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和田千秋「障碍の美術X──祈り」
斎藤秀三郎展──不安なキャベツたち
中ハシ克シゲ「Depth of Memory」
寺田太郎遺作展 |
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福岡/山口洋三(福岡市美術館) |
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福岡市美術館では、福岡で実績をあげてきた現代作家を個展形式で紹介する「21世紀の作家──福岡」を2000年1月からほぼ毎年度開催してきた。先頃終了した和田千秋展は第8回目にあたる。ちなみに歴代出品作家は、村上勝、桑野よう子、阿部守、江上計太、片山雅史、藤浩志、柳幸典。毎回、出品された新作のドキュメントだけでなく、それまでの活動歴をまとめた資料も掲載した図録を作成し、放っておくと埋もれてしまいがちな地方の美術史の記録と形成に努めている(つもり)。
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上:和田千秋「障碍の美術X−祈り」(展示風景)
下:和田千秋「障碍の美術X−祈り」より
《私を私自身から救ってください》
ともに、制作:2007年、発表:2008年、撮影:吉住美昭
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さて今回の和田千秋展である。和田は1970年後半から福岡市で活動を開始し、当初はフォーマリズムの絵画理論を参照した平面作品とインスタレーションを制作していた。しかし、1987年に長男が障碍を負って誕生し、その介護にあけくれる生活を余儀なくされたことにより、一時制作を中断。その後障碍の問題を美術を通じて社会に送り出せないかと考え、1992年以後《障碍の美術》を制作・発表してきた。本展は、その《障碍の美術》の第10作目にあたり、力のこもった新作インスタレーションが披露された。ちなみに和田の紹介と、前作となる第9作目《障碍の美術IX》のレポートは2003年に川浪千鶴氏が書いている。
今回の新作も、全作に引き続き絵画が主体となっているが、その一方で、息子の教育のために和田が自ら制作した無数のカード(片面にイメージ、もう片面にそのイメージを示す言葉)と、介護用ベッド、それに車いすといった、従来の「障碍の美術」シリーズで使われたような、息子の介護と関わりの深い既存品が展示を構成している。ところでこの既存品を使う手法は、「障碍の美術」初期から見られたもので、息子のために和田が自作した訓練器具がそのまま作品として提示されるケースが多かった。本来フォーマリズムの作家であった和田が、レディメイドの手法を採用することで到達した境地であり、この転換がなければ《障碍の美術》はあり得なかっただろう。さらに言えば、今回の新作が絵画主体であると書いたが、前回《障碍の美術IX》までは、提示される絵画はおおよそ漫画的な表現になっていた。和田によれば過酷な現実はそのまま描けない。だから現実からある程度距離をおいた漫画的な表現にいきつく。浜田知明や池田龍雄の作品はその先例かもしれない。
そうした要素を抱えた過去の《障碍の美術》は、その内容がかなり複雑かつ直截的で、全体としてみれば和田のメッセージにはかなり攻撃性が高かったように思う。漫画的な絵画と、レディメイドの訓練器具との間には、見る者(第3者)にはわかりえない現実が醸し出され、どこか近寄りがたく闘争的な雰囲気があった。
前作にも言えたことだが、今回の展示にはその闘争的な雰囲気は微塵もない。絵画は写真を元に描かれたと思われるが、漫画的表現は後退し、変わってリアリズムが前面にでている。これは過去の作品と比べてかなり大きな相違点である。我が子の成長の過程を追った連作であるが、これを無数の訓練用カードの山、そしてもうひとつの要素である、介護用ベッドと車椅子の展示(ベッドから翼のついた車椅子が飛翔しようとして地面に落下。息子の夢であることが示される)と合わせてみるとき、既存品と絵画との間の激しい齟齬はあまり感じられない。その原因はなにかと考えたとき、思いつくのは「時間」である。現在はすでに使わなくなったというカードは、制作においても実際の教育においても、相当の時間がかけられたはずで、その時間が絵画の連作に現われた彼の息子の成長過程と重なる。愛息のイメージの周囲には、「障碍」を示す泥岩のようなものが張り付いているが、祭壇画のように掲げられた1枚の作品を見るとき、その泥岩から新しく生まれ出でようとする息子の姿が描かれているように見受けられた。全体として前向きなメッセージは観客にも十分伝わったようで、芳名録には好意的な感想が時々見られた。
1992年以来現在に至るまでに、和田は相当に成熟した表現に到達したのではないかと感じた展覧会であった。 |
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近年設立の美術館には余り見られない「貸し館」制度。1979年開館の福岡市美術館にはそれがあり、市美をモデルに設立された福岡アジア美術館にもある。というか九州の美術館は古いところが多いから珍しくない。美術館が企画をしないで有料で作家に会場を貸し付ける制度は日本独自の物だということは昔から言われ、そしてたびたび「美術館」の制度の不完全さを批判する素材としてあげられてきた。しかし一方で、市内の貸しギャラリーよりも割安で利用できるこの制度を利用した充実した作家自主企画の個展やグループ展が開催され、地元の美術シーン活性化に一役買ってきた側面があることもまた事実。
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上:《文明キャベツ》
キャベツをかたどった立体に、人工的な着色とマーキング。
下:《二つの時間》
本作とメゾチントが対比された。
ともに撮影=椎原一久
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この斎藤秀三郎展はその好例。初期「九州派」に属し、その後九州派から派生した画家グループ「グループ西日本」の中心作家の1人となって活動した斎藤秀三郎は85歳の今も現役で作品を制作し続け、若い作家とも交流を続ける希有な存在(昨年の内橋和久とダブ平&ニューシャネルのジョイントライブの客席でお見かけした際には感動を覚えました)。元九州派というと、どうしても桜井孝身や菊畑茂久馬といったくせの強い作家の名前があがりがちで、斎藤自身は陰に隠れがちな、地味な存在の作家だった。グループ活動からはなれた後は、キャベツをモチーフとした銅版画を制作し続けている。自分の息子・娘や孫ほど世代が離れた作家たちの開く展覧会やイヴェントにも積極的に参加しているため、福岡の若い作家たちの間ではもっとも身近な元九州派作家である(ていうか、九州派かどうか、って若い人には関係ないのね)。今回の個展は絵画や版画がでているかと思いきや、従来のメゾチント版画に加え、絵画や立体を多数用いたポップなインスタレーションであった。キャベツをメインモチーフとしている点は変わらないものの、本物のキャベツから石膏取りされた立体を主要素として3つの空間を構成。文明批評的な内容は昔から変わらない。老成を感じさせない若々しい色彩と、シャープな造型に関係者は驚きの声を上げていたようである。その驚きは、おそらく斎藤の持つ(年甲斐もない?)「自由さ」に向けられた
ものだろう。これまで築き上げた自らの作風を相対化しかねない劇的な転換に は(失敗という)危険すらともなうだろうが、それを顧みることなく果敢に若い作家たちが試みる実験的な方法を自分の作品にも取り入れるどん欲さ、それにより自分の作風すら広げてしまうエネルギーには脱帽するほかない。わずか一週間の会期であったが、途中でトークや舞踏などさまざまなイヴェントも行なわれた(しかし私自身は下記中ハシ展見学日程と重なったため残念ながらイヴェントには参加できなかった)。 |
●斎藤秀三郎展──不安なキャベツたち
会期:2008年3月20日(木)〜2008年3月25日(火)
会場:福岡アジア美術館交流ギャラリー
福岡市博多区下川端町3-1 リバレインセンタービル7・8F/Tel.092-263-1100
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上:「回天」の展示風景。ギャラリー内では大きすぎでカメラに収まらない
下:焼却イベントの様子。点火する中ハシ |
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2006年の「震電プロジェクト」以来中ハシ克シゲとは仕事以上のつきあいとなってきた。今回は米国での個展をどうしても見たくて強行日程で渡米。2002年のAsian
Cultural Councilによる米国研修派遣以来6年ぶりにサンフランシスコを訪問。そのころ交流を持った知人たちと旧交を温めつつ、Cameraworkというノンプロフィットのギャラリーで開催されている中ハシ克シゲの「Depth
of Memory」展を拝見した。ゼロプロジェクトの一環には変わりないが、今回は戦闘機ではなく、「回天」という特攻専用潜水艦(というか操縦席付きの魚雷)がモチーフとなっている。米国の研究者で、2006年の滋賀、鳥取で行なわれた中ハシの個展図録にも寄稿しているアーロン・カーナーの企画のもと、現地の人々の参加により行なわれた公開制作により制作された《回天》と、鳥取に出品さえた戦艦ミズーリの甲板を撮影したon
the dayプロジェクトの作品、合計2点による展覧会となっていた。零戦や震電の展示に比べたら地味でスペクタクル性は薄いが、そもそもCameraworkは写真専門のギャラリー。そういう場所で、写真を素材とした彫刻が展示される自体はなかなか痛快である。
さて実は私の目的は、展示の見学よりも、展覧会最終日に開催される焼却イヴェントのほうにあった。震電は焼却中止、桜花と彗星の焼却は仕事の都合が付かずに見ることができず、結局国内で中ハシの焼却イヴェントを見たことがない。だから今回は私にとって初めての焼却イヴェントとなったのである。
サンフランシスコとオークランドを結ぶベイブリッジを支えるトレジャーアイランドで開催された焼却は、乾燥した強風にあおられあっけなく終了。飛行機と違い、翼がなく全体が小さめの《回天》は、20分もせずにほとんど燃え尽きてしまった。さらに消防隊員による放水のおまけつき。中ハシによれば、今まで消防隊の待機はあったが、(勝手に)放水されてしまったのは今回は初めてとのこと。「ドライで都会らしい終わり方」 といつもとは違う米国でのイヴェント開催を一方で楽しみつつも、やや悲しそうな表情も見えた。というのも、今回《回天》制作にあたり、交流していた「回天」元乗組員が、展覧会初日の前日になくなっていたからだ。作品《回天》には黒リボンが付けられており、この焼却は故人への追悼も意味したものであったのだ。
サンフランシスコの鑑賞者からはおおむね好評を得ていたようで、私の友人たちもエキサイティングだったと賞賛していた。私自身は、もちろん今回初めて焼却イヴェントを見る機会を得たことが大きかったが、それと同時に、アーロン・カーナーと出会えたことが収穫だった。San Francisco State Universityの映画学部で教鞭をとっているが、独自の視点で現代美術を研究している。2004年に「崩れゆく歴史(Collapsing Histories)」展を東京都立第五福竜丸展示館で企画した若き研究者である。 |
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上:AMPギャラリーの入口。Art is Magnanimous Plantの頭文字でAMP
下:寺田太郎《ノアの箱船》の展示風景 |
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九州・長崎自動車道を使えば福岡市内から車で1時間もかからない、のどかな山間に、このギャラリーはある。鉄の造型で福岡市内では知られた存在だった寺田太郎(1961年生まれ)を中心に設立されたAMPギャラリー。誕生からまだ間もないこのスペースを拠点とした寺田太郎始めメンバーのこれからの活躍が期待されており、前の記事でも紹介したfafa展にも出品していた。しかし残念なことに、現在ギャラリーの中心人物はいない。寺田太郎は昨年末、久留米市内で飲酒運転の自動車にはねられ急逝したからである。今回「太郎の箱船」と題された遺作展が、ご遺族の手により企画され、AMPギャラリーにて開催された。
私自身、寺田太郎と面識はなかったのだが、ある因縁で彼の存在とその作品は知っていた。彼の父親は寺田健一郎。戦後福岡の美術シーンを代表し、さらには初期九州派にも属し、重要な足跡を残したことで地元ではよく知られた画家だったのだ。九州派関係の調べ物をするべく、福岡市美術館のすぐ近くにある寺田アトリエを時々訪問することがあった。父のアトリエには彼の作品とともに、寺田太郎の鉄の彫刻も飾られていたことを思い出す。健一郎氏は私が福岡にくるずいぶん前に亡くなっており、そして太郎氏ともついに出会えなかった。
寺田太郎の活動の場所は、現代美術のフィールドではなく、鉄を用いた室内インテリアや内装、サインなど、どちらかといえばデザイン寄りの分野であったため、これまで私も余り出会う機会がなかったのかもしれない。しかし福岡市繁華街を歩けば、意外な場所に彼の手がけた照明器具や看板を見かけることができる。注文も多かったようだ。
展覧会に出品された鉄のオブジェの数々は、その多くが今回所蔵者から借り集められたもので、寺田太郎の作品が多くの人に支持されていたことが伺えた。天井からつり下げられた《ノアの箱船》は圧巻だった。彼の友人や知り合いと思しき人々が多数来場され、亡き人に思いをはせながら長時間会場にたたずむ姿が見受けられた。
AMPギャラリーは寺田太郎の弟である瀬下黄太らを中心に運営されていくだろう。今後目が離せないことには変わりがない。 |
●寺田太郎遺作展
会期:AMPギャラリー
会場:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町松隈1257-1/Tel.0952-20-1482
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[やまぐち ようぞう] |
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