artscapeレビュー

岡田利規『God Bless Baseball』

2015年12月01日号

会期:2015/11/19~2015/11/29

あうるすぽっと[東京都]

岡田利規の演劇には、独特の退屈な時間がある。「退屈」というと語弊があるけれど、照明が暗めになり、眠くなる時間がしばしば後半に用意されている。「クライマックス」へ向かうためにはむしろテンションを上げるべきなのだが、劇的葛藤のようなわかりやすい盛り上がりの代わりに、たとえば今作では、ダンスのワークショップみたいな時間がはじまるのだ。ここに岡田の賭けがある。この作品は、日韓米三国の関係性が、野球を焦点に語られる。野球のルールがわからない女の子(韓国人と日本人の女優)と野球は好きじゃないが父に促されて少年時代に野球をやっていた男性、彼らの視点を通して見えてくる野球は必ずしも目新しいものではない。ゆえに、日韓米の関係性もさして目新しくはない。岡田らしさは、野球をめぐる語りにおいて、いつのまにか日本人と思っていた(日本語を話す)女優が韓国人の女の子を演じていたり、韓国人と思っていた(韓国語を話す)男優が日本人の男の子を演じていたりするというところにある。これが今作において単なる岡田流演劇法に収まらないのは、このように「入れ替えて演じる」ことが、単に書かれた物語を伝える演劇であることを超えて、実際に両国の役者が他国の登場人物を演じたらという想像の実演(パフォーマンス)になっているからだ。実際にやってみるということ。実際にやってみれば、日本人の役者が韓国人を演じることもできるということがわかる。けれども、やってみなければこの可能性は永遠に現実のものとはならない。これを「じゃあ韓国人である君が、日本人の◯◯くんを演じてみようか」などというセリフとともに、入れ替えの芝居にしてしまえば演劇にはなるのだが、今作での岡田の意図は達成されないだろう。演劇という舞台の場で、「実際にやってみること」(パフォーマンス)は可能か、これが今作で岡田が挑戦したトライアルだと筆者は考える。その点で、捩子ぴじんが参加した意味は大きい。彼はバットを持って登場すると、イチローのモノマネでYouTubeの人気者「ニッチロー」の映像を繰り返し見て覚えたといって、イチローのモノマネを披露する。そのモノマネは緻密に仕上げられていて、舞台にイチローが降臨していると錯覚するような感覚を与える。捩子はイチローを実際にやってみるだけではなく、自分はバットと一体化した人間だと豪語して、その一体化した状態を実際に示してみせる。あるいは、この捩子=「イチロー」は、体の部分が自分ではなくなり、その部位がどんどん増えてゆくというダンスのワークショップのようなものを3人に促す。これは〈アメリカの軍事力という傘に入ることで自分たちの主体性が失われている〉ということのメタファーなのだが、セリフで描出するのではなく「自分ではなくなる」状態を「実際にやってみる」のだ。これは確かに賭けだ。演劇において役者の身体の状態は「ということにしてあります」と記号的な理解ができたら、それでよい。苦しみの演技だったら「苦しんでいるんだな」と観客が思えれば演技としてOKなはず。しかし、ここでは実際に身体に変容が起きなければならない。その点で、この時間は演劇ではなく、あえて言えば「ダンス」あるいは「パフォーマンス」の時間だ。ラストの天空に掲げられていた巨大な円形のオブジェに、水をかけるシーンもそうだ。このオブジェがなにかのメタファーなのかはっきりと示唆されているわけではない。ただし最初白かったそれが次第に白が剥げて素材の地が見えてくるところから、「自分ではなくなった」状態から自分へと戻すことのメタファーとして読める。しかし大事なのは、それをそう「読むこと」よりも、水をかけていくうちに次第に剥がれていく、その物理的な変容を「見つめること」だろう。この時間は退屈だ。言い換えれば、観客にとって能動的な鑑賞が促される時間だ。岡田の本領はそこにある。「実際にやってみる」という促しは鑑賞のみならず、観客の生へ向けた問いかけでもあるはず。想像の実演は私たちの課題なのだ。

2015/11/27(金)(木村覚)

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