
発行:中央公論新社
発行日:2026/02/25
発行元ウェブサイト:https://www.chuko.co.jp/shinsho/2026/02/102894.html
日常生活のなかで当たり前とされている「何か」を疑うことは、ひとが自分でものを考え始めるための第一歩であると言ってよい。そして、伝統的に哲学と呼ばれてきた営みは、わたしたちが所与の事実とみなしている現実を根本から疑うことを、ときにみずからの務めとみなしてきた。日々の教育や就労の現場でも、わたしたちが「何となく」従っているルールやシステムを疑うことは──それが現状の具体的な「改善」をめざすかぎりにおいて──奨励されることのほうが多いだろう。
このように、わたしたちの日常生活とも無縁ではない「懐疑」だが、本書はその哲学的起源を古代ギリシアの諸流派に即して跡づける。本書前半では、紀元前5世紀の「最初のソフィスト」プロタゴラスをはじめとする人々の思想を概観しつつ(第1章)、紀元前1世紀に勃興した「ピュロン主義」という古代懐疑主義の立場が紹介される(第2章)。そのうえで後半では、モンテーニュやデカルトに代表される近代以降の懐疑論の姿をたどり(第3章)、著者の専門であるウィトゲンシュタインやカヴェルの議論に即して、近代的な懐疑論への批判を行なう(第4章)。
以上のようにまとめると、本書は西洋哲学における懐疑論の歴史を堅実にたどった(だけの)本のように思われるかもしれない。だがむしろ本書の読みどころは、ピュロン主義に代表される「古代懐疑主義」と、近代以降に勃興した「懐疑論」をあえて強く対照させることで、前者の意義を再発見するくだりにある。以下にその議論のポイントを抽出してみよう。
まず、著者が指摘する近代的な「懐疑論」の問題点はどこにあるのか。例えば、みずからの思惟(=コギト)以外のすべての存在を疑ったデカルトしかり、わたしたちが身を置く世界の大部分を疑う立場は、「外界の存在全体を疑わしいものとする法外な懐疑論」(142頁)を出現させるにいたった。事実、近代以降の哲学において主流となったのは、この「全面的懐疑論」──あるいは、それをやや弱めた「局所的懐疑論」──であった。しかしながら、かつてウィトゲンシュタインが指摘したように、これらの懐疑論が抱える最大の問題は、われわれが共有する「世界像」や「生活世界」といった足場そのものを懐疑の穴に投げ込んでいる点にある。あるいはカヴェルに即して著者が書くように、「近代的な懐疑論者は、我々の生活形式にただ乗りしながら、その外部に──ひいては、この世界の外部に──出ることを欲する。それは、共有された基本的な生活形式を維持する責任を自分だけ放棄する振る舞いにほかならない」(191-192頁)。
平たく言いかえれば、こうした無責任な懐疑論は──次の「 」内は本書からの引用ではなく、あくまで評者の印象だが──いくぶん「子どもじみた」懐疑だということになろう。これに対して、より「大人びた」懐疑を展開した人々こそ、古代懐疑主義とその継承者たちである、と著者は考える。事実ピュロン主義者たちの方法は(1)絶対的な真実に到達できるという独断論と、(2)そのような真実は把握できないという否定論のいずれにも与することなく、(3)あくまで探究を継続するという前提のもと、目の前の議論を「判断保留」に導くことにあった。ピュロン主義者の目的は、この判断保留により人々を心の平穏(=アタラクシア)へと導くことであって、その相手を「論破」することにはまったくなかった。むしろそれは、絶対的な真理を訪ね求めずにはいられない人々への一種の「治療」行為に相当したのである(彼らの多くは医師であった)。
むろん、こうした古代懐疑主義にも問題がないわけではない。というのも、この立場をつきつめると、法律・慣習・伝統といった規範に従うことが推奨されることになり、結局は「現状維持」に与することを避けられないからである。本書では、古代懐疑主義がもつ、そうした保守的な性格についても抜かりなく指摘されている。
ここまでの内容からも推察されるように、本書は陰謀論に代表される、現代の「無責任な懐疑」に対する処方箋という一面がある(第5章)。陰謀論者は自分が置かれた現実を構成する「何か」を疑って事足れりとする──そして、そのことを通じて独善的な満足を得る──わけだが、このような懐疑には端的に言って「責任」が不在なのである。ひるがえって、本書が紹介する古代懐疑主義の立場に立てば、われわれはみずからの懐疑から出発して、他者との対話に基づいたより建設的な「生活世界」の構築に努めていくべきだ、ということになろう。ひとはときに「そもそも……」というかたちで大きな懐疑を投げかける。もちろん、うまくいけばそれが大きな変革につながることもあるだろう。だがそのような問いが、当該の議論を可能にするコストを他者に転嫁していないだろうか、ということは考えてみてもよいはずだ。本書が光を当てる古代懐疑主義のエートスは、成熟した社会を復権するためのひとつの手がかりであるように思われる。
執筆日:2026/07/31(金)