昨年、知人から『国家の品格』(新潮社、2005)を手渡された。なかば強引に。ベストセラーを遅れて読むのはどうも気が進まなかったが、しかし、このまま放っておくわけにもいかなくてようやく読んだ。本の主張に共感するかどうかはさておき、欧米発の論理・合理の行き詰まりを指摘し、日本古来の精神や感性、とりわけ武士道の復興を望む論の構造は明快で、潔い言い切り調の文体も非常に小気味よかった。なるほど、さすがはベストセラーと思った。読みながら、なぜか18世紀の版画家ピラネージのことをちらちらと考えていた。建築家よりは版画家として名高く、奇想の作家として知られるピラネージだが、意外にもまっとうな建築論を著している。代表作のひとつ『対話』(アセテート、2004)には、芸術家にとって合理的なものの考え方がいかに危険であるか、もっと手っ取り早く言えば、理詰めの思考が芸術そのものをつまらなくすることを指摘し、装飾の自由、発想の自由を訴えた。『国家の品格』でも『対話』でも、合理や論理の代わりに求められたのは情緒や感性の力であった。
ピラネージが格闘した新古典主義の合理論は、19世紀にはヴィオレ=ル=デュクの合理的中世主義へと形を変え、20世紀になってル・コルビュジエらの近代運動に結実する。一方で表現・装飾の自由が奪われたかと言えば、けっして失われなかった。近代運動を強力に推し進めた論理と合理の力は、建築が芸術としての存在意義を失うところまではいかなかったのである。事実、かつては合理論の勝利と目された近代運動にだって、表現主義と呼ばれる同時代的例外が同居していた。近代運動を合理論の勝利として語りたいがために、こうした例外を無視した歴史家がいたくらいだ。しかし、いまや近代運動そのものが多様であり、その内部において対立し矛盾するさまざまな要素が含まれていたとする見解が自然に受け入れられるようになった。ピーター・ブランデル=ジョーンズの『モダニズム建築──その多様な冒険と創造』(風土社、2006)は自覚的にそのスタンスをとった書であり、したがって、表現主義や有機主義の建築家に対してかなりの分量を割くのである。
森美術館で開催された『ル・コルビュジエ──建築とアート、その創造の軌跡』(森美術館、2007)を見ても、モダニズム最大のイデオローグでさえ合理論一辺倒ではなかったことは自明である。ル・コルビュジエの急進的な合理思想の背後にも、やはり情緒や感性の力が根強く絡みついていたのであり、ピラネージ風に言えばそれがル・コルビュジエをかろうじて芸術の世界につなぎ止めていたのであろう。ル・コルビュジエの日課は、午前中はアトリエで絵画や彫刻制作に打ち込み、午後に建築設計をすることだったというが、建築や都市計画における科学的かつ論理的な手続きからくるうっぷんは、絵画や彫刻の制作によってうまく発散できていた、とするのは虫のよい考えだろうか。けれども、晩年のル・コルビュジエがますます情緒・感性の度を高めていったことはよく耳にすることだし、さらに、彼の魂が最終的に地中海的な感性へ導かれたことはその生涯の終え方からして疑いようがない。合理論から地中海的な感性へ。ここに、情緒・感性vs.合理論という図式に、地中海vs.北方ヨーロッパという地理的構図を重ねてみることができようか。
フランコ・カッサーノの『南の思想──地中海的思考への誘い』(講談社、2006)はまさにこの図式に当てはまる哲学書であり、地中海的感性において合理論を挫くという姿勢ではピラネージの『対話』と同質である。さらに、資本主義的近代を批判し、際限なき自由競争を危惧する点では『国家の品格』と同じ論理構造をとる。ただ、カッサーノの書は同じ西洋でも北の合理論(もっと極端に言えばアメリカ型経済発展主義)に対する南の逆襲である。ちょっと前に「スロー・ライフ」なる言葉が流行ったのを思い出せばよいのだが、要するに南イタリアののんびりとしたテンポをポジティヴに評価するのである。ただ、カッサーノはやみくもに南の思想を賞賛するのではなく、多様な立場からなる思想の可能性、それを育む文化的環境の構築を目的としているのであり、「北」があまりにも支配的で抑圧的である現状を踏まえて、「南」への揺り戻しを説くというバランス感覚(カッサーノは「適度」というキーワードを提出する)を備えている。
実は『対話』にも、このバランス感覚に通じるところがある。ピラネージは合理論の拒絶で終わるのではなく、最終的に調停のあり方を模索する。結果、まさに「適度」な装飾がひとつのオチとなっているのだ。このあたりはカッサーノ同様、地中海人のバランス感覚なのだろうか。『国家の品格』になるとさすがにバランス感覚もどこ吹く風という勢いだが、どうもこうした姿勢も確信犯的に思われる。おそらく細かいツッコミは最初から織り込み済みであろう。ツッコミ覚悟でそれでも元気の出る提言をめざしているところなんて、これはもう祖国愛に脱帽するしかない。脱帽しながら最後に軽い小ネタをひとつ。合理論に対し武士なら「ならぬものはならぬ」と言って公明正大を貫くはずだが、合理論発祥の西洋世界にも武士道と似た騎士道がある。合理論を前にして、はたして騎士は公明正大を貫くであろうか。そもそも合理論を前に「それでも装飾は必要である」としたピラネージの姿勢は公明正大と言えるのだろうか。なぜこのような問いを?と思われるかもしれない。それは『対話』を書いてほどなくピラネージがcavaliereの称号を得たからである。少なくとも合理論を蹴散らし、ピラネージは騎士になったのだ。 |