透明な円と林立する箱
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《金沢21世紀美術館》外観
写真提供:金沢21世紀美術館 |
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筆者にとって、プロジェクトの段階から、これほど多く言及した建築はなかった。現在、もっとも注目すべき日本の建築家ユニット、妹島和世と西沢立衛によるSANAAが、大がかりな公共施設を手がけるのだから仕方ない。例えば、『終わりの建築/始まりの建築』(INAX出版、2001)では、この美術館は「裏表がない丸い形態をもち、展示室が分散し、すべてが正面になる」と記述し、ヒエラルキーを解体するスーパーフラット建築の事例としてとりあげた。また「内臓化する美術館」(『美術手帖』2002年10月号)や「美術館建築を愛してください」(『ART RAMBLE』4号、2004)では、最小限の皮膜しか持たず、わかりやすい顔=特定のファサードがない建築であると指摘した。そして実際に訪れ、上記の評価を大きく修正する必要がないことを確認したが、当然ながら現場で新しく気づいたことも少なくない。
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ひとつは円という輪郭線のあり方だった。平面図を眺めていると、どうしても強烈な形態が目に焼きつく。直径112.5mもの円が、もし球体に変身すれば、ブレーのニュートン記念堂に匹敵する規模になるだろう。古来、パンテオン、サン・ヴィターレ聖堂、テンピエットのように、集中式の空間は、モニュメンタルな性格をもつ。完結したかたちゆえに、理想的な空間とされてきた。ところが、《金沢21世紀美術館》の円は、高さを抑えていることや、透明なガラスになっていることから、限りなく存在感を消そうとしている。館の中央には、円形の展示室も設置しているが、やや偏心しており、円がもつシンボリックな性格をいささかも強調しない。実際、内部を歩くと、全体が円であることを忘れてしまう。例えば、日本のかたちを地図で知っていても、いくら移動しようと、その形態を実感できないように、むしろ館内では、さまよう感覚に身をゆだねることになる。
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きわめて現代的な建築でありながら、古代的な空間を連想させるという点では、展示室もそうだ。例えば、ほぼ12mのキューブになっている展示室8。幾何学的なプロポーションによって構成された直方体の展示室に入り、たまたま数週間前に訪れたギザのピラミッドの玄室を思いだした。エジプトでは、石の塊をくり抜いたかのように、厳密な比例による直方体のヴォリュームが出現していたが、ここでは漂泊された白い空間が屋根をつき抜ける。金沢21世紀美術館学芸員の鷲田めるろが「自分自身が入っていた、もしくはこれから入る展示室の外観を見る」と指摘するように、来館者は各部屋の大きさを目撃することが可能だ(「世界の美術館」展の日本版パンフレット『日本から未来へ』、2004)。つまり、円よりも自律したそれぞれの展示室の形態の方が強い。その結果、矩形の森のなかを散策するような体験を味わう。
展示室はどれも直方体だが、サイズや照明の方法によって、多様な空間を提供する。いろいろな箱が林立する環境は集落と似ていよう。ここでは見え隠れしたり、長い通路や角を利用して、人と人の関係をさまざまに設定しうることから、興味深いパフォーマンスが演出できそうだ。見学に訪れたシーラカンスの小嶋一浩は、学校建築としても使えると述べたらしい。おそらく、新しい図書館や事務所にもなりうるだろう。つまり、他のビルディングタイプに応用可能な建築の新しい型が出現したのである。《金沢21世紀美術館》では、円があって、それを計画学的に分割していくのではない。むしろ、与えられたプログラムによって寸法と比例が決定された各展示室をパヴィリオンのように並べ、それらを円という薄い皮膜によって包む。媒介する空間としての円。いつもそうだが、SANAAの建築は、基本的なかたちの意味を根源から刷新している。
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中間状態の生成/身体感覚の変容
もうひとつ、図面だけではよくわからなかったのが、建築とランドスケープの関係である。彼らの代表作、《マルチメディア工房》(1996)も、建築を半分地下に埋めつつ、周囲の芝生を盛り上げているからこそ、屋根から内部に入るという驚くべき形式を可能にしていたが、《金沢21世紀美術館》でも建築とランドスケープは無関係ではない。やはり、この2つが別個のものではなく、地続きのものとして構想されている。いわゆる障壁がなく、歩道から美術館の全体がよく見えるだけではなく、なめらかな傾斜の地形が、身体感覚によって通行人を引き込む。そして美術館のまわりを回遊する小道も設けられ、各方位の入口からアクセスできる。またSANAAは、以前から敷地にあった記念植樹の配列を変更し、人工と自然の中間状態をつくりだしたという。建築=人工的/ランドスケープ=自然的という二項対立が生まれることを避けているのだ。
内部と外部の浸透も発生している。シアター21やレクチャーホールは閉じた空間になりがちだが、カーテンを上げると、公園のなかのガラスのパヴィリオンのようだ。透明度の高いガラスの皮膜は、内部と外部の視覚的な連続性を強化するだろう。そもそも外気に触れる壁面は、展示室の壁以外、すべてガラスである。美術館の天井や床には、外部の風景が映り込む。これは周囲の緑を、映像として内部に引き寄せる西沢立衛の《ウィークエンドハウス》(1998)の手法をほうふつさせる。美術館の内部に挿入された4つの光庭は、外部空間の飛び地のようだ。SANAAは、「奥の奥まで行ってもあまり奥に入ってきた感じがしない」ことをめざしたという(『SANAA WORKS1995-2003』、TOTO出版、2003)。なるほど、内部のどこにいようが、すぐ隣に外部が存在している。またホワイエや光庭の植栽を見ると、ランドスケープが館内に侵入したような錯覚にとらわれる。
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パトリック・ブラン《緑の橋》
ヤン・ファーブル《雲を測る男》
写真提供:金沢21世紀美術館 |
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コミッションワークやオープニング展「21世紀の出会い──共鳴、ここ・から」の作品群は、こうした建築の方向性と合致している。長谷川祐子のキュレーションの賜物だろう。例えば、光庭に設置されたパトリック・ブランによる緑の壁やレアンドロ・エルリッヒのプール、空をとり込むジェームズ・タレルの部屋、通路に描かれたマイケル・リンの壁画、そして前後の風景を切り替える鏡の自動ドアによるカールステン・ヘラーのインスタレーション。いずれも内部と外部の関係、あるいは建築と美術の境界を揺るがしている。廊下のような場所も、十分な広さを確保し、作品が設置されている。筆者は設営中に訪れたので、すべてを把握したわけではない。ただし、すでに完成していた展示も多く、それらをもとに印象を記しておく。「モダン・マスターズ&コレクション」展を開催する市民ギャラリーを除いて、各展示室に一人の作家が空間をつくり、それぞれが作家の家のようになっている。総じて言えば、身体が経験する感覚の変容が全体を貫くテーマだろうか。対象をただ眺めるのではなく、環境に没入して体感すること。建築・美術・ランドスケープが、ここでしかありえない幸福な共鳴を起こしている。 |