
上演日:2026/01/12
会場:サントミューゼ 小ホール[長野県]
作・演出・振付:岡田利規
振付・出演:中村恩恵、酒井はな、島地保武、入手杏奈、矢澤誠 / 小林うてな
公式サイト:https://www.santomyuze.com/hallevent/20260112_dance_no_shinsain_no_dance/
上手側のモニターはプロンプターで、出演者は時折そちらを見ながら発話する。正面の字幕は鑑賞者用で、上田公演では投影されていない(『ダンスの審査員のダンス』東京公演より)[Photo: Azusa Yamaguchi]
客席もずっと明るかった。
目線の先の舞台上に、テーブルについた6名の出演者がいて、その手前には座る人たちの後頭部がずらっと並んでいる。左右にも人がいて、後ろにもいるのが気配で感じられる。笑い声がどこから聞こえてくるのかはわからなかったが、すぐ近くではなさそうだった。劇場ではあまり聞くことのない声量の笑い声に安心感を覚える。ここで笑うよねー、笑っていいんだよねー、と顔も見えない人の声に対して思う。私も何度も一緒に笑った。上演を一緒に楽しくつくりあげる、とはこういうことか、と私は思った。演出は、私に対してもはっきり機能していた。
始まって早々、「ダンスの審査員のダンス/というこのダンス/作品兼演劇作品はダンス/の審査員がダンス/するダンス/でありかつダンス/の審査員がダンス/する演劇でもあるダンス/作品兼演劇作品ですなのではい/演劇/でもあります/でもダンス/でもあります/」と述べられる本作で、物事はひとつの意味には固まらない。それらはいつも同時に、何かで“も”ある。そのことが鑑賞者に伝わるよう、“同時”を構成する物事の一つひとつが順序立てて理解されるよう、リリック★1は書かれ、演出がなされている。
「ダンスの審査員」たちは、舞踊家の中村恩恵と酒井はな、ダンサー・振付家の島地保武と入手杏奈、俳優の矢澤誠、音楽家の小林うてなによって演じられる。それぞれ、ダンスの持つ性質の一部を極端に強調したような(発言を行なう)キャラクターが配されており、架空のアーティストが上演した架空の作品について、それぞれのキャラクターの観点からダンス論を述べる。
はずだったが、中村演じる紅天⼥センセイと島地演じる踊りンごセンセイは、冒頭で自身の発話や身振りが作品演出の範疇であることを確かめ合い(「やることになるというかすでにやってらっしゃいますよね紅天⼥センセイ紅天⼥センセイ役/」)、この作品が演じることそのものを取り扱っていることをまず明らかにする。また、小林演じるハルカナルタカミザワセンセイ(ときどき蜘蛛)は、役名に記されているように、ときどき蜘蛛を演じる。本作では、審査会場にいる一匹の蜘蛛にやりとりのフォーカスが移り、存在しないそれを巡るやりとりが白熱することがある。二度の登場シーンで小林は喋り方と声色を調整し、ハルカナルタカミザワセンセイから蜘蛛へと役をスイッチするが、その終わりはいつも「そういうと蜘蛛はスタスタスタ/姿を消したのだった/はい/」とどちらの役でもないナレーション調である。小林は劇中でぱんぱんのリュックから取り出したり、スタッフによって運び込まれる楽器を用いて即興演奏を行ない、音楽家としての役割もまっとうする。小林は、複数の役を担い、かつ演じているということが始めから終わりまで明らかにされている。
入手演じる2EZ2Danceセンセイは「だからやっぱりグルーヴですよねグルーヴが物⾜りなかったって話」と、矢澤演じる⾵林⽕⼭センセイは「わたしにとっても⼤事なのは結局のところ/液体かどうかなんですよ⼤事なのは」と、それぞれ「グルーヴ」と「液体」というキーワードを元に審査のコメントを述べ続ける。スポーティーな衣装を着用した2EZ2Danceセンセイと対照的に、ジャケットにシャツで言葉数多く論じる風林火山センセイはおそらく研究者や批評家といった人物像だ。しかし、風林火山センセイはダンサーの役でないにもかかわらず舞台上をくるくると踊り回る。そして、2EZ2Danceセンセイの動きにグルーヴがあるのかどうか、それが面白いのかどうかは、自身の掲げる「美」なるものの揺らぎに翻弄されるピュアムーブメントセンセイ同様私にも「わからないです」。こうして舞台上で繰り広げられる“ダンス”をただそのままに観ることが意味をなさないのだと私は思うことになる。軽妙なやりとりの、発話の区切りと文の構造は必ずしも一致しないし、文末の助詞が閉じないことで文は延びていく。岡田利規の書く台詞・行なう演出らしいこのあり方によって、私は台詞の意味内容ではなく、やりとりの構造を受け取った。内容に意味はないとも言えるのだが、各意味がどのように互いの発言に対して機能しているかよくわかる。そもそも架空の作品について論じている台詞なのだから、それは言葉がドライブし、前へ進めていくためにある、ように思える。
客電が点きっぱなしの客席は、公開審査会のような状況を演出しながら、舞台上では密室の審査会が演じられているというズレを生じさせる。そのズレがまた、それぞれの演者がそれぞれのやり方で、“同時”に何かでもあるということを強調するし、即興の動き、ふとした目線の交わし合い、水を飲む姿……ツアーを重ねるなかで、出演者たちのパフォーマンスが深まり、関係が積み上がっていることも上演の端々から感じられる。演じることに自己言及的な作品だからこそ舞台上にそのまま残しておける佇まいがある。
(後編へ)
★1──本作の現場では、台本(スクリプト)ではなく、リリックと呼称されているそうだ。
鑑賞日:2026/01/12(月・祝)
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