古い家の座敷や廊下や窓際などに、モノクロームのプリントが並ぶ。その雰囲気がとてもいい。写真が、あたかもその家で撮影されたように思えてくる。谷川の写真自体が、家族や飼い犬、友人たちを含む日常スナップなので、どこで、どんなふうに写真を見るのかというシチュエーションはとても大事になる。写真を「見る」という行為を問い直す展示にもなっていた。

「谷川俊太郎 写真展 “lost & found ”」[筆者撮影]

2025年11月7日(金)

矢作隆一はメキシコ・ベラクルス州ハラパ在住のアーティスト。このところ日本での展示も増え、その存在感が増してきている。本来は石彫を中心に制作してきたのだが、写真やインスタレーションも積極的に試みており、多次元的な作品展示を見ることができる。今回の東京・銀座、巷房での個展では、3階(巷房1)、地下(巷房2)、階段下の3会場を、「ラッキー・ノーストライク」という総タイトルで構成していた。今年は「戦後80年」の年であるとともに、矢作がハラパに住み始めてから30年目になるという。日本が「唯一の被爆国」であることを、どうしても意識せざるをえないこの年を迎えて、矢作は核の問題をストレートに取りあげた。原発マークを貼り付けたビニール傘を108個積み重ねる。広島と長崎で行なわれた、原爆投下の日の式典を報じた新聞記事で鶴や舟を折る。広島と長崎で採取した石をメキシコの石でそっくりそのまま模刻する――そのような作業を通じて、われわれの現在が、たまたま原爆が落ちていない(「ラッキー・ノーストライク」)という危うい状況で、ギリギリ成り立っていることが伝わってきた。

矢作隆一「ラッキー・ノーストライク」展[筆者撮影

2025年11月8日(土)

宮崎県都城市の都城市美術館に来ている。同館で開催中の「植田正治 写真することがとても楽しい」展(2025/10/26-12/7)に合わせて、11月9日に、植田正治のお孫さんで植田正治事務所の代表を務める増谷寛さんとトークをすることになったためだ。植田の写真展は、没後4半世紀を経た現在でもコンスタントに開催され、写真集なども刊行されている。セルフポートレートや家族の写真を含むその作品世界が、親しみやすいものであることに加えて、生涯にわたって、意欲的、実験的に表現領域を拡大していったその写真家としての営みが、若い観客や読者にもアピールしているということだろう。今回も、初期から晩年に至るまで、代表作160点以上が並んでおり、充実した内容の展示だった。写真集、雑誌、使用したカメラなどの周辺資料にもきちんと目配りされており、あまり展覧会に出品されることがないカラー作品も出品するなど、新たな切り口も提示している。まさに「写真する」ことの楽しさがしっかりと伝わってくるいい展覧会だった。

「植田正治 写真することがとても楽しい」展[筆者撮影]

2025年11月18日(火)

高橋万里子は身の回りのモノとポートレート(女性)とを組み合わせた写真シリーズを発表してきた。今回、3年ぶりに開催したという個展「BEACH」(photographers’ gallery 、2025/11/6-11/18)では、海辺の風景という新たな被写体が登場してきていた。自宅に近い鵠沼の海辺に立つと、潮の満ち引きや季節の変化などを感じるとともに、どうしても人の生と死について考えるようになったという。ここ数年で、近親者の死を続けて経験したこともあり、外界の眺めが以前とは違ったように感じてきたということもあった。ポートレートのパートで撮影しているのは、自分と同じ、あるいは一回り年下の友人たちだが、彼女たちとの付き合いも長くなり、時間の厚みがそれぞれの表情や身ぶりに沈潜してあらわれてきているように見える。高橋は1990年代からの長い発表歴を持つ写真家だが、このところ、その作品世界が熟成し、より味わいを増しているように感じる。もう少し撮り続けて、ぜひ写真集にまとめてほしいシリーズである。

高橋万里子[筆者撮影]

2025年11月20日(木)

横田大輔の久しぶりの個展である。東京・新井薬師前のスタジオ35分に新作の並んだ「植物、多摩川中流域」展を見て、写真そのものとの向き合い方がかなり変わってきたのではないかと感じた。被写体になっているのは、まさにタイトル通り、是政橋周辺の植物、多摩川中流域である。横田は、銀塩写真とデジタル写真を行きつ戻りつしつつ、スキャナーのノイズを取り込んだり、くしゃくしゃにした印画紙を床に積み上げたりして、画像の物質性にこだわった作品を発表してきた。だが、今回のシリーズでは4×5判の大判カメラを用いていることもあって、普通に植物を「観察」し、ほぼノーマルトーンでカラー・プリント(一部モノクローム)した写真を展示していた。会場に掲げられたテキストで、横田は「観察すること、写真を撮ることがどうもうまく交わらない」と書いている。カメラを操作したり、ピントを合わせたりしているうちに、被写体から疎外され、どこに身を置いていいのかわからなくなってしまうというのだ。このような述懐を読むと、横田が写真を撮るという行為そのものの意味を、もう一度、根本から考え直そうとしていることがわかる。ここから、横田の「第二期」の仕事が始まるのかもしれないとも感じた。

横田大輔 写真展 「植物、多摩川中流域」[筆者撮影]

 

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