作品集などを中心とした新刊書の紹介を通じて、アートの「今」を伝えて欲しい──今回、編集部から寄せられた依頼はおよそ以上のようなものであった。しかし、安請け合いしたのはいいものの、これはなかなかの難題である。言うまでもなく、アートは「読む」ものではなく「観る」ものであり、「今」を知るための最善唯一の手段は展覧会などの機会をつかまえて、可能な限り多くの作品を実見することであるはずだ。書物を通じてよい作品を知る経験を貶めるつもりはまったくないし、また書物そのものを作品化したアーティスト・ブックのような事例もあるものの、やはり現場の経験に勝るものはないだろう。加えて、出版はアートとはまた異なるダイナミズムによって動いているメディアなのだから、仮に最良のラインナップを揃えられたとして、必ずしもそれが「今」の動向を的確に伝えうることになるとは限らない。という次第でどうしても言い訳がましくなってしまうのだが、以下のブックリストは、編集部からの依頼を踏まえつつも基本的には私の独断や偏見を反映したものでしかないことをお断りしておきたい。
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若手の勢いを感じる写真家の作品集
まず近年、若手の台頭が著しいジャンルとして真っ先に思い浮かぶのが写真である。多くの新人写真家を輩出してきた木村伊兵衛写真賞はその象徴的存在だが、ちょうど30周年にあたる今年は、その節目を記念する回顧展(時代を切り開くまなざし――木村伊兵衛写真賞の30年 1975-2005、川崎市民ミュージアム、4月23日〜6月19日)が開催され、また関連書籍『フォトグラファーズ・木村伊兵衛写真賞の30年』が刊行された。ページをめくり、歴代の受賞作品を眺めているだけでもここ30年の写真史がうかがえるようで興味深いが、そんな同賞にとって、過去最大のサプライズであったのが2000年のHIROMIX、長島有里枝、蜷川実花の3人同時受賞であろう。なかでも蜷川の『mika』は、ド派手な色彩感覚と濃厚な雰囲気によって、天賦の才というものの存在を強く実感させてくれる。またしばしば彼女らをそのなかに含めて語られる90年代フォトグラファーの作品集としては、他にはオノデラユキの『cameraChimera』、野口里佳の『鳥を見る』、またやや高価だがやなぎみわの『WHITE
CASKET』なども同様に印象深く、鮮烈な印象を残す。 |
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『フォトグラファーズ・木村伊兵衛写真賞の30年』 |
蜷川実花『mika』 |
オノデラユキ『camera
Chimera』 |
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野口里佳『鳥を見る』 |
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能勢理子『DESIGN JAPAN』 |
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『世界の美術館』 |
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次いでデザインや建築の領域では、入門書やカタログなどに紹介すべき成果が多い。前者には能勢理子『DESIGN JAPAN』や川上典李子『Realising Design』を、後者には『世界の美術館』『ジャン・プルーヴェ』『谷口吉生のミュージアム』などを挙げておこう。とりわけ前者は、多くの図版と平易なコメントによってデザインの新しい動向を知るのに適している。また今年逝去した丹下健三に関しては今後再評価が進み、多くの作品集や研究書が出版されることが予想されるが、とりあえずここでは死後いち早く出版された『丹下健三──時代を映した“多面体の巨人”』を挙げておきたい。
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その一方で、この種の特集の「本丸」とも言うべき絵画のジャンルでは、残念ながら写真ほどには若手の勢いが感じられない。出版不況の折、商品として成立する画集の出版が困難になっていることが容易に察されてしまうが、そんな逆境下でも、大竹伸朗『UK77』と日比野克彦『えのほん』のような分厚い作品集が出版されているあたりはさすがの底力と言えよう。またやはりというべきか、村上隆は『リトルボーイ』を、奈良美智は『From the Depth of My Drawer』を刊行するなど、この2人は出版という「他流試合」でも常に話題に事欠かない。またいくら若手の台頭を見出しにくいとはいっても、誰でも思いつくようなビッグネームだけでは片手落ちだ、もっと全般的な動向を広く浅く知りたいという読者には、現時点では山口裕美『Cool Japan──疾走する日本現代アート』が最良のガイドとなるだろう。
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大竹伸朗『UK77』 |
日比野克彦『えのほん』 |
村上隆『リトルボーイ』 |
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奈良美智『From the Depth of My Drawer』 |
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尾崎哲夫『入門著作権の教室』 |
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高橋一郎ほか『ブルマーの社会史――女子体育へのまなざし』 |
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作品集を中心にとの意向を踏まえ、とりあえずここではビジュアル主体のセレクションを心がけているのだが、もちろん活字本にも挙げるべき成果は少なくない。例えば、最近海洋堂とフルタ製菓の間で裁判沙汰となったためにちょっとした関心を集めたアートと著作権の関係に関しては、尾崎哲夫『入門 著作権の教室』、岡本薫『著作権の考え方』、福井健策『著作権とは何か――文化と創造のゆくえ』といった新書が格好の水先案内人になってくれる。また高橋一郎ほか『ブルマーの社会史――女子体育へのまなざし』は、女性特有の服飾文化に昨今何かと話題のジェンダー研究の視点から新しい光を当てている好著である。
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「観る」ものとしての書物
思いつくままにいくつか挙げてみただけで、ほとんどキリのないことがわかるリストアップの作業にはなんとも脱力してしまうほかはない。しかしそのエンドレスなプロセスは、私にまったく180度逆の思いつきをもたらした。すなわち、冒頭で述べたように、ブックガイドである本稿は本来「観る」べきものであるアートを「読む」ものとして提示する捩れをはらんでいるわけだが、それは逆に本来「読む」べきものである書物を「観る」ものとして提示することも可能なのではないか、ということだ。このような思いつきのきっかけを与えてくれたのが、東京都写真美術館で7月10日まで開催中の「超(メタ)ヴィジュアル」展であった。同館の開館10周年企画でもあるこの展覧会は、「イリュージョン」「アニメーション」「3Dバーチャル」「サイエンティフィック」「アーカイブ」の5つの切り口によって映像メディアの可能性を探ることを意図したものなのだが、多くのカメラ機材やバーチャル映像に取り囲まれた会場の一角には、アタナシウス・キルヒャー『光と影の大いなる術』の原本が展示され、また出品作家のなかには舞城王太郎や平野啓一郎といった文学畑の人間の名も紛れ込んでいた。とりわけ、小さなイラストの出品にとどまっていた舞城はともかく、平野の場合は自作の小説『女の部屋のコンポジション』の一節をスクリーンに上映し、部分部分のトリミングやカットアップによって、最初と最後の2ページずつを組み合わせるとひとつの文章となる小説中の試行錯誤をそのまま視覚化しようとする実験を試みていた。その実験がどの程度の視覚的効果をもたらしたのかはわからないし、また薄暗い展示室で一定時間スクリーンと向き合い、投影された文字を隅々まで読んだ観客がさしていたとも思えないなど、いささか空回り気味な印象を免れないとはいえ、少なくとも「読む」ことと「観る」ことの関係を反転しようとした企画意図には新たな可能性が感じられた。
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『グリーンバーグ批評選集』 |
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最後に一言。本稿では敢えてアートの批評集や研究書の類は取り上げなかった。すでに述べたように、ここではアートは「観る」ものであって「読む」ものではないという前提に立っている故なのだが、解釈の手法云々についてはまた別の機会にと思うなかでただ1冊、先日待望の翻訳が刊行された『グリーンバーグ批評選集』だけは、例外を設けてでもこの機に紹介しておきたいという欲望に抗うことができない。アートを「観る」ことによって得られるさまざまな経験を言語へと翻訳し、「読む」ものとして提示するに当たって、フォーマリズムという言説は極めて強力に機能する(ちなみに編訳者の藤枝晃雄は、あとがきのなかでグリーンバーグを批判的に継承するアカデミシャたちがいずれもアートの生産に関与し得ないことを例にあげ、「理論のための概念的な素材」としての言説の限界を指摘している。ここにもまた、アートはまず「観る」ものであるとの認識が通底している)。著者の死からすでに10年が経過した今日最良のタイミングを逸した感は否めず、また思いのほか小型で収録論文の数が少ないのは残念だが、それでもこの批評集はフォーマリズムの何たるかを読者に対して開示してくれることだろう。
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