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近頃、気になることのいくつか──「民俗」「史学史」「組織」「メディア」「書物」
菊地暁
[きくち あきら/民俗学]

 本を紹介するのは、やなり難儀なことだ。紹介する文脈が定まっていたり、紹介する相手の関心が分かっているならまだしも、そうした手がかりもないまま、素直に「マイ・フェイバリット」を晒して文脈を共有しない連中にアホ呼ばわりされるのはシャクだし、「これぐらいは読んでおけ!」と高飛車な教養主義を振りかざすのも胡散臭い。そんなわけで、以下は最近の関心を徒然なるままに連ねた拙文である。お付き合いいただければ幸甚。

 「民俗」に興味がある。いちおう「民俗学」を表看板に掲げているので民俗学関係の書物には注意しているつもりだが、残念ながら良書に巡り会うことはさほど多くない。そんななか、小川徹太郎の遺著『越境と抵抗』は久々のヒットだった。彼と知的遍歴をともにした有志たちにより編まれた本書は、未発表草稿などを含み、あるいは著者自身が望まない公開だったかもしれないが、にもかかわらず、一冊の書物という形で小川の思考に出会う機会を与えられたことはやはり僥倖といわねばなるまい。「家船」と呼ばれる職住一体の漁船に乗り込み瀬戸内海を巡る漁民たちの姿を丹念に追いかける著者の足取りは、一方で地形や気象や潮流をめぐる観察力とそれに裏打ちされた漁撈技術という漁民が培った身体知をすくい上げ、他方でそうした漁民の生活を囲繞し圧迫してゆく文字知とそれに基づく政治・経済・社会制度の桎梏を丁寧に描き出している。また、漁民の持ち伝える巻物、官公庁の調査報告、総力戦期のプロパガンダ雑誌といった各種文字資料をも活用する卓抜な資料センス、サイード、アレント、ロサルド、戸坂潤、池田浩士といった他分野の作品にも目配りする(およそ民俗学者らしからぬ)旺盛な読書力も特筆に値する。調査者が漁民と出会うミクロな現場に腰を据えつつ、その知見をパブリックな空間へと解き放つ努力を怠らなかった小川の知的営為はまさしく「越境」であり、そしてそれは現代社会への「抵抗」にほかならなかった。その早すぎる死が悔やまれてならない。

 「史学史」に興味がある。民俗学的想像力の展開にとって、ときに敵対しながらも、基本的には母胎であり同伴者であり続けた歴史学的想像力の系譜を押さえることは、やはり欠くべからざる基本的作業であるからだ。そんなわけで、史学史にまつわるさまざまな資料や著作をアトランダムに渉猟しているのだが、永原慶二『20世紀日本の歴史学』には教えられるところが多かった。まず何より永原が史学史で一書をなしたこと自体、意外だった。戦後、超人的活躍によって中世史研究のプロブレマティックを設定した一人である永原が、日本史という限定はあるにせよ、古代、中世から近現代史に至る日本史研究の総体を概観する作業を試みたこと自体が驚きであり、また、そうした課題に取り組まざるを得ないと考えた著者の深刻な問題意識──現代日本の歴史認識の浅薄さに対する──が伝わってくる。著者自身が関与した戦後マルクス主義史学の展開に紙面が多めに割かれるのはやむを得ないところだが、それでも通史としてのバランスは失われていない。「通史」という歴史的想像力のあり方が必ずしも真っ当に評価されない今日にあって、遺著となった永原の試みはきわめて重いクリティークを孕むものだろう。

 「組織」に興味がある。伝統的な文化的景観や民俗行事を伝承する村落組織でも、レタッチ画像を交換するサイバーコミュニティでも、アカデミックな知を創造する大学組織でもかまわないのだが、それらがいかなる条件の下に創造的に活動し、いかなる条件の下に機能不全に陥るのか、きわめて切実な問題として関心がある。とはいえ、組織論と銘打った書物は数知れず、玉石混淆の様相を呈していないでもない。そんななか、高橋伸夫『〈育てる経営〉の戦略』は示唆に富んでいた。成果主義的アプローチが、結局のところ、モチベーションの低下、相互不信の増大に帰結せざるを得ないことを喝破した本書は、オルタナティブとして〈育てる経営〉、価値を産出する源泉であるところの人材を適切にリクルートし、安定的な活動基盤を保証し、その成長を見守ることの重要性を訴える。「その会社を担う次の世代を育てられた会社だけが、生き延び、成長してこられたのです」(p.5)という提言は、会社のみならずあらゆる組織を考えるうえで重要な見識だと思う。

 「メディア」に興味がある。といったところでおそらくあまり説明になっていない。「つなぐ」「媒介する」といったメディアという語の原義に従うなら、言語的であれ非言語的であれ、身体的であれ機械的であれ、社会的存在としての人間のあらゆる営みには不可避的にメディア的次元が介在しているからだ。とはいえ、テレビや写真といった各種のメディア・ジャンル、「読む」「書く」「見る」「聴く」といったさまざまなメディア行為、あるいは個々のメディア作家やメディア作品をめぐって、相応に専門的な検証作業が積み重ねられてきたことは事実であり、私自身、折に触れそうした作業に関わってきたつもりでいる。そんなわけで、メディアという茫漠たる領域から一人の著者や一冊の著作を選ぶことは甚だ厄介なのだが、あえて一冊挙げろといわれれば、迷わず『ナンシー関大全』を推したい。恥ずかしながら、私のナンシー歴は彼女の死後に刊行された本書を読んでからである。テレビという大衆的メディアを舞台としたその批評活動は、タレントや番組のディテールに寄り添いつつ、作り手と受け手のぬるま湯的共犯関係を撃ち、この国に巣喰った退廃的精神の深層をえぐり出している。圧巻は、皇室報道やワールドカップ中継をめぐる「日本的ファシズム論」。「とりあえず祝賀しておけばオッケー」が過激化するプロセスや、「感動させてくれよ」「感動させてやるよ」のもたれ合い関係の考察は丸山真男以後の最大のファシズム論ではないか、と勝手に思っている。稀有の批評的精神だった。本書に再録された坪内祐三の追悼文の「ナンシー関のいない日本なんて」(p.348)という一節を、私もまた繰り返さざるをえない。

 「書物」に興味がある。サイバースペースの爆発的発展により「書物」という回路に情報発信を限定する必然性のなくなった今日、あらためて「書物にできること」「書物でやるべきこと」が抜き差しならない問題として問われているように思えるからだ。たとえば、「新書」という媒体の効能や盛衰が気になるのだが、そんなことを考えていると、1962年に発刊された中公新書の第1号、桑原武夫編『日本の名著』は、スタンスの明快さと選書のセンスにおいてやはり図抜けている。と思う。「まえがき」および「なぜこの五〇の本を読まねばならぬか」によれば、同書は、無遠慮な過去の否定ではなく、無批判な伝統の墨守でもなく、捨てるべきものは捨て採るべきものは採るというきわめてプラグマティックな態度に基づき、明治維新から敗戦に至る近代日本の「もっぱら独創的な作品」を「哲学」「政治・経済・社会」「歴史」「文学論」「科学」という5つのジャンルにわたって選んだという。短文ながら簡にして要を得た方法的マニフェストである。福沢諭吉『学問のすゝめ』から丸山真男『日本政治思想史研究』に至る50冊に3000字程度の解説が付され、さらに500字あまりの著者略歴が添えられるが、これがまた秀逸である。たとえば『美と集団の論理』の著者・中井正一については、「日本で最初の帝王切開で生まれる」「一年先輩の戸坂潤とは『逢えば必ず闘う論敵』であった」(p.191)と人物像を膨らませる格好のエピソードが紹介されている。大局的な見識から微細な小技まで、編者ならびに各項執筆者の卓抜な着眼点に感服させられる一冊である。

 そんなわけで、いつの日か戦後日本の作品を対象とした『新・日本の名著』を編んでみたいと夢想している。はたして、「名著」の名に値する独創的思索を、戦後日本の私たちはどれほど蓄積してきたのだろうか。

菊地暁
1969年生。京都大学人文科学研究所助手。著書=『柳田国男と民俗学の近代─奥能登のアエノコトの二十世紀』(吉川弘文館、2001)、編著=『身体論のすすめ』(丸善、2005)、論文=「距離感──民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法」(『人文学報』91号、2004)、「主な登場人物──京都で柳田国男と民俗学を考えてみる」(『柳田国男研究論集』4号、2005)ほか。
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