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展覧会という作品
土屋誠一
杉本博司、「観念の形」シリーズ(2004-2005)
杉本博司、「観念の形」シリーズ(2004-2005)
「杉本博司:時間の終わり」展示風景
写真:渡邉修、写真提供:森美術館
※《観念の形》シリーズは、
東京大学総合研究博物館と杉本博司の共同企画に依るものです
 展覧会場に入った直後、そこに「作品」とみなされるものがひとつも無いことに、まずは驚くであろう。観者の眼前に広がるのは、展示室の天井にまで届くほどのモノリス状の白い壁面が、あたかも列柱のように立ち並ぶ様である。とはいえ、規則正しく並ぶ列柱は、それだけで清楚な空間を演出し、洗練されたミニマリズムの彫刻であるかのように見える。モノリスの間をすり抜け振り返ってみると、初めて事態に合点がいく。この白いモノリスは、写真を展示する仮設壁であったのか、と。ここには奇妙な二重性が存在する。それは、展示壁を支持体とした写真のほうを、慣習に従って「作品」として看做しつつ、同時に、その壁面の「裏側」に対しても「作品」鑑賞と同等の経験をするという事態である。このような、展示空間と作品とが、文字通り表裏一体であるという事態は、この作家の本質的な特徴を示すものとして象徴的ですらある。

陰影の空間/モノトーンの意味
 森美術館で開催中の「杉本博司──時間の終わり」展は、作家の30年ほどの試みを概観できる展覧会として充実したものとなっている。作家本人によってディレクションされた、通覧的な回顧展の形式をとらないこの個展は、展覧会そのものが、作家自身の現在の関心に従って改めて組織された「作品」であると理解すべきである。全体を通観してみるならば、白と黒、そして直線に還元された空間の印象が強く残る。このことは、作品のほとんどがモノクロームであることもそうであるが、先の展覧会の導入部における眩しいばかりの「白」や、代表作である「海景(Seascape)」が展示される空間の圧倒的な「黒」といった、対比の強調に由来する。杉本自身、しばしば谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に言及しているように、「白」と「黒」は、光とそれに伴う影という二項を形成する原理に重ねあわすことができるであろう。作品に内在する陰影の様相は、その作品が置かれる空間にまで延長されている。
杉本博司、C1015
「影の色」より
杉本博司、C1015、2004
ピグメント・プリント、135 x 106 cm
 ここで、最近作のひとつである、「影の色(Colors of Shadow)」がカラーで撮影されていながらも、ほとんど実質的な色彩を欠いていることが示しているように、基本的に色彩は、作品内部において重要視されていないことに注意を向けておくべきであろう。それは、杉本の作品に対してしばしば語られるところの、ミニマリズム的な還元主義のあらわれであると考えることもできるであろうし、近年の作品に顕著であるところの、禅を連想させるような東洋思想に関連させて語ることも可能であるかもしれない。しかしここでは、別の観点からこのモノトーンの意味を考えてみたい。
 「影の色」は、この作品の制作のために、作家自身によって設えられた室内空間によるものであるが、漆喰の壁とその陰影がつくり出す白とハーフグレーの調子は、まさにこの作品を見ている展示空間そのものを想起させはしないだろうか? 一般に展示空間の形容詞として語られる「ホワイトキューブ」という概念は、空間の形態をリテラルに説明するものではなく、あくまで理念的な様相を示すものであるが、その特性を記述するためには、白く抽象化された壁と、三次元的に閉ざされた空間を成立させるための面の交差地点、すなわち、空間を分節するフレームを抽出すればよい。展覧会の冒頭に見られたような、展示空間と作品との一致は、ここでは撮影されたイメージの中に展示空間が流入することで成されている。この「影の色」においては、作品が表象するイメージの内部にもまた、展示空間と作品との近接関係が存在していることを指摘できるであろう。

フレームの拡張
杉本博司《アル・リンリン、バラブー》
「劇場」より
杉本博司《アル・リンリン、バラブー》1995
ゼラチン・シルバー・プリント、42.3 x 54.2 cm
 ところで、杉本がその作品において関わっているのは、専らフレームについてである。このことは、イメージの内部に明確なフレームが現われている「劇場(Theaters)」のような作品に限ることではない。最初期からの「ジオラマ(Dioramas)」や蝋人形を撮影したシリーズなどにおいてしばしば語られる、あたかも血が通っているかのようなリアリティもまた、このフレームの堅牢さに由来するであろう。あるいは、別の最近作である「観念の形(Conceptual Form)」が幾何学の普遍性をその背後に示すのは、撮影された対象物がそのような属性を表象しているからではなく、絶妙にフレーミングされ、ライティングが施されているがゆえに、かかる普遍性が事後的に了解されるのではなかろうか。
 写真はつねづね、その機械的な「眼」という、メディアに特殊な規定性ゆえに、偶発的な出来事の「痕跡」をその主たる美学的規範としてきたが、杉本の作品にはそのような偶発性は存在せず、作家自身によって隅々まで統御されたイメージが結晶化しているように見える。では杉本の作品は、写真を用いた「絵画」的な表象へと遡行しているのであろうか? しかし、杉本があくまで写真というメディアを使用していることを忘れてはならない。仮に杉本の作品が「絵画」的な達成に至っていたとしても、──ジオラマや蝋人形がまさにそうであるように──あくまでシミュラクルとしてのイメージであるということは確認しておくべきであろう。それは、杉本の作品のほとんどが、フレームの複数性を前提とする「シリーズ」として提示されることと無関係ではない。フレームを複数化することで発生するそれぞれの示差において、シミュラクルとしてのイメージに事後的に「内容」が付与されるような仕組みになっているのである。
杉本博司、「海景」シリーズ(1980-2002)
杉本博司、「海景」シリーズ(1980-2002)
《能舞台》 2005
「杉本博司:時間の終わり」展示風景
写真:渡邉修、写真提供:森美術館
 しかし、そこで語られる「内容」は、例えば一本の映画を長時間露光で撮影することで、持続的な経験の充溢を白い光の中に圧縮したり(「劇場」シリーズ)、無限遠の倍に焦点距離を設定することで得られるピンボケの建築写真に残存した形態を、優れた建築であると看做す根拠としたり(「建築」シリーズ)するような、コンセプチュアルな手続きに基づいた「内容」であり、かつ事後的な言説によって神話化された「内容」でしかない。展示空間に白木の能舞台を設置することもまた、このような「内容」を補強するために要請されたコンテクストであると理解すべきであろう。だが、近代芸術の還元主義のプログラムを経た後に、豊かな「内容」を持つ芸術という素朴な認定があり得ない現代において、かつ芸術の特質を維持することを望むとするならば、どのような選択肢が導かれ得るであろうか? この問題に対して、フレームそれ自体の工芸的とも言うべき洗練──そこにはプリントの高いクオリティも含まれるであろう──という普遍的な評価基準に作品を導き、さらにはこのことを「作品」が表象されるフレーム=場である展示空間にまで拡張することで解決するというのが、杉本の目論見であると言えないであろうか。
 シミュラクルでしかありえないイメージの貧しさを、工芸的な質を洗練させることで帳消しにするという選択は、それをまだ「芸術」と呼ぶ限りにおいてはあまりにもシニカルな態度であると看做されるかもしれない。しかし、結果的にはそのような選択が、展覧会というフレームの美的な質を保証することに寄与するのであれば、そのことを簡単に批判し去ることは困難である。さらに先に述べたように、個々の作品のフレームが、「展覧会」という表象形式のフレームと一致するならば、それは美術において特殊な現われである「展覧会」の、究極的な洗練であるとも言い得るのではなかろうか? ただし、この極まった洗練が、「展覧会」の終着点をも同時に意味するのであるとしても、ではあるが。

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