ドイツにおけるオペラ上演──コトブス州立劇場から

欧州、なかでも、私が2023年4月から1年間滞在してきたドイツにおいては、〈演劇の現在〉を知るためには、オペラについて一定以上の知見をもつ必要がある。演劇界、あるいは広い意味での舞台芸術界とオペラ界は、作品創造から上演のシステムに至るまで、深くつながっていているからである。ドイツの一般的な都市では、そこに公立の劇場があり、理想的には、付属のオペラの専属歌手、演劇上演のための所属俳優、バレエの上演(あるいは、オペラへの出演)のための付属ダンサーがいて、豊富なスタッフが実演家をささえる体制になっている。

例えば、首都ベルリンから電車で1時間30分ほどの距離にあるブランデンブルク州・コトブスという町の人口は約10万人である。ここにはコトブス州立劇場(Staatstheater Cottbus)があり、オペラ歌手に演劇の俳優、そしてバレエのダンサーが所属しており、ウェブサイトには、「アンサンブル」として、紹介されている★1。そして、フィルハーモニーという名のオーケストラと合唱団も付属している。また、ドイツ語圏における劇場文化の資料集『Theaterstatistik 2021/2022』★2には、コトブス州立劇場が上演に使う空間が五つ挙げられ、メインの建物には621名収容の大ホールがある。

この劇場が日本で話題になったのは、日本の演出家である菅尾友(1979-)が、2022年12月に主席演出家およびオペラ部門監督代理に就任したからである。2023年のシーズンには、モーツァルト『魔笛』やリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のような定番作品に加え、プロコフィエフの『三つのオレンジへの恋』が、すべて菅尾演出作品としてレパートリー上演されている。


モーツァルト『魔笛』[演出:菅尾友、コトブス州立劇場にて上演]
© Marlies Kross


プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』[演出:菅尾友、コトブス州立劇場にて上演]
© Bernd Schönberger

緻密なアンサンブルを十分に生かした、ひとときも目が離せない演劇的演出で知られる菅尾だが、私が見る機会を得た『魔笛』と『三つのオレンジへの恋』では、ディテールにこだわりつつ、速度感と分厚いレイヤーの身ぶり的多様性を歌手にも合唱団のメンバーにも課していた。その結果としてのきわめて複雑な〈効果〉を上演に与える特異な演出が強く印象に残った。


モーツァルト『魔笛』[演出:菅尾友、コトブス州立劇場にて上演]


コトブス州立劇場は、藤野一夫の分類では、ドイツに約70ある「三部門劇場」にあたる。

三部門劇場とは、同一の劇場組織の中に、オペラ(オペレッタ・ミュージカルを含む)・バレエ・演劇の三部門を包摂する劇場で、全国に約70ある。いかなる地方都市に居住していようと、鑑賞意欲さえあれば多様な舞台芸術にわずかな自己負担額で触れることができる。人口10万人程度の都市であれば、オペラを年間上演できる公立劇場が必ずあり、青少年向けプログラムも充実している。★3

「年間上演できる」に注目しておきたい。すでに言葉としては出しておいた「レパートリー上演」するということだが、期限を切って連続公演するのではなく、年間を通して、また年度をまたいでも、同じ作品を繰り返し上演するシステムである。したがって、コトブス州立劇場では、大ホールの舞台で、オペラが上演される日と演劇作品が上演される日、さらにバレエが上演される日があり、それぞれの演目も、予算や出演者といった劇場組織の状況を考慮に入れつつ、繰り返されることになる。

 

大都市の歌劇場──ベルリンの三つの歌劇場から

コトブス州立劇場と対照的なのが、藤野の定義では、ドイツに14しかない「音楽劇場」で、「オペラとバレエ(まれにオペレッタとミュージカル)など、オーケストラの伴奏を不可欠とする舞台芸術のみを上演し、演劇を扱わない」★4劇場である。「音楽劇場」は大都市に集中しているが、それは大都市であれば、演劇上演の機能は演劇専門劇場(藤野によれば、全国に約50ある)が果たしているからである。

人口約362万人のドイツの首都・ベルリンには、三つの「音楽劇場」、すなわち歌劇場がある。州立オペラ(Staatsoper Unter den Linden)ベルリン・ドイツ・オペラ(Deutsche Oper Berlin)コーミッシュ・オペラ(Komische Oper Berlin)である。客席数は、主要な大劇場で、それぞれ、1356席、1859席、1190席★5である。同じ統計による、コロナ禍明けの2021/22シーズンのオペラ作品の観客動員数は、それぞれ、145,166人、142,949人、69,907人だった★6

藤野も書いているように、夏期の6週間を除いてほぼ休みなくこれらの歌劇場は稼働していて、州立オペラとドイツ・オペラは、約40作品程度を1シーズンに上演、それより予算規模が小さいコーミッシュ・オペラは20作品程度である。「レパートリー」作品の上演が主要部分を占めるが、そこに毎年、「新制作」作品が加わって全体を構成する。

この三つの歌劇場は歴史的にさまざまな経緯を経て現在に至っているが、ドイツの公共劇場=音楽劇場の伝統を踏まえ、所属歌手、所属バレエ団、所属オーケストラをそれぞれが擁している。このうち州立オペラの予算規模がもっとも大きく、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場やロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスなどと並んで、人気歌手を客演に迎えての上演で知られる。

一方、ドイツ・オペラは、上演数では州立オペラと変わらないが、若手歌手を積極的に登用するなど、観客層のターゲットが州立オペラとは若干異なる。

コーミッシュ・オペラは、オーストラリア出身のバリー・コスキー(1967-)が首席演出家だった時代(2012-22)に注目度が上がった。コスキーの考え方も踏まえ、オッフェンバックのオペレッタや『シカゴ』『屋根の上のバイオリン弾き』といったミュージカルも上演するが、自身の斬新な演出でのヴァーグナー作品(『さまよえるオランダ人』)やサイレント映画をモチーフにした『魔笛』(後述)などでも知られる。

 

「演出家のオペラ」──オペラ史と演劇史の交錯を試みる

本来演劇が専門である私から見て、これらの劇場の上演における特質といったものが、はたして抽出可能だろうか。ここでオペラ史と演劇史とが交錯する〈概念枠〉として、1970年代くらいから言われはじめた「演出家の演劇」がひとつの鍵になる。というのも、長らく流行した「演出家の演劇」が収束に向かいつつある、というのが、同時代的共通認識だからである。

「演出家の演劇」は厳密な学問的概念ではないが、演出家が強力な〈作家性〉を発揮する上演とひとまず言っておける。ギリシャ悲劇やシェイクピアのような「演劇の古典」、あるいは19世紀以前にその大半が創作された主要なオペラ作品を、〈そのまま〉上演することに疑義がもたれ、現代の観客とつなぐために、演出家が古典と観客の間の〈物言う〉媒介者となる上演である。媒介者とはいえ、場合によっては、作品に内容的変更をもたらすので、論争になることも多い。

劇場機構の進歩やテクノロジーの発展といった、上演方法に絡む変化も、「演出家のオペラ」は関係している。前回の拙稿で紹介した昨夏のバイロイト音楽祭における『パルシファル』のAR上演がそのひとつである。プロジェクションマッピングやビデオの録画済みあるいはライヴ中継を舞台上に投影する舞台の例も数え切れないほどある。

2023年4月から1年間で私が立ち会った州立オペラ、ドイツ・オペラ、コーミッシュ・オペラの作品群を思い起こしてみると、その演出の特質は、大きく四つくらいに分けられると思われる。

まず、定番オペラに多い印象だが、かなり古い、場合によっては50年以上も前のプロダクション(舞台美術や衣装等々)をそのまま維持しての再演がある。ドイツ・オペラのプッチーニの『トスカ』は1969年、州立オペラのロッシーニ『セヴィリアの理髪師』は1968年のプロダクションである。これらは「演出家のオペラ」時代より前のプロダクションで、原典を〈そのまま〉の上演である。ただし、後者がコメディア・デラルテの芝居小屋での上演という〈枠組芝居〉に設定するなど、演出家の〈見せ方の工夫〉は当然ながらあるが、〈作家性〉とまでは言えない。


ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』[演出:ルース・バーハウス、州立オペラにて上演]

 

「演出家のオペラ」──〈読み替え演出〉

二つ目は、時代設定の変更である。〈読み替え演出〉とも呼ばれるが、「演出家のオペラ」といえば、この変更を思い浮かべる人がもっとも多いのではないか。1976年のバイロイト音楽祭におけるパトリス・シェロー(1944-2013)によるヴァーグナー『ニーベルンクの指輪』の〈読み替え演出〉が伝説的である。オペラが書かれた19世紀後半に設定を〈読み替え〉、神々族を没落するブルジョワ階級の人びとに〈読み替え〉た演出である。

こうした解釈変更的〈読み替え〉ということでは、私が今回観たものでは、州立オペラのモーツァルト『フィガロの結婚』(ヴァンサン・ユゲー[Vincent Huguet]演出、2021年4月初演)、新制作だったドヴォルザークの『ルサルカ』(コルネル・ムンドルツォ[Kornél Mundruczó]演出、2024年2月初演)などがそれに当たる。


ドヴォルザーク『ルサルカ』[演出:コルネル・ムンドルツォ、州立オペラにて上演]
© Gianmarco Bresadola

前者は設定を現代にしただけで、シェロー演出のような攻撃的な批評性はなく、原作にはない、伯爵夫人はケルビーノとこの場から逃走するさまが観客の目に入る幕切れにしていたことが目立つくらいだった。伯爵が不義を詫び一件落着となるのが原作だが、それではさすがに現代の観客は納得しない、ということだろう。


モーツァルト『フィガロの結婚』[演出:ヴァンサン・ユゲー、州立オペラにて上演]

後者は現代のベルリンに生きる若い女性が、さまざまな苦悩の果てに、次第に大蛇に変身してしまうという、思い切った〈読み替え〉上演だった。原作にある妖精と人間世界の分断は、現代社会の階級格差に置き換えられ、それがそのまま、上下に移動する舞台装置に反映しているのだが、最終幕では、妖精のルサルカは地下室でうごめく大蛇になってしまうのだ。


ドヴォルザーク『ルサルカ』[演出:コルネル・ムンドルツォ、州立オペラにて上演]


ドイツ・オペラでは2019年9月初演のヴェルディ『運命の力』が典型的な〈読み替え〉上演だった。長年ベルリン・フォルクスビューネ劇場の芸術監督を務め、2013年にはバイロイト音楽祭で『ニーベルンクの指輪』を、石油を媒介にした資本主義と社会主義のせめぎ合いとしての20世紀、という物語に〈読み替え〉た、フランク・カストルフ(1951-)演出である。


ヴェルディ『運命の力』[演出:フランク・カストルフ、ベルリン・ドイツ・オペラにて上演]
© Thomas Aurin

原作はオーストリア継承戦争中の1740年代だが、カストルフはそれを最初の2幕はスペイン内戦期に、後半2幕を、第二次世界大戦中の連合軍によるイタリア解放期に設定した。主人公のドン・アルヴァーロが新大陸出身であることを強調し、敵対するドン・カルロの、原作に書き込まれていると解釈可能な新大陸への帝国主義的差別意識を明らかにするためである。また、カストルフならではの、舞台装置の客席から見えない部分にも登場人物を配し、ライブカメラで舞台上のスクリーンに中継する手法も、有効に使われた。その他、台詞の付加(旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの『指令』からなど)はあるが、楽曲に変更はない。これが、「演出家のオペラ」の典型例である。

 

「演出家のオペラ」──〈脱植民地化〉への葛藤

三つ目として、「演出家のオペラ」の範疇にあるともいえるのが、〈脱植民地化〉という社会的・文化的に必須な取り組みである。現代を生きる私たちの規範を著しく逸脱するオペラにおける主として差別的な表象をどうするのか、という問いである。

この点で興味深いのは、州立オペラとドイツ・オペラの両方で上演されていた『蝶々夫人』がともに、日本の表象が〈昔のまま〉だったことだ。つまり、〈エキゾチックな日本〉そのもので、合唱/市民は、なぜか扇子を始終パタパタやっていたりするのである。したがって今観ると、むしろ微笑ましいというくらいの〈チープな日本〉だった★7


『蝶々夫人』[演出:アイケ・グラムス、州立オペラにて上演]
© Gianmarco Bresadola

それに対して、二つの歌劇場が取り組んだ〈脱植民地化〉の最前衛は、ヴェルディの『アイーダ』である。ポスト植民地主義の台頭のみならず、ますます盛んになっている文化財返還運動との兼ね合いもあり、『アイーダ』のアフリカ表象の方が、〈脱植民地化〉の緊急性が高いということだろうか。

2015年初演のベネディクト・フォン・ペーター(Benedikt von Peter)によるドイツ・オペラの『アイーダ』は、オーケストラボックスを廃し、舞台の前面のみの狭い空間に現代服のラダメス(エジプト軍の指揮官)とアムネリス(エジプト女王)を置いた。二人の複雑な男女関係がすべてであり、アイーダ(エチオピア王女で、現在はエジプトで奴隷)が実在するのか、ラダメスの幻想なのかもわからない。ほかの登場人物たちは、ほぼすべて劇場内の客席で歌う。そして、オーケストラボックスから〈追放〉されたオーケストラは、舞台奥で、観客から見える場所で終始演奏を続ける。


ヴェルディ『アイーダ』[演出:ベネディクト・フォン・ペーター、ベルリン・ドイツ・オペラにて上演]
© Marcus Lieberenz

州立オペラの『アイーダ』はカリスト・ビエイトー(Calixto Bieito)のプロダクションで、今シーズンの新制作(2023年10月初演)である。アイーダの主筋は〈さておかれ〉て、西洋列強によるアフリカ大陸侵略の歴史が多様な映像を交えながら、視覚的に描かれ続ける。したがって、侵略者なのかテロリストかすら不明なラダメスは、例えば有名な「清きアイーダ」のアリアを、拳銃を振り回しながら歌う。(エチオピアの)捕虜は虐殺され、人々は抵抗を試みるが、英語で書かれた「もっと金儲けしようぜ(Let’s Make More Money)」の横断幕と兵士たちに遮られる。この多分に分裂的でさえある過去そして現在の〈植民地主義〉への反省意識については、少なくとも私にとっては、理解を超えるものがあった。ただし、〈きれい事〉で反省しているわけではないという〈強度〉が、この『アイーダ』の支離滅裂な視覚表現を支えていた、と言えるかもしれない。


ヴェルディ『アイーダ』[演出:カリスト・ビエイトー、州立オペラにて上演]
© Herwig Prammer

 

「演出家のオペラ」──同時代の多様性

四つ目にあたるのは、これもまた「演出家のオペラ」の範疇ではあるのだが、演出家の芸術的個性/感性により、独自のロジックにしたがって、〈ミザンセーヌ〉、すなわち上演空間を構築するという流れである。社会や政治、あるいは歴史批判ではなく、また〈反省意識〉の投影でもない。〈見せ方の工夫〉なのだが、一筋縄ではいかない。

フェスティバル/トーキョーへの複数回の参加もあり、その名を聞いたことがあるだろう読者も多いロメオ・カステルッチ(Romeo Casterucci)は、近年、オペラ演出での仕事がめざましい。

そのカステルッチは、州立オペラでリヒャルト・シュトラウスの『ダフネ』を新制作した(2023年2月初演)。古代ギリシャを舞台とし、牧歌的な雰囲気のなかで、太陽神アポロも登場する一幕物の本作をカステルッチは、ほぼ全編、雪が降りしきる空間へと〈読み替え〉た。衣装も現代と言ってよく、その意味では「現代化」でもあるが、特筆すべきは、歌手の動かし方である。演劇的というのか、歌手たちは立ち止まって歌うことがあまりなく、始終、動きながら歌う動的は演出となっていたのである。息をのむほど美しい視覚効果がありながら、そのなかを歌手たちが歩き回り走り回ることで、その美しさへの観客の〈没入〉が阻害されるのである。


リヒャルト・シュトラウス『ダフネ』[演出:ロメオ・カステルッチ、州立オペラにて上演]

モーツァルトの『魔笛』は、ドイツ・オペラでは比較的オーソドックスな演出(ギュンター・クレイマー[Günter Krämer]による1991年のプロダクション)だが、コーミッシュ・オペラでは、すでに触れたコスキーの斬新な演出である(初演は2012年12月)。


モーツァルト『魔笛』[演出:バリー・コスキー、コーミッシュ・オペラにて上演]
© Jaro Suffner

1920年代のサイレント映画とアニメーションをテーマとする英国のアーティスト・グループ「1927」★8とコスキーの共同演出である。大ヒットとなって、日本公演を含み、世界中で600回以上も上演されている。

舞台背後にあるいろいろな仕掛けが施された〈壁〉は、アニメーションを投影するスクリーンとなり、サイレント映画的出で立ちと化粧のライヴの歌手たちと映像が見事にマッチする。原作の時代設定(時代不詳の古代エジプト)を1920年代へと単に〈読み替え〉たのではなく、サイレント映画やアニメーションという20年代文化の手法に〈移し替え〉たと言えばよいだろうか。演出家の〈見せ方の工夫〉が最大限に発揮された一例だろう。


モーツァルト『魔笛』[演出:バリー・コスキー、コーミッシュ・オペラにて上演]


『PERFECT DAYS』を監督して日本でも話題となった映画監督ヴィム・ヴェンダースは、州立オペラでビゼーの『真珠採り』を演出している(2017年6月初演)。

本作は、舞台が「未開時代のセイロン島の浜辺の村」とされ、即座にポスト植民地主義的問題性を召還してしまう。しかしヴェンダースは、〈エキゾチック〉なイメージの排除を試みる。舞台は黒で支配された何もない空間で、客席との間の舞台面を覆う巨大なスクリーンには、波やヤシの木、雲と砂浜などが投影される。記憶を歌う場面では、そこに巨大な人物の顔がスローモーションで映し出される。時代を特定できない、アジア的と言えば言えなくはない程度の色彩豊かな衣装が加わる。具体性を消去して抽象度を上げるのだ。ヴェンダースはこのように、「演出家のオペラ」的な〈読み替え〉ではなく、〈普遍的〉な視覚イメージを優先して、原作に〈そのまま語らせる〉ことになった。


ビゼー『真珠採り』[演出:ヴィム・ヴェンダース、州立オペラにて上演]


静岡舞台芸術センター(SPAC)芸術監督の宮城聰は、州立オペラでのモーツァルトの『ポントの王ミトリダーテ』を再演した。2020年に初演予定だったものの、コロナ禍で2022年まで延期された初演があり、2023年は11月の「バロック週間」の一環としての再演だった。


モーツァルト『ポントの王ミトリダーテ』[演出:宮城聰、州立オペラにて上演]
© Bernd Uhlig

14歳のモーツァルトが書いた『ミトリダーテ』はラシーヌ原作だが、ローマ帝国と戦ったことで知られる、現トルコ領内にあるアナトリア半島ポントス王ミトリダテス6世が主人公。ローマとの戦乱が続くなか、王とその二人の息子と二人の女性をめぐる嫉妬と裏切りと赦しの物語である。

宮城は最初に戦乱で荒れ果てた荒野を示したあと、華やかな〈金ぴか〉の四段からなるひな壇的舞台装置をメインに置いた。ただし、それぞれの段には仕掛けがあり、そこに富士山や夕日といった〈なんとなく日本〉の情景を展示することもあれば、登退場の出入り口にも使われる。当初、日本の戦国時代の武将的出で立ちと衣装──こちらも〈金ぴか〉が基調である──だった登場人物は、時間とともに、さまざまな時代の権力者/兵士たちと女性たちの武具や衣装へと変貌する。終幕には再び、幕開けの荒廃した荒野が来る。

超絶技巧の長いアリアが延々と続き、二重唱すらまれな本作において宮城は、歌手をあまり動かさないことを選択した。段を移動することはあっても、歌手は基本、不動である。合唱隊や原作にない黒子が、間隙を縫ってさまざまな動きを披露し、場面をつないでいく。抽象度を上げ、虚構性を際立たせて様式を前景化した演出と言えようか。


モーツァルト『ポントの王ミトリダーテ』[演出:宮城聰、州立オペラにて上演]

ヴェンダースや宮城の事例では、〈見せ方の工夫〉が抽象度を上げることに寄与し、結果的に〈普遍〉が引き寄せられる。そのため、〈作家性〉はいま、再び、原作に返還されたように見えるのである。


以上、検討してきたように、ベルリンの三つの歌劇場では、「演出家のオペラ」以前の古色騒然としたプロダクションも残っているし、「演出家のオペラ」が〈作家性〉を発揮し、時代思潮に応接しようとする意志もまだ強く感じられる。一方、個性豊かな〈見せ方の工夫〉演出家の活躍も特に近年は見逃せない。こうした〈振れ幅〉のなかに、ベルリンの歌劇場を中心とする〈演劇的現在〉は確かに存在しているのである。


★1──https://www.staatstheater-cottbus.de/de/staatstheater/ensemble.html
★2──ウェブサイトでは、これが最新版となっていて、ダウンロードも可能。
https://www.buehnenverein.de/de/publikationen-und-statistiken/statistiken/theaterstatistik.html
★3──藤野一夫「ドイツの劇場政策と劇場制度―成立史・運営組織・人材育成・教育普及」(藤野一夫ほか編著『地域主権の国ドイツの文化政策―人格の自由な発展と地方創生のために』、美学出版合同会社、2017、p.296)。なお、劇場数については、本書による。本書の数字は2014年時点での数字だが、それほど大きくその数は変わっていないという前提での本論の記述である。
★4──同上、pp.295-296。
★5──客席数および観客動員数は、『Theaterstatistik 2021/2022』による。コーミッシュ・オペラは2023/24年のシーズン(9月以降)、少なくとも6年かかるという長丁場の改修のため、本拠地をシラー劇場に移している。シラー劇場の客席数は1067席で、この数はウィキペティアによる。
★6──ちなみに、コトブス州立劇場はオペラのみでは7,963人となっている。
★7──州立オペラは1991年初演のアイケ・グラムス(Eike Gramss)によるプロダクション。ドイツ・オペラはピエル・ルイジ・サマリターニ(Pier Luigi Samaritani)による1987年のプロダクション)である。
★8──1927年はトーキー映画が登場する年だが、サイレント映画の傑作とされる『メトロポリス』の初演の年代でもある。

[筆者追記]
本記事を読まれた菅尾友氏から以下のような3点の指摘を受けた。
(1)コトブス州立劇場は「三部門劇場」というよりも四部門あるハウスだと自称している(オーケストラを独立した一部門として数えている)。そのため、劇場のロゴに四つの星が描かれている。
(2)本文で紹介したベルリンの三つの歌劇場はベルリン・オペラ財団に所属しているが、バレエ団もこの財団に所属し、三つの歌劇場を主な会場として公演している。かつては、それぞれの劇場に付属バレエ団があったが、2004年に統合して「ベルリン州立バレエ団」となった。
(3)コーミッシュ・オペラにおける『さまよえるオランダ人』の演出はバリー・コスキーではなく、ヘルベルト・フリッチ(Herbert Fritsch)である。
以上、謹んで本文の内容を訂正するとともに、指摘いただいた菅尾氏に感謝したい。(2024年4月2日)