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学芸員レポート
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金沢アートプラットホーム2008
金沢/鷲田めるろ(金沢21世紀美術館
《6000系はゆうゆう》
《大陸移動説/レジャー》
SANAA《フラワーチェア》
SANAA《フラワーチェア》
 友政麻理子は、妹島和世を知らない、と言った。片や20代のアーティスト、片や世界に知られた建築家。フィールドや世代は異なっており、若い友政が妹島を知らなくても無理はない。だが、二人が見ているものは近い。
 友政の作品に、《大陸移動説/レジャー》というものがある。ピクニックで多くのひとが座っている状態で、下に敷いているレジャーシートをずらしていくというものだ。ひとつのシートにひとつの家族が座っている。シートが一人分ずれると、その一人は、隣の家族と同じシートに座ることになる。「家族」の単位が解体されていく。SANAAの《フラワーチェア》も同じ発想である。ある椅子に座る人は、隣の椅子に座る人との関係が、同じ椅子に座る人との関係よりも強い。この組み替えの考え方は、妹島の建築に貫かれている。

 「金沢アートプラットホーム2008」という展覧会を開催するにあたり、友政を選んだ理由は、さまざまなかたちをとって展開する彼女の一連の作品に、「物語」を解体する意志と力を見たからである。
 《お父さんと食事》は、シンプルな作品だ。「いただきます」から「ごちそうさま」までの間、親子であるという約束をして、友政は自分の父親くらいの年齢の男性と食事をする。展示会場として借りた一軒家の1階のお茶の間にはテーブルが置かれ、その奥にはテレビがある。テレビに映っている映像は、まさにその部屋で友政が「お父さん」とカレーを食べている様子である。そして「お父さん」は入れ替わってゆく。普通の家の普通のお茶の間で、普通の親子が食事をしている。だが、その会話を聞くと、ぎこちなさと、居心地の悪さが伝わってくる。にせの家のにせのお茶の間、にせの親子。そして、にせのお茶の間に座って映像を見ている自分は? プライベートとパブリック、フィクションとリアルの境界が、重層化され、撹乱される。自分が家族だと思っているものは、家族ではないかもしれない。普通の家のように見えるが、誰でも入ることができる展示空間でもある。
 繰り返す。私が、友政を選んだのは、彼女が持っている、この撹乱する力を信じたからだ。その力は、妹島に匹敵すると思った。そして彼女は、8月からこの家に住み込み、この家で、金沢で出会った人とパフォーマンスを行ない、展示をした。結果、彼女は、期待に十分に応えたと思う。
 しかし、出来上がった作品を見て、真によい作品だと思った理由は、もうひとつ別にあった。それは、パフォーマンス/映像の提示の仕方であった。これは、キュレーターとして私が予想しきれなかった部分であり、その分、喜びも大きかった。
友政麻理子《お父さんと食事》
友政麻理子《お父さんと食事》
 友政の「お父さん」との食事は、その様子を撮影した映像として展示されている。しかし、その映像を見る人は、中立的な第3者でいることを許されない。例えば、私たちが1960年代のアーティストのパフォーマンスを記録映像で見るときの経験を想像してみる。アーティストが不可思議な行為を映像の中で繰り返し、見る人はその行為を理解しようと努めるとしても、自らがリアクションを求められることはない。ところが、友政の映像の場合、パフォーマンスが行なわれているのは、見るあなたが、いま座っているその場であり、「パフォーマンス」とは、日々あなたが娘や父親と行なっている会話に過ぎない。もし、いま、ここに友政が現われて、台所からカレーを運んでくれば、あなた自身が友政の家族になるという状況に置かれるのだ。

 先日、横浜トリエンナーレの展示の中で、ティノ・セーガルの作品を見た。三渓園に飛騨から移築された豪農の家の座敷で、男女が絡みあうという作品である。よい作品だ。行なわれている行為が、公共の場にそぐわないというだけで、家では誰もが行なう日常的な行為だからだ。服装が、三渓園を訪れたカップルのようであるのもよい。パフォーマンス作品として行なわれているということが了解されているとしても、つい見てはいけないかのように、眼をそらしてしまう。パフォーマーの一人が自分に迫ってきたとしたら、どうすればよいか、考えてしまう。あるいは、同じ行為をこの畳の上で、自分が始めたとしたら、周りの人たちはどうするだろうか。観客が安全地帯にいることはできないのだ。パフォーマンスには、常にこのように、見る人の安全地帯を脅かす要素がある。しかし、それが映像に撮られて上映されたとしたら、その要素を保つことは果たして可能だろうか?
 友政は、作品の重層性を強めることによって、観客の安全地帯を脅かす。その重層性は、パフォーマンスを始める前から周到に用意されている。「お父さん」と食事をするときにも同じ位置にテレビが置かれ、そこでは、軍手で作った人形による架空の親子の会話が流れている。このテレビによって、パフォーマンスは、合わせ鏡のように入れ子状になる。さらに、観客の座る部屋は、ごくありきたりの家を友政が時間をかけて探したものである。スタッフはエプロンをつけ、毎日、洗濯物を干すことを要求される。そして、展覧会の会期が始まってもなお、しばらく友政はこの家に住み続けていた。関わった人が家具を貸してくれ、家はより家らしくなった。展示スペースを「茶の間」が浸食する。この重層性によって、観客はテレビの画面を超えて、パフォーマンスに巻き込まれることになる。

《「カミフブキオンセン」》
友政麻理子《「カミフブキオンセン」》
 この重層性は偶然ではない。2階に上がったところで展示されるもうひとつの作品《「カミフブキオンセン」》は、さらに複雑に重層化された作品である。訪れた人は、畳の間に紙吹雪で満たされた湯船に浸かりながら、モニターで語られる物語を聞くことになる。その物語は、いま湯船に満たされている紙吹雪を切りながら、さまざまな家族がつくった、架空の「カミフブキオンセン」にまつわる物語である。この作品は、家族から家族へと物語を伝えてゆくことによって、フィクションである物語が次のフィクションを生み出す時に影響を与えることがひとつのテーマとなっている。フィクショナルな物語の持つ共通の構造に眼を向けさせることによって、物語自体のオリジナリティを批判し、その特権性を疑うものである。この点で、家族という物語を解体する姿勢と繋がってくる。家族や父親という物語を疑うというテーマから出発した友政が、物語自体にテーマを展開させた作品と位置づけることができる。
 だが同時に、この作品でも、映像を見ているはずの自分が、映像の中の人の作る温泉の物語の一部としてパフォーマンスさせられているということが起きている。いま手で触れている紙吹雪は、まさに画面の中の登場人物がつくったものであり、服の隙間に残ってしまった紙吹雪は、さらに家を出て町の中へと連れ出されることになる。その連れ出しに、観客は意図せずに、かり出されるわけである。

 このような映像と観客との関係を生み出す、映像の提示の方法は、かつてのヴィデオ・インスタレーションには、なかったものである。ピピロッティ・リストやダグ・エイケンに代表されるような、90年代以降主流となったヴィデオ・インスタレーションは、それまでのシングル・スクリーンのヴィデオ作品と違って、見る人自身の身体を意識させ、動きを誘発するものではあったが、スクリーンの中の世界と、スクリーンの手前で見ている観客との間には確固とした境界があった。しかし、友政は、その境界をなくし、映像を見る者は、パフォーマンスに立ち会っているかのような経験をさせられる。
 この点が、私が友政の作品について、事後的に発見した重要性である。90年代のヴィデオ・インスタレーションとの違いは、時代を画するものとして強調されるべきだと私は考える。そして、同じ理由で、今日、ティノ・セーガルの作品は評価されるべきである。さらには、ダン・グラハムの1970年代前半のディレイを使ったリアルタイムのヴィデオ作品を、今日、再評価すべきであると私が考えているのも同じ理由である。
 友政は、重要な作家となるであろう。金沢の作品を見逃すべきではない。

金沢アートプラットホーム2008
会期:2008年10月4日(土)〜12月7日(日)
会場:金沢市内各所
主催:金沢21世紀美術館

[わしだ めるろ]
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