Born in HOKKAIDO──大地に実る、人とアート |
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北海道/北海道立近代美術館/鎌田享 |
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唐突ですが、例えばどこかに旅行をしようというとき、みなさんはどのようにして旅先の情報を収集しますか? 以前でしたら本屋さんに行ってガイドブックを買ってきたものでした。今では、この原稿を読んでいる方ならなおのこと、インターネットで検索をかけることでしょう。そしてオフィシャルなウェブサイトよりも、プライヴェートな生の体験に基づいたブログの情報のほうが、役に立つことがあります。地元の人でなければ目に留めないB級グルメ・スポット、ガイドブックでは書けないホテルの評価、バスや列車の詳しい乗り方……。
インターネットの普及にともなって情報の収集と発信の方法が変わってきたということは、しばしば指摘されています。プログラムや通信環境の発達によって、ネット上では大量の文字や画像が行き交うようになりました。そしてブログの流行は、それまで情報発信の機会が限られていた多くの人々に、そのチャンスを提供しました。テレビや新聞、雑誌といったメジャーなメディアは、(これまで、ある程度は)客観的で中立的な情報の発信を意識してきました。しかし私人が発信するブログはその埒外にあり、時にはより主観的なもののほうがアクセス数を稼いだりします。ネットというグローバルなメディアが伸張するにしたがって、よりプライヴェートな発言が目をひくようになったといえます。
一方、情報の受け手(ネットの利用者)からすれば、パソコンの前にいながらにして遠く離れた一面識もない他者の体験を共有することが可能になりました。札幌に住んでいる私が、沖縄に住んでいる人の日常をリアルタイムで垣間見る、疑似体験する。一昔前にはSFのネタになったことが、(技術的にも理論的にも)行なわれています。しかしながら今のところ、ネットを含むメディアで提供される情報は、文字と映像、言語情報と視覚情報に限られています。一方の実体験は、それ以外の香りや味や肌触りという身体感覚、そして時間や空間の感覚をともなったものです。人間が外界から取り入れる情報の7割は、視覚を通してのものだそうです。逆にいえば3割の情報を取りこぼした疑似体験、身体とは切り離された体験が、盛んに行なわれているのかもしれません。ネット社会では、一方ではプライヴェートでリアリティある発言が多発し、他方ではそれがリアリティを欠いたかたちで享受されるという、ねじれ状態が生じているのでしょうか。
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Born In HOKKAIDO
──大地に実る、人とアート |
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さて11月1日から、北海道立近代美術館では開館30周年の記念特別展「Born In HOKKAIDO──大地に実る、人とアート」を開催しています。この展覧会では北海道に生まれ育った20代から40代のアーティストの作品を紹介します。出品アーティストは、青木美歌(ガラス)、朝地信介(日本画)、池田光弘(油彩)、貝澤珠美(テキスタル)、Kinpro[新矢千里](イラストレーション)、鈴木涼子(写真)、諏訪敦(油彩)、高橋喜代史(インスタレーション)、野上裕之(インスタレーション)、端聡(インスタレーション)、伴翼(彫刻)、福井路可(油彩)、真砂雅喜(映像)、松永かの(版画)、毛内やすはる(インスタレーション)、盛本学史(油彩)の16名。
それぞれの土地の美術を取り上げるということは、地方公共団体が設置した公立美術館にとっては、いわば必修科目。「○○ゆかりの」(○○の中には、好きな地名を入れてください)という語は、どこの公立美術館でも必ず見かけるものです。この展覧会もそんな枠組みから立ち上がったものではありますが、今回特に意識したのは、「北海道ゆかり」という言葉にどこまでのリアリティを見出せるのかということでした。
「北海道」という地名は、多くの人にかなり明快なイメージを抱かせるようです。広い大地、豊かな自然、美味しい農産物や海産物、寒冷で雪深い気候、遠隔の地……。メディアを通じて流布されるそれらのイメージは、無論まったくの作り物というわけではありません。しかしその北海道に住む私たちの日常は、『北の国から』の五郎や純の生活とは、かけ離れたものでもあります。キタキツネにも滅多に会いませんし……。少なくとも日ごろ接している物や情報の質と量は、2007年現在の日本では、全国どこでもそう大差はなく、その面では土地の固有性は覆い隠されています。そんな私たちですが、例えば東京発の飛行機から北海道の空港に降り立ったとき、出発地とは明らかに違った空気の清澄さ透明さを感じ、そこに「北海道らしさ」を見出したりします。文字や映像だけでは伝わりきらないもののなかにこそ、リアリティを感じているのです。
今回の展覧会は、北海道に生きている私たち学芸員が、なんらかの意味で北海道らしさを見出した作品、リアリティを感じ取った作品によって構成されています。展覧会企画者と出品作家との年齢が近いこともまた、同じような生活体験や時代感覚を共有していることに起因するのかもしれません。
現在はネット社会であるとともに、グローバリズムの時代だそうです。経済の領域で多用されるこの語は、さまざまなシステムが世界で共通化されることをいいます。システムが統一されればそれだけ市場の規模は拡大して企業を利することになります。その一方で提供される物や情報、サービスは均質化され、時に副産物として、それらを土壌として醸成される文化や感性の均質化をももたらしかねません。近頃の展覧会を見ると、身体性やプライヴェートな視点に着目したものを多く見かけます。均質化の進む時代だからこそ、私たちはフィジカルな/プライヴェートな/ローカルな感覚を、より強く希有するのでしょうか。
手の届く世界・感じとれる世界は、目に見える世界・認識できる世界よりも、はるかに狭いけれども、はるかにリアリティのある世界です。 |
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左:青木美歌《float》
2007、作家蔵
*参考図版(出品作品ではありません)
右:池田光弘《untitled》
2005、高橋コレクション蔵
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左:Kinpro[新矢千里]《見える形/見えない形》
2002、作家蔵
右:真砂雅喜《After Midnight for Dawn》
2006、作家蔵
*参考図版(出品作品ではありません) |
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