会期:2026/09/19~2026/11/21
会場:gallery αM[東京都]
公式サイト:https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2025-2026/vol7/

「戯曲を声に出す」という行為は、単にフィクションとしての物語を立ち上げ、それに没入させることを意味しない。それは、「私たちは誰の声に耳を傾け、何を信じ、何に熱狂し、何を欲望しているのか」をあぶり出し、「現実」を背後で支える巨大な物語を可視化させる。

柳瀬安里はこれまでも、オーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクの戯曲を暗唱する行為を作品化してきた。《光のない。-私の立っているところから》(2016-2017)では、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を契機に書かれたイェリネクの『光のない。』を、沖縄・高江のヘリパッド建設反対運動の現場を歩きながら暗唱する。「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という人称代名詞が多用された戯曲を、建設工事反対デモと機動隊が行き交う現実の路上を歩きながら発話することで、「国家」「わたしたち」を形成/排除する諸力が絶えず問い直され、輪郭線が曖昧に多重化し、日本/沖縄/アメリカ、柳瀬/機動隊員/鑑賞者の関係を問い直すものとして転送され続ける。

本展は、ゲストキュレーターの大槻晃実(芦屋市立美術博物館)による企画シリーズ、αMプロジェクト2025–2026「立ち止まり振り返る、そして前を向く」の第7弾。本作で柳瀬は、イェリネクの戯曲『汝、気にすることなかれ シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作』(1999年出版、2001年初演)より、第一部「女魔王」を使用した★1。モノローグの主は、ウィーンの由緒ある「ブルク劇場」の人気女優。彼女の遺体を収めた棺がしきたり通り、劇場の周りを担がれて練り歩くなか、彼女は死してなお、観衆に延々と語り続ける。それは、権力が、メディアのなかの国民的スターを通して大衆が望む物語を生み出し、「私たち」というフィクションの共同体をつくり上げ、いかに飼い慣らしていくのかについて語る、皮肉と逆説に満ちた演説だ。「私はある権力の代理人という力を持った。その権力は匿名であろうとしたけど、でもいたるところで私の手を通してさえ署名をしたわ、『我々!』と。」(p.10)。主人公のモデルは、ブルク劇場の花形舞台女優で、映画女優としても活躍し、ナチ・プロパガンダ俳優の過去も持つパウラ・ヴェッセリー(1907-2000)。イェリネクの戯曲には言葉遊びやテクストの引用が散りばめられているが、本作の原題「Macht nichts」も、「don’t mind(気にするな)」という日常語であると同時に、「Macht(権力/力)」という語が埋め込まれ、それが「nichts(無い)」とも解釈できる★2。


[撮影:飯川雄大]

柳瀬は、2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピックの聖火ランナーを映すダイジェスト映像を、自身の顔に投影しながらこの戯曲を暗唱した。「聖火ランナーが走る姿を見たとき、オリンピックならこの台詞の持ち主になれるのではないかと思った」と柳瀬自身が述べているように、イェリネクのテクストは、戦後復興と高度経済成長を象徴する1964年の東京オリンピックの記憶を反芻しながら、「復興五輪」を掲げた2021年の国家イベントという大舞台に登場した聖火ランナーたちの姿とあまりにも見事に共鳴する。その予言的なありさまは戦慄的ですらあるが、凡庸なものであればあるほどいかに権力が浸透する回路になるかという構造の普遍性の抽出でもある。


[撮影:飯川雄大]

約35分の映像はノーカットで撮られ、暗唱する台詞に合わせて投影する映像が選択されているわけではない。にもかかわらず、台詞の端々が映像と戦慄的にリンクし、「オリンピックという舞台で何が上演されているのか」についての解像度を上げていく。一見脈絡なく奔流のように柳瀬の身体から発せられるテクストは、同じく怒涛のごとく切り替わる聖火ランナーの映像と干渉し、意味を打ち消すどころか、「抽象的で難解なイェリネクのテクストがいったい何を語っているのか」が鮮明に差し出されていく。「観衆」「衣装」「演技」「書割」「照明」というキーワードに着目してみよう。延々と流れるダイジェスト映像の聖火ランナーたちは、みな一様に、沿道に向けて笑顔で手を振り、カメラに向かってピースサインやガッツポーズを決める。「大勢の人ね、あなた方ひとり残らず出ていらしたのかしら?」(p.30)、「みんなテレビの中の人間たちにしか好感を覚えなくなってくる」(p.11)という台詞は、沿道で応援する観客、そしてテレビの向こう側にいる無数の視聴者に向けてメタ的に発せられる。聖火ランナーたちは、みな同じ日の丸カラーのユニフォームを着ており、「民族衣装のモデルよろしくあなた方の前に登場して」(p.31)という台詞と呼応し、「個人」でなくなっていく事態を指し示す。「私たちはそもそも何を演じるべきかもわからないまま、演技を始めている」(p.41)という台詞が端的に示すように、お揃いの衣装を着用し、観客に笑顔で手を振り、同じ身振りを繰り返す聖火ランナーたちは、「日本人の代表」を演じさせられている。何度も登場する車椅子ユーザーや障害者は、「どういう役作りをしよう?(…)どんな人物にすればいい?」(pp.40-41)という台詞によって、国家権力が演出・配役する「ダイバーシティ」の演じ手を皮肉に映し出す。

「復興五輪」を掲げた2021年の東京五輪の聖火リレーの出発地は、福島県双葉郡楢葉町・広野町にあり、原発事故の収束拠点となった「Jヴィレッジ」である。「あの書割も悪くはなかったけれど、でも私はもっと素晴らしく、もっと高価な書割をいくつも見てきたわ(…)いくらかかったのかしら?」(p.36)という台詞は、「舞台の書割」すなわち被災地の復興をアピールするルートが用意されている事態と莫大な復興予算を示唆する。

このモノローグの主のモデルである大女優には、同じくブルク劇場の女優になった3人の娘がいる。「私は三位一体の神のような存在。そして三人の跡取り娘がいて、望もうが望むまいが、私の顔を引き継いでいく」(p.20)という台詞は、聖火のリレーと、オリンピック自体の反復を指し示す。そして、1964年の東京五輪の開会宣言を読み上げる昭和天皇の映像が挿入されるとき、男系男子の継承に限る天皇制をも、反転的に重ねられるだろう。「チョコレートのように甘い時代は終わったのよ」(p.16)、「よかったわ、あの時代が過去のものになって。もう私たちの時代だって思わなくていい」(p.26)という台詞は、「あの時代」を再びオリンピックに重ねる郷愁に対する強烈な皮肉となる。


[撮影:飯川雄大]

「灯りを、照明を当てて!」(p.20)という女優の要望に応えるように、柳瀬は、ダイジェスト映像を、まばゆいスポットライトのように自らの顔に浴びせる。暗唱する柳瀬の顔と、映像のなかの聖火ランナーの顔がちょうど重なるように投影されることで、「個人」の顔が曖昧にかき消され、輪郭が多重化していく。そしてさらに恐るべきは、「個」が溶解した「私たち」の背後に、プロジェクターの光を遮った柳瀬自身の頭部が、大きな黒い影となって常に存在し、画面を浸食し続けている事態である。それは、個人を飲み込み、背後で支配し続ける、巨大で目に見えない力をまさに「影」として可視化する。「私はたった一人でも民衆なの。私一人だけで民衆のすべて。だって私はこんなに多面的なのだもの」(p.26)、「この二重底の顔の中に皆さん全員をしまってあるから」(p.40)という台詞は、文字通りの事態とともに、オリンピックと全体主義の近接にほかならない。「たった一つの存在にさせられた」(p.31)、つまりここではみなが「日本人」という唯一の役を喜んで演じる。「そうは言いながらも、舞台に立ちたいのが私たち」(p.41)であり、「群衆の濁流を押しとどめることなんて、できっこない」(p.41)からだ。


[提供:gallery αM]

柳瀬は、死してなお雄弁に語り続ける大女優を、オリンピックという亡霊に重ね合わせることで、葬り去ろうとする。これは、「日本人」というフィクショナルな共同体や「復興」の物語を国家が作り出そうとする、私たちに取り憑いた亡霊なのだと。語ることで死者を再生させつつ、それは葬送のためになされるという逆説がここにある。

イェリネクは自作について、「私は心理や人物や性格や登場人物を描かない、言葉の担い手を描く、言葉がどこから来てどう作用してどこに行くのかを描く」★3と述べている。「劇場」の外のいたるところで、国家権力によって「国民」が上演され、ふさわしい「衣装」「書割」「観衆」が用意されている。1964年の東京五輪が白黒テレビの世帯普及率を大幅に上げたように、メディアは国民意識の形成装置である。「舞台は世界を意味する、けれど、幸いなことに世界ではないの。舞台の基盤をなすもののほうが、世界の基盤よりももっと強固よ」(p.12)。イェリネクのテクストの潜在力を引き出した柳瀬の作品は、「どのような力によって、何がこの世界で上演されているのか」という構造をクリアに浮かび上がらせていた。

★1──翻訳は下記を参照。『ドイツ現代戯曲選30 第九巻 汝、気にすることなかれ』(谷川道子訳、論創社、2006、pp.8-42)
★2──同上、訳者解題pp.143-144。
★3──同上、p.141。

鑑賞日:2026/09/19(土)

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柳瀬安里 個展「光のない。」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年04月15日号)