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村田真|原久子
蚕と点棒
村田真
 2003年の日本のアートシーンにおけるエポックメーキングな出来事として、新潟県でおこなわれた「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」と、「ハピネス」展でオープンした森美術館をあげたい。このふたつはともに破格のスケールで世間の耳目を集めたというだけでなく、場所といい活動内容といい方向性といい、じつに好対照をなしているからだ。

地に足をつけた「大地の芸術祭」

小沢剛《かまぼこ型倉庫プロジェクト》
長澤伸穂《透けてみえる眼》
たほりつこ《グリーン・ヴィラ》
上:小沢剛《かまぼこ型倉庫プロジェクト》
中:長澤伸穂《透けてみえる眼》
下:たほりつこ《グリーン・ヴィラ》
© S.ANZAI
写真提供:大地の芸術祭実行委員会
 「大地の芸術祭」のほうは2000年に次ぐ第2回なので、初回ほどジャーナリズムを騒がせることはなかったものの、内容的には第1回より充実し、めざすべき方向性がいっそう明確化してきたように思う。第1回展では、新潟県の6市町村にまたがる762平方キロメートルの山野に32カ国142作家が作品を展開するという規模の大きさや、過疎の農村と最先端の現代美術の取り合わせに注目が集まった。アートがどうのこうのいう以前に、まずは驚きの視線で受けとめられたのだ。
 個々の作品を見ても、第1回は、あらかじめスタジオで制作したものを現地に設置したパブリックアート的な作品が多く、その場から浮いていたものも少なくなかった。それに対して第2回では、参加アーティストたちはより深く地域コミュニティとかかわり、住人たちと協働し、この地域ならではのサイトスペシフィックな作品を実現していたように見える。その表われとして筆者が注目したのが、以前このサイトでもレポートしたような、「建築的」な外見をまとった作品の急増である。
 具体的には、作品そのものが家のかたちをしていたり内部に入れる構造をもったもの(古郡弘、キム・クーハン、母袋俊也、小沢剛、川俣正ら)、民家や廃屋をインスタレーションに採り込んだもの(クリスチャン・ボルタンスキー、ローレン・バーコヴィッツ、長澤伸穂ら)、アースワークのように土地そのものを作品化したもの(たほりつこ、カサグランデ&リンターラ、磯辺行久ら)などだ。
 いずれも作品が建築や土地と一体化し、その場所から動かすことができないものであり、筆者はこれを「不動産美術」と呼んだ。「不動産美術」は、外部の者にとってはそこに行かなければ見られないので「巡礼」の対象となりうるし、そこに住む者にとってはいつも身近にあるものだから愛着もわく。「大地の芸術祭」が作品の半数近くを会期後もそのまま残しているのは、それらが地域コミュニティの公共財産として大切にあつかわれることを期待してのことだろう。文字どおり地に足のついた美術展といえる。

「動産度」の高い森美術館

森美術館
森美術館
 「大地の芸術祭」が閉幕した翌月、山間部の過疎地とは打って変わって東京のど真ん中の六本木に、それも超高層ビルの最上階に森美術館が華々しくオープンした。
 ビルの最上階の美術館というと、かつての西武美術館をはじめとするデパート美術館を思い出すのは筆者だけだろうか。デパートには「シャワー効果」といって、展覧会を見に来た客に階下の売場で買物をしてもらおうという販売戦略があったが、森美術館はオフィスビルだからそんな必要もなく、ただ純粋に美術(館)の位置を高めたい、あるいは都市再開発の文化的シンボルに位置づけというオーナーの考えから最上階に設けられたのだろう(もっとも展望台とセットで入場者を増やそうという意図はあるかもしれないが)。だいいち森美術館はデパート美術館が壊滅状態になってから開館したのだから、発想はまったく異なっている。
 ただし、デパート美術館との共通点もある。それは作品をコレクションせず、企画展のみで運営していくことである。つまり森美術館とは物理的にはカラッポの空間だけであり(もちろんそれを動かしていく優秀なスタッフと海外ネットワークは存在する)、手を変え品を変えさまざまな作品を見せていくエンタテインメントなショーケースなのだ。
 美術館はもともと「動産美術」しかあつかえないが、コレクションをもたない森美術館はいっそう「動産度」が高いといえる。不動産屋の営む美術館なのに「動産度」が高いというのもおかしな話だが、とりわけ「高動産度」を印象づけたのがオープニングを飾った「ハピネス」展だった。ここには6世紀中国の菩薩頭から、ターナーやピカソらの近代絵画、北斎の春画、レニ・リーフェンシュタールらの映像、ヨゼフ・ボイスやオノ・ヨーコのインスタレーション、北朝鮮のプロパガンダ美術、そして奈良、村上まで、よく集めたもんだと感心するほど並んでいる。
 これだけ古今東西の美術を集めたのは、1970年の大阪万博における「万国博美術展」以来のことではないだろうか。しかも「万国博美術展」では個々の作品の出自を保証すべく時代順・地域別の展示がおこなわれていたはずだが、ここではそんなオーダーもなくきわめて恣意的に並べられているのだ。たとえば、ロバート・ライマンの真っ白なペインティングの向かいに鎌倉時代の阿弥陀如来像があったり、江戸時代の能面の隣でピーター・ランドのバカ笑い映像をやっていたり、といったように。
 作品が制作された場所から切り離され、本来の機能と文脈を奪われて見られる対象になるのは近代美術の前提だが、ここでは地域性や時代性をはぎとられた作品がさらにシャッフルされて、「ハピネス」というテーマに奉仕させられているのだから、これほど「動産度」の高い展示はないだろう。

地域密着型とエンタテインメント型

 「不動産度」の高い「大地の芸術祭」の短所は、長所の裏返しである。すなわち、パーマネントであるがゆえに、住人の望まない作品が置かれてしまったとき簡単には撤去できないことだ。だから制作前も制作中も対話が不可欠となる。
 「動産度」の高い森美術館の短所は、デパート美術館がそうであったように、いざとなったらほかの用途に転用されかねないことである。私設美術館でコレクションもなく、地域とのつながりも薄く(物理的にも地に足がついてない)、テンポラリーな展覧会を繰り返すだけなので、いついかなる理由で閉館しようがだれからも文句はいわれない。これはいうまでもなく短所であると同時に長所でもある。
 「不動産系」の地域密着志向と、「動産系」のエンタテインメント志向──「大地の芸術祭」と森美術館をこのように対比してみることができる。もちろん「大地の芸術祭」の作品にもエンタテインメント志向はあるし、森美術館管轄のパブリックアートや教育プログラムにも地域密着志向が認められるが、大ざっぱにいえば「大地の芸術祭」と森美術館は、このふたつの方向性を象徴するものだといっていい。もちろんアリとキリギリスのようにどちらが正しいとか、どちらが生き残るといったことではなく、これからのアートは否応なくこのふたつを両極として展開していくだろう、という話で2004年の展望にかえたい。
[ むらた まこと ]
村田真|原久子
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