レジスタンスとしての展覧会 |
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大阪/中井康之(国立国際美術館) |
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このレヴューが掲載される頃には、すでに六本木の国立新美術館で開催しているであろう「アヴァンギャルド・チャイナ─〈中国当代美術〉二十年─」は、ここ数年、アートマーケットを席巻している中国の、ここ20年程の「前衛的」な動向を捉え直そうという意図で企画した展覧会である。
捉え直し、という控えめな表現をしたが、本音としては文化大革命以降の中国美術の正史を描きたい、という美術館屋として野望を込めている。初発的には、私の所属している国立国際美術館の館長建畠晢が断続的に続けてきた中国の若手前衛作家に対するフィールドワークと、国際交流基金でアジアンセンターを運営してきた(現在は国際交流基金に統合)古市保子氏の継続的なアジア美術紹介に対する熱意によって始まったものであったが、まさにこれは海図なき航海というクリシェそのままの無謀な企画だった。正史を描くと言っても、本質的な意味でフィールドワークを行なう時間がわれわれに許されていた訳ではない。少しでも効率を高める為に、文化大革命以降の中国美術史をすでにスケッチしている何人かの評論家に話を聴取し、そこから基本設計を描くことがわれわれの最初の準備となった。
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- 1──最初にわれわれが会えたのは皮力(ピーリー)という30歳そこそこの新世代の評論家であった。彼は中国に於けるコンセプチュアル・アーティスト・グループの存在を指摘すると共に、中国に於ける最初の総合的な現代美術展である89年の中国現代美術展から調査を始めるのが良い、と示唆してくれた。
- 2──次に面会した黄篤(ファン・ドゥ)も同世代の評論家で、彼は単に時代を追うだけではなくテーマを設け、時代を横断するような仕組みの必要性を説いた。
- 3──3人目に会った欧寧(オゥ・ニン)は、作家としても活躍する人物で、彼はできるならば、美術だけではなく文化全般(映画、文芸、舞台)も概観できるようにとアドバイスしてくれた。
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彼らは、まるで申し合わせていたかのように、われわれをより広いステージに立つように鼓舞してくれるかのようなメッセージを与えてくれたのである。
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- 4──そして最後に、中国に於ける前衛美術を誘導し、なにより「ポリティカル・ポップ(政治波普)」「シニカル・リアリズム(玩世現実主義)」という命名によって89年以降の中国絵画を香港という場所から見事に描き出した栗憲庭(リー・シェンティン)に、われわれは最後に会った。上記の若い評論家達とは彼らの関係する画廊や欧米系の巨大なホテルのカフェあるいは大飯店で話を聞いてきたのであるが、栗憲庭と会ったのは北京郊外の、近くには方力鈞(ファン・リジュン)のアトリエもある芸術街区の一角、伝統的な四合院のような趣を持つ自邸だった。われわれはそこで彼の高説を拝聴したのである。一言で言えば「君たち、もう少し勉強してからにしなさい」という雰囲気であった。それでも彼は「中国の美術界は70年代から80年代に、西欧美術の100年を凝縮したかたちで経験した。君たちは、それをただクロノロジカルに見せるのではなく、テーマを設けて整理したうえで、そのうえで歴史を反映しなさい」というアドヴァイスをくれた。そして、歴史的な作品を集めるのは困難であろうと言い放たれた。もちろん、上記評論家たち以上に、作家たちやコレクターとの数多く交渉が待っていたことは言うまでもないことであるが、繰り返しになるが今回の展覧会では、正史を描こうというわけであるから、その基本的な設計が最重要課題であった。
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帰国後、今回の展覧会に参加した、国立新美術館、愛知県美術館、国際交流基金、そして国立国際美術館のおよそ10人余りが議論を重ね、さらに国内の中国現代美術の識者、牧陽一氏、栗山明氏、千葉成夫氏、ラワンチャイクン寿子氏等にもレクチャーを受けたうえで、時代と媒体(テーマ)を連結するかたちで、「コンセプチュアル・アート([ファン・エンピン]からアノニマスなコンセプチュアル・グループ)」「絵画(ポリティカル・ポップ、シニカル・リアリズムとその後)」「パフォーミング・アート(六四天安門以降のゲリラ的行動)」「ヴィデオ・アート(張培力とその後の世代)」というような緩やかなグルーピングによって時代を追いながら、個々の作家の芸術性も確認できるような構成、作家選となった。これに2000年以降の作家をどのように加えていくのかということも後付けで問題となった。このように整理してしまうとすっきりとしたように感じられるかもしれないが、会議に不思議な香港の実業家(コレクター?)が参加したり、作家選の意見の食い違いからメンバーの交代劇が生じたり、というような通常では起こりえない事件がさまざまに生じていたが、今から考えればこのようなこともまだ前哨戦、というか凪なむ風景の如くのように感じられる。
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左:李憲庭邸(2007年3月)
右:李憲庭邸中庭(2007年3月) |
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人選がおおよそ決まった段階で、ほぼ自動的に出品希望作品の選定も決まった。というのは、繰り返しになるが、中国現代美術の歴史を描き出そうという訳であるから、例えば《『中国絵画史』と『現代絵画簡史』を洗濯機で2分間攪拌した》(1987)という中国ダダとでも形容できそうな作品は、展示されなければならなかったし、王広義(ワングァン・イー)のポリティカル・ポップ時代前の作品、方力鈞(ファン・リジュン)のシニカル・リアリズム様式以前の作品も必ず出品されなければ、中国現代美術史の発端を呈示することにはならないのである。それが、これまで欧米で行なわれてきた中国現代美術展との違いであり、われわれの展覧会のアイデンティティーとなる重要な点であった。しかしながら黄の作品は原則的には一点しか存在せず(実は再制作作品があり、それが現存する唯一のものだった)、王や方の主要作品も、数人の有力コレクターの手にわたっているものが多く、或いは海外の美術館の所蔵作品となっていた。いま、ここで、そのすべてを詳らかにすることはできないが、それでもわれわれが希望する各作家に対してある特定の時代の作品が、最終的には、ほぼ出品できることになっていた。結果的に、僅かながらも国内の美術館に重要な作品が所蔵されていることがあらためて確認できた。
ここまで来れば、通常であればあとは保険金額の問題だけであるはずだった。しかしながら、最後に中国国内から作品を輸出する段階で、大きな障害が発生した。今回の展覧会が彼の国に美術展として認められず、輸出に際して高額なカルネの担保金が要求されたのである。カルネに担保金が必要である、というのは初耳であったが、国内他館で開催された中国現代美術展では、その支払いによって無事展覧会が開催してきたこともその時にわかった。この段階で展覧会の中止あるいは延期という話も真剣に討議された。議論を重ねた結果、最終的には急遽中国に飛び、各作家、コレクター、画廊に保険金額の減額をお願いする方法しかないと判断することになった。このような作業を行なっているあいだにも時間は過ぎ去り、北京オリンピックで物流が増加しているなか、それでも結果的には作品が日本に届いた。今回の輸送を担当した業者も、作品が展覧会準備期間中に無事届いたのは奇跡的なことであるという言葉を口にしていた。これ以上、詳細に触れることはできないが、彼の国から美術作品を運び出すための情報が共有されない限り、このような作業は繰り返されるだろう。実際、北京のある作家に上記の経過を説明し評価額の減額を交渉した際に、「そういえば以前にもあなたのように評価額を下げてくれと言ってきたキュレーターがいたなあ」という発言が出た。前もって教えて欲しかった……。
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中国現代美術の20年を形成すると言っても、言説の分野ではその歴史を生きていた人物に、その歴史を語って欲しいというのも、今回のプロジェクトに参加したわれわれの統一した見解であった。しかも、その流れを誘導した一人である栗憲庭のような評論家ではなく、正統的な意味で批判的な観点を持つ評論家として現在ピッツバーグ大学で教鞭をとっている(ガオ・ミンルー)氏にメイン・テキストを依頼した。高氏は文革後天津美術学院で美術史を学び、85年以降の美術運動に参加。1991年に渡米してハーバード大学で東アジアと西欧の現代美術に関する比較研究で博士号を取得し、1995〜1998年にアメリカやアジアの主要都市を巡回した大規模な中国現代美術展「インサイド・アウト〈ニュー・チャイニーズ・アート〉」を企画するなど、中国現代美術が論じられる世界では広く知られている。彼は、今回の展覧会に賛同し寄稿を約束してくれた。われわれは彼のテキストを期待していた。しかしながら、5月26日、そのニューヨークにいるはずの高氏のメールが四川から届くのである。高氏は四川大地震で地元に戻り、家族や親類、友人たちへの救助活動をしていたのである。そのメールには、今回テキストを書ける状況では無くなったことが述べられていた。われわれは再度、上述したような立場にある人物を捜す作業を経たうえで、費大為(フェイ・ダウェイ)氏にテキストの執筆を依頼した。彼は六四天安門後、フランスに渡り、「大地の魔術師たち」などに関係していた中国現代美術の研究者である。なにより、昨年末、北京の798内に誕生したウレンス・アート・センター・フォー・コンテンポラリー・アートでディレクターを務め、開館展である「'85新潮」という、中国の85年前後の前衛美術運動展を企画した中心人物であった。要するに比較的近似した展覧会を企画していたわけである。であるが故に、われわれは高氏に依頼していた。もはや、この残された僅かな時間で、われわれの期待するテキストを用意できるのは費氏しかいなかった。もちろん、その1カ月間、問題なくことが進んだ訳ではない。彼は、最初はラフな概論を書くと言ってこの仕事を引き受けた筈であった。それが、締切りを大幅に経過した7月12日に、これはまだ一部分であるというメールと共に最初のテキストが送られてきた。最終的に完成稿受け取ったのは7月30日であった……。関係者でなくとも、「アヴァンギャルド・チャイナ─〈中国当代美術〉二十年─」展のオープニングである8月19日に、その費氏の新しい知見に満ちた、中国現代美術20年のテキストが、日本語と英語によって掲載されることが、ほとんど奇跡に近いことは理解して貰えるだろう。中文和訳、中文英訳を引き受けてくれた両氏には、本当に感謝の念に堪えない。
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いつの頃からか展覧会は、ひもつきが通常のかたちとなってきたし、誰もそれを疑わない。しかしながら自由な表現というのは、そのことによって抑制されてしまうことがあることは理解できるだろう。今回の展覧会は、さまざまなレヴェルの、さまざまな組織と、与できない内容であったため、今時めずらしい協賛等のほとんどない国際展となってしまった。しかし、これは、われわれが努力を欠いたからではなく、中国の自由で問題意識のある表現を見て欲しいという努力を重ねた結果、このようになったのである。この展覧会を見る人々には、そのような看板に列挙される立派な団体名を見ることではなく、ぜひ展覧会の内容を見て判断して欲しいと願っている。 |
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