「荒木経惟 熊本ララバイ」 |
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熊本/坂本顕子(熊本市現代美術館) |
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熊本市現代美術館では、11月1日から写真家・荒木経惟の九州では初めてとなる本格的な回顧展「熊本ララバイ」がはじまる。今回の目玉は、新作の《母子像》。熊本を中心に募集した、荒木の撮りおろしによる一般市民の母子約40組によるヌード作品だ。筆者の属する館の話題で恐縮だが、企画に関わる経緯で得られた貴重な体験の一端をご紹介したい。
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撮影は去る6月28日、29日に、熊本をはじめ、福岡、長野、神奈川などから応募のあった、2007年1月以降生まれの赤ちゃんとその母を対象に、熊本市現代美術館で行なわれた。子どもと一緒とはいえ、一般女性による全身ヌードの撮影。果たしてモデルが集まるかどうかという不安がスタッフを悩ませたが、蓋をあけてみると、最終的には予定数の30組を超える数の母子に参加していただくことができた。
撮影当日、待合所となった美術館の創作室は、子どもたちの泣き声と笑い声がうずまく、保育所さながらのカオス状態。その隣室に準備された本格的なスタジオで、1組平均約5分という驚異的なスピードによる、モデルの赤ちゃんと天才アラーキーの真剣勝負が繰り広げられた。なかでも印象的だったのは、母親たちの堂々とした姿。事前の説明会では、震える小鳥のような表情でためらいを口にしていた母親が、強烈なフラッシュと荒木の「いいねっ」「サイコ−!」という声のなか、別人のように自信にあふれた誇らしげな姿を見せる。一方、撮影につきそった父親たちは、荒木の真剣な迫力に圧倒されたのか、所在なさげな様子だったのが対照的だった。
しかし、なぜ今「母子像」なのか。それには二つの背景がある。ひとつは、荒木自身の作品の変化だ。お家芸のエロスや緊縛といったモチーフと平行して、目下、荒木が取り組んでいるのが、「日本人ノ顔」や「幸福写真」といった、市井の人々の何気ない笑顔や日常の小さな喜びを活写するシリーズだ。荒木自身、これまでは「恥ずかしくて撮れなかった」モチーフが、今は「素直にすごくいいと思える」のだという。もうひとつは、秋葉原での連続殺傷事件や、親殺し、子殺しといった命や家族をめぐる状況の変化だ。展覧会の行なわれる熊本市は、養育が困難な乳幼児を保護する「こうのとりのゆりかご」を認可した唯一の自治体である。荒木は撮影を前に、「オレの写真を見たら、アキバの事件や親が子を殺すなんて気持ちがどこかにいっちゃうような、そんな写真を撮ります!」と高らかに宣言した。 |
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左:「荒木経惟 熊本ララバイ」ポスター
右:荒木経惟《色淫花》2008
*展覧会ではバービカン・アートギャラリー(ロンドン)で 展示された旧作のほか、最新作及び母子にささげる「花」として 《色淫花》が展示される |
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展覧会を2カ月後に控え、待望のプリントが出来上がってきた。どれも、母になった喜びを素直に爆発させた晴れやかな笑顔が並んでいる。しかし、その写真たちは、「母」になるというのは難儀だ、ということを静かに物語る。帝王切開の傷や肥満、しわやたるみ、授乳による乳房の極端な変化といった肉体的な老い。さらに、産後の鬱などの精神的な疾患、キャリアの中断といった社会的な変化まで、母たちは、自らの人生や生命の一部を削り、それと引き換えにすることで、かけがえの無い「生」をこの世に送り出す。そして、そのモノクロームの色彩の中には、声高には語られることのない、流産や死産、不妊、離婚、セックスレスなど、40組40通りの生が滲んでいる。平凡な人生などないことを、改めて思い知らされる。
そして、同時に、荒木の写真は、私たちから「性」を切り離すことはできないということを気付かせる。「(作品は)夫へのラブコールであり、復讐でもあります」これは、撮影に参加したある母親のコメントだが、母親たちは、子を産み育てる母である前に、一人の女として、人々を欲望させる価値がまだ自分にあることを、荒木のカメラを借りて、皆に示すのだ。とりわけ、その長い人生の同伴者である夫やパートナーにむかって。「母」であると同時に「女」として肯定されたい、そんな切なる願いが伝わってくる。そして、なにより、このモデルとなった母たちは、荒木がそういった女の生と性を正面から受け止めるアーティストであることを、凡百のキュレーターよりも誰よりも、直感的に知っているのだ。母たちは、この写真を撮った経験と自分たちの姿を飽きることなく眺め、また他者の目にさらされることで、そこから得られる勇気と快楽を胸に、明日から再び繰り返される、果て無き日常に帰っていくのだ。
ぜひ、荒木によって引き出された、母たちの生きる自信に満ちた表情を見て欲しい。
そして、その母たちによって「私」が今ここにいるということ。一人の女が「私」という子を得たことで「母」になり、どれだけの言葉にならない思いを胸にしたかということを、今いちど思いおこさせる展覧会になれば、と願っている。 |
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