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理想の風景を探す旅にでかけよう
服部浩之
[はっとり ひろゆき/秋吉台国際芸術村]

 僕の職場は車でちょっと飛ばすと秋吉台という大草原が広がり、その下には巨大な鍾乳洞が存在するという特異な地理的条件にある。秋吉台は季節によってその表情はさまざまで、夏は草木が生い茂る美しいユートピア的な平原なのだが、真冬に毎年行なわれる山焼き直後は漆黒の焦土と化し、ある意味地獄のような風景となる。このような極端に印象が変わる風景下で日々を暮らしているうちに、風景というものについてぼんやりと考えることが多くなった。いったい理想の風景とはどういうものなのだろうか。今回はそんな「風景」について考える手がかりとなる書籍を紹介させていただこうと思う。

 最近、東京都写真美術館で開催された「鈴木理策:熊野、雪、桜」という展覧会の関連書籍として出版された同名の書籍は、出展された写真を中心に1ページに1枚の写真を同じサイズで淡々と掲載していくスタイルなのだが、無駄なレイアウトやテキストがないぶん、すっとこの風景のシークエンスに入り込むことができる。展覧会のカタログなので、『サント=ヴィクトワール山』など鈴木の他の写真集のように1冊の本のなかで1枚1枚の写真の集積により風景の全体像が浮かび上がるということはないが、鈴木が対象となる風景といかに対峙しているかはよく見えてくる。雑草や落ち葉、木の枝などなんでもないものたちが、あるときはそこに焦点が当てられ美しく浮かび上がり、あるときはその奥にあるものを引き立てるためにぼかされ、一枚の美しい風景を生み出す。「自然においては、すべてのものは、球と円錐と円筒とに従って形作られている」というセザンヌの言葉を噛み締めると、すべての部分が意味を持ってひとつの風景を構成しているということがよく見えてくる。
 ところで風景を考えるうえでやはり風景画は無視できない存在だ。数年前に横浜美術館で「風景表現の近代」という展覧会が2回に分けて開催されたのだが、その際にそれぞれ出版された『明るい窓:風景表現の近代』と『失楽園:風景表現の近代1870-1945』の2冊はとても充実した内容である。17世紀に風景が絵画の主題として見出されてから、写真の登場による風景に対する眼差しの変容までを、展覧会に付随するカタログながら、非常にバランスよく解説と紹介がなされている。鉄やガラスの発見による建築の近代化により都市の風景は劇的に変化し、その風景に対する眼差しの対象が日常やわれわれ自身に及ぶようになり、よりプライヴェートな視点から客観的な視点まで、さまざまなレヴェルで風景がとらえられるようになった。
 そのプライヴェートな視点を類型的に展開したもので、『戦争のかたち』という興味深い書籍がある。2年ほど前に、海上に無骨なコンクリートの廃墟が浮かぶ一枚のポスターに惹かれて入ったINAXギャラリーでの展覧会で、その作家の下道氏とこの本に出会った。会場に並ぶ写真に写されているさまざまなコンクリートの構造体はトーチカや掩体壕、あるいは砲台や兵器試験場といった戦争の遺構だ。戦後60年という時の経過のなかで、それは田園や町中、あるいは海辺などで奇妙な調和を保ちながら存在している。多くは弾痕など戦争の爪痕を残した廃墟であるが、現在は住宅や子供たちの秘密基地、民家の一部、あるいは花壇やベンチなどになっており、どこかに人の存在が感じられる。
 本の構成としては、はじめに戦争の遺構を何タイプかに分類し、その国内での分布図を地図上に示し、次に著者が全国を巡って撮影した遺構の写真を掲載している。そして巻末には建築家ユニットのアトリエ・ワンを思わせる透視図とネーミングで「使い方」として分析した現在の遺構の状況が紹介されている。ベルント&ヒラ・ベッヒャーのようにきっちり正面から撮影し類型化していくというよりは、もうすこしその場の状況を考慮し、一枚一枚の写真が独立した風景として成立するよう撮影を試みている。また戦争遺構というと、通常その背後にある悲しみの記憶や戦争の悲劇というものに捕われがちであるが、彼はあくまで冷静に現在のそれらの状況に向き合い、むしろ人の手が加わり生まれ変わった姿を楽しんでさえいるようだ。そして経過する時のなかで育まれた新たな風景として捉えカメラにおさめている。
 横山裕一の処女作『ニュー土木』を読んだとき、カテゴライズするとしたらこれは建築漫画だ、という強烈な印象をもった。3年ぶりにその新作『NIWA』を読むとやっぱり建築漫画であり、新しいタイプの風景画でもあると再確認した。紙でできた山あり、どこまでも続くフェンスや異常な形や大きさの家や道路ありと、その風景をつくり出しているもののスケールや素材は、僕たちの通常の認識や予想を気持ちいいくらい見事に覆す。全体像も構造もまったく見えないNIWAのなかで無表情な男たちがなにかアクションを起こすと、どんどんNIWAは生成変化していく。破壊される部分があれば、新たに生まれる部分がある。このつくられ方は現代の都市の状況によく似ている。どこにも収束点はなく、ある部分は異常な速度で変化し、ある部分はほとんど変化しない。ちょっとスケールや素材、形態を操作するだけで日常の風景が新鮮に見えてくる様は、爽快な裏切りである。
 『NIWA』と対照的ではあるが共通する部分もあるのが、CCA北九州のアーティストブックの1冊として出版された建築家ヨナ・フリードマンの『CITIES』である。アーキグラムなどと連動するようにMobile Architectureというコンセプトを打ち立て、ポータブルな建築を提案してきた彼の代表作《空中都市》に関するドローイング集がこの本である。コンパクトに反復増殖していく素材もスケールも不確定なユニットが既存の都市の上空を浸食していくイメージが、無数の手書きのドローイングやコラージュの集積で表現されている。一見するとマッチョなメガストラクチャーなのだが、これがフレキシブルに変化していくなら、ある意味NIWAの生成変化する新たな動的ランドスケープと通じるものがあるはずだ。

 現代においては理想の風景を一枚の絵画として描き出すことは非常に困難なことなのかもしれない。またそれは一人のカリスマや建築家が産み出したマスタープランのような固定化されたユートピアではなく、それぞれがそれぞれの場所で自由に活動し新たな状況を生み出していく、その変化の過程に見いだすことができるのではなかろうか。あるいはすでにある状況をちょっと異なった角度からとらえると、そこには理想の風景が広がっているかもしれない。本をもって理想の風景を求める旅にでかけよう。
■参照図書
服部浩之
1978年生。秋吉台国際芸術村キュレーター。早稲田大学大学院理工学研究科修了。
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