私は今までに、青森県立美術館を計4度、それも各々まったく違った局面で訪れている。最初に足を運んだのは2004年の3月のこと、当時はまだ基礎工事の真っ最中で、深い雪を掻き分けて現場の地面を掘り起こし、杭を打ち鉄骨を組んでいる様子が壮観だった。2度目は2005年に実施された内覧会のとき、まだ作品が設置されていない空っぽな展示室の空気は凛として冷たかった。3度目は2006年の6月、開館間近な時期だけに、とにかく多くのスタッフが気忙しく館内を駆け巡っていたのが印象的だった。そして4度目はその翌月末、実は作品が設置された状態の館内を見たのはこのときが初めてで、多くの観客が詰め掛けた館内は、本誌でもレポートする機会のあった「A to Z」展の興奮との相乗効果を感じさせる熱気に満ちていた。東京在住の私が、遠く離れた地方都市の美術館と開館前からこれだけ密に付き合っている例は無論ほかにはなく、これもなにかの縁なのだろうという気がしなくもない。
ちなみに、今回寄せられた依頼は館の施設にフォーカスして欲しいというものであり、そのためか主に思い出されるのは、竣工した美術館を初めて訪れたときのことである。確かあの日は、曇天でなんとも肌寒かった。青森駅から三内丸山遺跡方面の路線バスに乗ること約20分、車窓の風景はいつしか市街地からくすんだ緑地帯へと変わり、また車内ではこの一帯が日本でも最大規模の縄文遺跡であることを告げるアナウンスが流れている。遺跡の関連施設前のロータリーでバスを下車し、その施設の中を通ってさらに奥へと歩みを進めると、確かに美術館は遺跡に隣接して建っていた。恐らくは、何も出土しない敷地をギリギリまで見極めたのであろう。辺り一面が枯れた芝生に取り巻かれているなか、その「遺跡のなかの美術館」の白亜の外壁と青い蛍光色のネオンサインはなんとも鮮やかだった。
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パッチワークのような味
「遺跡のなかの美術館」というといかにも耳障りのいいキャッチフレーズに聞こえるが、実はこれはこの美術館の建設に当たって最も重視されたコンセプトでもある。1999年に実施された美術館のコンペは、異例の完全公募制だったこともあり393件もの応募が殺到したのだが、その中で青木淳のプランが最優秀に選出されたのは、他のどのプランと比べても、遺跡と隣接したこの立地でなくては成立しない「サイト・スペシフィック」な性格を強く備えていたからだった。地面には遺跡を発掘するかのような深いトレンチ(壕)が迷路状に刻み込まれ、その上には白く塗装したキュービックな躯体が被せられる。周囲の景観に配慮してか、天井の高さは低く抑えられ、またトレンチと躯体の凸凹が噛み合わさった館内では、いかにも美術館建築らしい無機質な壁と、やはり遺跡を髣髴とさせる土を塗り固めた三和土(たたき)の壁とが、白と焦げ茶色のツートンカラーからなる室内空間を演出する。私は建物が竣工するかなり以前から、多くの雑誌やウェブサイトなどを通じてこの青木のプランに何度も接してきたし、また総合芸術パーク構想の頓挫、建設推進派だった知事の落選、突然のスタッフ異動等々の外的要因によって多くの紆余曲折を余儀なくされながらも、美術館の建設そのものはほぼ当初の原案通りに進められていたとも仄聞していた。それゆえ、初めて竣工した館内へと足を踏み入れたときには、どこか既知の空間を追体験するかのような気持ちに誘われたのである。
しかしやはり、百聞は一見にしかずである。確かに、大小7つものエントランスが設けられている多方向性、入り組んでいる割には人の流れがスムーズなサーキュレーション、シアターや映像室の充実した設備、中庭に設置されている奈良美智のコミッションワーク「あおもりけん」のスケール感などはほぼ予想通りであった。しかし半面、私はこの美術館に、いくつか事前の予想を裏切る部分があることにも気づいたのである。例えば、一部の外壁やコミュニティーホールに用いられている窓枠はアーチを象っており、またトレンチの上に被せられる躯体には白く塗装された煉瓦が用いられている。シャープでミニマルな仕上がりを予想していた私は、その擬古典的な装飾性や量塊感に思わず意表をつかれてしまった。同様のことが、菊地敦己の手がけたVI(ヴィジュアル・アイデンティティ)に対しても当てはまる。ロゴタイプやサインに用いられている書体は水平、垂直に加え45度の直線も交えたものであり、単純ながらもどこかアナログな味わいがあるそのフォントは、無機質な白壁が醸しだすデジタルな情報環境とはどこか異質であるように感じられた。これらの工夫は、いずれ「年を経て、やがてパッチワークのような味が滲み出てくることを期待している」青木の意向を反映したものなのだろうか。 |
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瞬時性の連続と非連続
だが何にもまして、以前からの先入観を激しく揺さぶられたのは青木のホワイトキューブに対するアプローチであった。周知のように青木は磯崎アトリエ出身の建築家であり、独立する以前には水戸芸術館などのプロジェクトに深くコミットしていた。とすれば、ホワイトキューブの均質性とは一線を画し、コンピュータ・ネットワークの積極的な導入などによって作品の唯一性、場所の特異性を回復しようとする「第3世代の美術館」の思想に強く影響を受けていて当然だし、また縄文遺跡に隣接する立地を最大限に利したこの「サイト・スペシフィック」な美術館は、そうしたホワイトキューブ批判の条件をこれ以上はなく満たしているはずである。ところが、実際に館内を歩き回ってみると、A〜Qの展示室はいずれもホワイトキューブを基調として三和土のほか照明や空間比率などにさまざまな工夫を凝らした空間となっており、青木がこの美術館によって必ずしも単純なホワイトキューブ批判を志向しているわけではないことがすぐにわかる。というよりも、白壁と三和土の壁のコントラストに代表されるこの美術館の空間的ダイアローグは、ホワイトキューブとそれ以外の空間をいかに生産的に関係づけるのかに向けられているといってもいいだろう。
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『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS |2| AOMORI MUSEUM OF ART』
(INAX出版、2006) |
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このダイアローグに人一倍敏感だったのが、美術批評家の椹木野衣である。美術館の開館とほとんど同時期に出版された『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS |2|』(青木本人らのステートメントを含むこの写真集は、雪に埋もれた美術館を被写体とした鈴木理策の見事な写真と館のコンセプトをそのまま投影したかのようなシャープな造本によって、それ自体が独立した作品としての価値を有している)に「厳密な暫定」と題する文章を寄稿した椹木は、その後半でマイケル・フリードの論文「芸術と客体性」へと言及してその論旨を要約しつつ、その議論を館内を歩き回った自らの経験へと結び付けて、内部/外部、空間/通路、構造/装飾、公/私といった美術館における地と図の関係を導き出している。
フリードの論文はドナルド・ジャッドやロバート・モリスとアンソニー・カロの作品を「演劇的」であるか否かを判断基準として峻別したものであり、本来その議論はフォーマリズム批評の文脈でしか有効でありえないものだ。椹木がそれを一見場違いなここでの議論のために参照したのは、彼がこの美術館の空間的経験に見出した「瞬時性の連続と非連続」に、フリードがカロの彫刻の本質と指摘する「永遠の連続する現在」と通じるものが潜んでいたからである。徹底的に知覚を切り詰め、客体へと還元されてしまったがゆえに無時間的な瞬時性を失い、「演劇的」に立ち現われざるを得ないジャッドやモリスのミニマル彫刻と、複数のコンテクストが同時に混在しているがゆえに「永遠の連続する現在」を体現しているカロのモダニズム彫刻。そうした解釈の是非はともかくとして、少なくともこの両者の対比は、ホワイトキューブの一元的な空間と、それをも伏線のひとつとして取り込んだ美術館の多元的な空間のそれに類比していることは確かではあるまいか。フリードの議論を引き合いに出して美術館の空間を語ろうとした椹木の慧眼は、「最小限までの切り詰めを、最大限までの過剰に逆転しようとした」青木の意図をなんとも的確に見抜いていたと言えるだろう。 |
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『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS |2| 』より 撮影:鈴木理策 |
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もはや紙幅の余裕もないが、最後に少しばかり展示作品の印象も記しておこう。こけら落としを飾った「シャガール──『アレコ』とアメリカ亡命時代」展は、やはり巨大なアトリウムのごとき専用ホールに展示されていたアレコの4点そろい踏みが圧巻であった。バレエの背景画である「アレコ」はもともと美術館での展示が想定されていないタイプの作品である。巨大な壁面と一定の「引き」が必要なこの作品を4点同時に鑑賞できる理想的な空間を備えている美術館は、世界広しと言えどもここ以外には存在しないだろう。一方常設コーナーでは県に縁のある作家をさまざまな切り口で紹介した「青森コンプレックス」が開催されており、成田亨の「怪獣デザインの美学」や奈良美智の「ニュー・ソウルハウス」が強い印象を残したほか、個人専門館が別にある棟方志功や寺山修司関連の展示も充実していた。今月上旬には開館第二段の「縄文と現代」展もスタートしたところであり、今後も「遺跡のなかの美術館」ならではの意欲的な活動を期待したいところである。
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[ くれさわたけみ・美術批評] |