会期:2026/08/01〜2026/09/27
会場:水野美術館[長野県]
公式サイト:https://mizuno-museum.jp/exhibition/2026-08-exhibiton/
ここで、その後の神経衰弱の発症と休養の後、
浮世絵の下絵が残ることは多くはないと思われる。芳年については、冒頭に紹介した太田記念美術館で《袴垂保輔鬼童丸術競図》(1892)の下絵が初公開されたことがある。しかしこれは、最終的な錦絵の構図が現われていたもので、最終段階の下絵である。本展で展示されていたのは下絵より以前の段階の「新撰東錦絵」(1885)の画稿2点で、それは鉛筆で描かれ水彩で着彩されていた。それらは明らかにモデルにポーズを取らせたと思しき描写からなり、完成した絵と見比べると、筋肉のねじれや表情にかかわる部分だけを抜き出してスケッチしたことがわかる。芳年がまず描きとめたのはこのようなものである。浮世絵は西洋美術的な写実表現と異なり、今日の目からはデフォルメされた描写に見える。西洋画の影響が徐々に入り始めた時代の浮世絵師である芳年もまた、完全な写実とは異なる描き方をしている。しかし、そのプロセスに写実的なスケッチが経由されていることをこれら画稿は示している。
芳年は、確かにそこにあった、あるいはありえた表情を見てきた作家である。戦地に赴いてスケッチを繰り返したという逸話からも、これら画稿のような描き方を習得する以前から芳年の目が現実をどのように見てきたのかは明らかだ。血みどろであろうとなかろうと、猛々しい武士であろうと、妖艶な美女であろうと、どの人物も意志を持ち身体を躍動させている/させていた。同時に、それら描かれた者たちはいつも去り行く者だった。悲壮な最期を遂げた者、大文字の歴史には残らない勇士、看取られない敗者。劇的に描きうる画題を芳年はいつも選んでいたが、その描写の向こうには実際に目にした内戦の現実があったのだ。筆を走らせる以前、そのように現実に目を向ける人物であることがこれら画稿から遡及的に思わされる。
そのうえで、芳年が実際に鞠子まで行進を取材しに行ったかはわからない。もし仮に現地に赴いたのだとしても、行進の正面に陣取ることは不可能だ。またそれまでの観察の蓄積を持つ芳年は、同時代に発生した西南戦争については、現地に赴くことなく想像ですべてを描ききった。有名な画題でもある鞠子の宿場町を、想像で描くことは十分に可能だったろう★5。
「鞠子」の兵士と町人は、集団の一員として描かれており、芳年の画業のなかでも異質なモチーフである。そこには劇的な演出も加えられていないし、加えようもなかったのかもしれない。その演出の不在が、芳年が目にしてきた現実とのギャップを思わせ、また新たな時代の到来を伝えてもいる。そして同時に、ほかの連作に現われる人物たちが去り行く者であることが、画面の枠を超えて強調されている★6。
本展では、芳年が時代の様相をどのように眼差し、描いたのか/描かなかったのかの逡巡が同時に見えてくるようだった。厳密には、ある時期に筆が走った複数の画面があり、それぞれに手が止まったことを想像させる展示であった。同時というのは、瞬間のことではなく、人生の尺で見るならある長さを伴う時期のことを指すのだろう。ひとりの作家の人生を辿ることの豊かさと困難を思わせる展覧会だった。
芳年はどのように描いたかが議論の中心となる作家だが、同時代の何を見聞きし、作品を描いてきたのかにも、調査や研究が深まっていくことに今後も期待したい。
★5──広重の「東海道五十三次」では、茶屋一軒だけを描いたものから、遠景で雪景色に沈む宿場全体を描いたものまで、さまざまな構図が存在する。参照となる先行作品も少なくなかっただろう。
★6──ともに1880年前後に発行された連作「大日本名将鑑」「大日本史略図会」は、歴史上有名な武将や天皇を描いたもので、明治維新以降の日本において日本という国家像や概念を国民に広げていくプロモーションの意味合いもあったようだ。英傑を描いたさまざまな連作だけを見ていくと、芳年の懐古的な画題がナショナリズムにも通じるという見方だけになってしまうだろう。その意味でも、「鞠子」を残したことにどのような意味合いがあったのか/なかったのかは考えてみたいところだ。
鑑賞日:2026/09/12(土)