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川俣正[通路] |
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2月9日(土)から4月13日(日)まで、東京都現代美術館で開催された「川俣正[通路]」については、このサイトを含めすでに多くの場で言及されています。今さらの感は否めませんが、今回はこの展覧会を巡って……。
ご覧になった方も多いでしょうが、会場にはベニヤ板が林立しています。それらはタイトルのとおり「通路」のように設置されており、来場者はこの入り組んだ回廊を巡りながら入口から出口まで一巡することになります。ベニヤ板の通路はところどころ隙間をみせ、そこからは壁面に並べられた、川俣の過去のプロジェクトの記録写真やマケットを覗き見ることができます。1987年ドクメンタ8の《デストロイド・チャーチ》、1992年の《プロジェクト・オン・ルーズベルト・アイランド》……。一方、通路を歩いていくと、いくつかの広場のような空間に突きあたります。そこには、テーブルやホワイトボードが置かれ、書類をめくりパソコンに向かう人々の姿が。来場者かと思いきや、少し様子が違うような……。ときに相談しあう彼らは、どうやら現在進行中のプロジェクトを進めるスタッフのようです。旧産炭地の現状を探るもの、ホームレスの生活状況をリサーチするもの、なかには今後のプロジェクトを公募するプロジェクトもありました。
さて展覧会というと私たちは、会場ではどんな作品がみられるの? と考えてしまいます。近代ヨーロッパの名画であったり、国宝の仏像であったり……。ではこの展覧会における「作品」とは、いったい何なのでしょうか? 通路状に並べられたベニヤ板? 確かにその様相は、板材を使った川俣の一連のインスタレーションを彷彿とさせます。過去のプロジェクトの資料やドキュメント? 確かにこれらも回顧展の常套手段です。でもそれ以上に特徴的なのは、展覧会の会場内でプロジェクトが進行中であるということでしょう。
アートは「物」としての作品を中心に展開されてきました。アーティストは絵画や彫刻といった「物」を制作し、社会はそれを「鑑賞」という半ば受動的な活動を通して享受してきました(ここでは作品と鑑賞者の間で、いかにアクティヴに情動が交わされるかということは無視して語っていますが……)。しかしやがてパフォーマンスやインスタレーションが登場し、さらに現在ではワークショップやプロジェクトが注目を集めるにいたって、この構図は変化します。ここでは、鑑賞は「参加」という能動的な活動へと変わり、作品は物からアーティストと参加者をつなぐ「場」として機能するようになりました。川俣正はこの流れの極北に位置するアーティストであり、今回の展覧会は、彼の活動や思考をプレゼンテーションする場であると言えます。
一方で、美術館や展覧会は、「物」としてのアートを展示し鑑賞する場として生み出され整備されてきました。多人数を収容可能なスペースに作品を整然と並べるという美術館や展覧会のフォーマットは、受動的な「鑑賞」のためには非常に効率的な手法です。逆説的な話にはなりますが、展覧会の評価軸のひとつとして鑑賞者の数が語り続けられるのも、元来展覧会がより多くの人を集めるための仕組みだからといえます。そして受動的な鑑賞を得手とする美術館や展覧会という枠組みはまた、能動的な参加にとっては、必ずしも適したものとは言えません。「参加」にとってより重要な評価軸は、参加の密度・質になるからです。多数の傍観者(といって悪ければ受動的な参加者)を集めたプロジェクトよりも、少数の積極的な介入者を集めたプロジェクトのほうが、より濃密な「場」として機能すること、言い換えればより熟度の高いアートとなることは、容易に想像できるでしょう。
美術館を舞台に展開された今回の川俣のプロジェクトが、プレゼンテーションであるとした意味もここにあります。それは不特定多数の来館者に川俣の思考を提示する試みです。それはより多くのものに働きかける一方で、積極的な参加を求めるには限界があります。だからその限界性を踏まえて、プレゼンテーションに徹するというか……。
プレゼンテーションですから、当然演出が施されています。その際たるものが、ベニヤ板の通路。これは川俣の作品を象徴するイコンとして機能する一方で、来場者に会場内を巡り歩くという運動、それはまたアートに能動的に参加するということの隠喩でもあるのですが、その「運動」を即す装置としても機能しています。
思い起こせば2006年に同館で開催された「大竹伸朗 全景」も、同じ性格を含んでいたのかもしれません。この展覧会に展示された2,000点に及ぶ作品を詳細に鑑賞することは不可能でした。疲れますし、憑かれました……。むしろその膨大な仕事量と多岐にわたる創作にただただ圧倒される、というのがこの展覧会の正しい接し方なのかもしれません。そしてそれは大竹伸朗という作家の姿を提示する、ひとつの方法でもあったわけです。
現代のアートを取り上げたり、アートの領域を拡張したりする際に、美術館や展覧会という枠組みは、その限界を示してしまいます。しかし一方で、美術館や展覧会の利点、最大公約数に訴えかけうるというのがその際たるものでしょうが、それもあるわけで、「美術館はもういらないよ」というのも早計でしょう(職場ですし……)。結局のところ、拡張するアートの状況に即して美術館の機能や展覧会のあり方も随時見直していく、という教科書的な見解に落ち着いてはしまいます。でもこの「教科書的な視点」は、つねづね持っていないといけませんよね。
なにやら今回は、いまさらの話ばかりでした……。 |