K.K.は言った。
お金がないから、映像を制作したんだと。
当初、彼はメディア・アート的な立体作品を手がけていたが、そうした活動を継続するためには、資金も場所も必要となる。だからこそ、家に引きこもりながら、ビデオとインターネットを使い、ジャンクな映像を流用し、奇跡的な作品『ワラッテイイトモ、』を誕生させた。30年前なら、ビデオによるアートは先端的だったかもしれない。しかし、今やどこでも入手できる安価な素材である。
美術批評家の松井みどりの企画した「夏への扉──マイクロポップの時代」展(水戸芸術館、2007)に対する興味のひとつは、筆者もキリンアートアワード2003を通じて、その登場に関わったK.K.がどのような文脈で位置づけられているかだった★1。作品は総じて小さい。それらを並べた展示室も、まるで作家のプライベートルームをのぞいているかのようだ。小物、スケッチ、新聞の切り抜き、紙切れ。かつてクルト・シュヴィッタースが身のまわりの日常的な素材を利用して制作した小さなコラージュのように、それらは生活の痕跡にあふれている。松井は、ドローイングやビデオをマイクロポップ・アートの主要な方法であるという。自由な連想や即興的な行為に適しているからだ。それはK.K.のように、マイナーな立場の制作者の武器でもある。
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水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景
「夏への扉──マイクロポップの時代」2007
右:田中功起 Courtesy: Tanaka Koki and Aoyama | Meguro
左:泉太郎 Courtesy: hiromi yoshii
提供=水戸芸術館 |
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日常の断片を統合した「小文字のpop」
1990年代以降の欧米における具象的な絵画の復権は、国立国際美術館の「エッセンシャル・ペインティング」展(2006)で紹介されていたが、日本の若手作家に焦点をあてた「マイクロポップ」展もその一端を担うのだろう。松井の定義するマイクロポップとは、大文字のイデオロギー闘争から逃れ、とるにたらない日常のさまざまな断片を統合し、独自の生き方をつくりだす姿勢のこと。おそらくマリリン・モンローのようなアイコンに頼らない、小文字のpopである。「大人」の思考から逸脱し、子供や未成年の想像力を生かすこと。世界なきセカイ系。男性作家であっても、徹底的にフェミニンな感性。いや、中性的というべきか。オリエンタリズムを逆手にとって、日本的な洗練を売りにするスーパーフラットとは違う、ポストモダンの最終局面である。
展覧会では、島袋道浩の震災直後のささやかな希望、世界各地の新聞に私的なスケッチを描く有馬かおる、泉太郎のいたずら書きのような映像、國方真秀未のオタク的想像力、田中功起のクライマックスなき出来事など、松井好みの小さな世界が、これでもかとくり出される。大文字の美術館建築=磯崎新の水戸芸術館でも小文字の作品を置けるんだと、勇気づけられる表現者も多いはずだ。しかし、一方でマイクロポップのようなものをつくれば評価されると、勘違いする表現者もいっぱい出るだろう。ときにはアウトサイダーアートのような成熟の拒否を評価するしないにかかわらず、彼女の意志が明快に示された展覧会である。仮にドゥルーズやセルトーらの現代思想の理論的な援用を一切排除したとしても、マイクロポップの方向性が十分に感じられる強いセレクションだ。
ある雑誌の定期的な座談会を通じて、筆者が松井に抱いた印象は、永遠の病弱文系眼鏡少女キャラである。そして彼女の博識と批評の精度と繊細な感性に驚かされた。エネルギッシュに飛びまわり、人々を巻き込む、体育会系ではない。むしろ、世界の片隅でふるえている。一見、弱々しい。だが、その透徹したまなざしは世界の価値を再生するような解像度と波及力をもつ。彼女自身がマイクロポップの作家のひとりではないかと思う。 |
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島袋道浩《南半球のクリスマス》1994
Courtesy:Shimabuku+Shugoarts, Tokyo+Air de Paris, Paris
有馬かおる《無題》2002
提供=水戸芸術館 |
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国境を越えて共振する第三世代
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『マイクロポップの時代』
(PARCO出版、2007) |
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ところで、マイクロポップとは、日本的な現象なのか、世界的な傾向なのか。松井の著作『マイクロポップの時代』(PARCO出版、2007)では、「90年代という、日本の社会が長い不況や社会不安にあえいだ時代に成人し芸術家活動を始めた、60年代後半から70年代にかけて生まれたアーティストたちに強く見られる特徴」だと説明している。なるほど、未成年的なものの重視は、日本的かもしれない。しかし、マイクロポップの作家は、上の世代よりも日本的な特殊性を強調せず、それが「国境を越えて有効な、難しい時代を生き抜くための方法」を示しており、海外の状況にも広がっていくという。実際、同書では、レイモンド・ペティボン、トム・フリードマン、ジェラティンらの名前を挙げていた。日本発を強調するスーパーフラットとは異なるスタンスといえよう。
VITAMIN Pに続き、1995年以降のアートにおけるドローイングの重要性を指摘するVITAMIN D : NEW PERSPECTIVES IN DRAWING(PHAIDON, 2005)でも、ペティボン、ジョン・カリン、マルレーヌ・デュマス、エリザベス・ペイトンとともに、青木陵子、有馬かおる、奈良美智が紹介されていた。松井は同書の作家の選定に関与しつつ、解説を書いている。根源的に自由な表現としてのドローイングが世界的に注目されているのだ。
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左:VITAMIN D : NEW PERSPECTIVES IN DRAWING
(PHAIDON, 2005)
右:『アート──“芸術”が終わった後の“アート”』
(朝日出版社、2002) |
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アメリカの現代美術を概観した松井の著作『アート──“芸術”が終わった後の“アート”』(朝日出版社、2002)では、日常性の発見、具象絵画の台頭、未成年的な感性、マイナーな立場など、マイクロポップ宣言と響きあうコンセプトがすでに抽出されている。二つの本では、現代美術の動向を三世代に分類するが、日本とアメリカの第一世代、第二世代の方向性はズレをもつ。だが、第三世代は国境を越えて共振している。また同書で言及された数少ない日本人の奈良美智、杉戸洋、落合多武は、「夏への扉」展にも選ばれた。マイクロポップとは、日本的な伝統に回収されるものではなく、未来のわからない世界において名もなき個人がサバイバルしていく状況を共有するという同時代性の産物なのだ。
松井の問題提起は、筆者の専門である建築の立場からも興味深い。ユニット派の議論を想起させるからだ。飯島洋一は、1995年以降、阪神大震災に衝撃を受けたポストバブルの若手建築家が、大きな理念をもたず、日常のささないなことから創作する立場を批判した★2。これに対し、筆者は、リアルな日常の豊かな細部を発見する彼らの態度を擁護したが、マイクロポップの議論との接続も可能だろう★3。実際、B級建築のフィールドワークを行ない、マイクロ・パブリック・スペースの試みを紹介するアトリエ・ワンの「いきいきとした空間の実践」展(ギャラリー間、2007)のオープニングにおいて、伊東豊雄は彼らのアマチュア的な態度を指摘していた。ジャンルの違いを越えて、同時代性が感じられる。なぜ筆者が新世代の建築家と同時に、K.K.の作品にひかれたのかも納得がいく。
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★1──拙論「白昼の怪物」(『10+1』No.32、INAX出版、2003)、「なぜ『ワラッテイイトモ、』のアラン・スミシー・ヴァージョンは、かくも猥褻で、美しく、そして笑えるのか」(『InterCommunication』No.47、NTT出版、2003)、「『ワラッテイイトモ、』が受容される場について」(『群像』、講談社、2004年4月号)などを参照。
★2──飯島洋一「〈崩壊〉の後で──ユニット派批判」(『住宅特集』、新建築社、2000年8月号)
★3──拙論「ユニット派あるいは非作家性の若手建築家をめぐって」(『終わりの建築/始まりの建築』、INAX出版、2001)、「『状況』と『適用』」(『空間から状況へ』、TOTO出版、2001)、「平坦な戦場に生きる遅れてきたものたち」(『現代建築のパースペクティブ』、光文社、2005)などを参照。 |
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[ いがらしたろう・建築批評 ] |