「今見たいアーティスト」を謳った「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展が森美術館で開催中だ。同美術館のキュレイター荒木夏実のほか、ゲスト・キュレイターの天野一夫、佐藤直樹、椹木野衣の4人が、国内から選んだ36組のアーティストやクリエイターによる作品を一堂に会している。「クロッシング=交差」というタイトルにあるように、絵画と彫刻、写真と映像、アートとデザイン、若手作家とベテラン作家、光と闇といった複数の対立項を交差させることによって、日本のアートの豊かな可能性を探り出すところにねらいがあるようだ。
「安心」の展覧会
異なるジャンルの融合というと、えてして「ごった煮」のようなカオティックな展示構成を連想しがちだが、本展の展示空間はじつに整然としており、一つひとつの作品を丁寧に鑑賞することができるように配慮されている。展覧会は吉野辰海の巨大な犬の彫像ではじまるが、彫像にたいする空間のヴォリュームが十分に確保されているため、壁面に展示されている立石大河亜のマンガ的な平面作品と内原恭彦のスティッチングによる写真はゆとりをもって見せられている。また、できやよいの色彩豊かな平面作品の直後に榎忠のブラック・キューブが続き、冨谷悦子の極小版画を真紅の壁面で見せたかと思えば、その傍らに原真一の大理石彫刻で乳白色を対置させるというように、展示空間ごとに色彩のアクセントをつけることによって、鑑賞行為をドラマチックに誘導しようとしているようだ。キャラの濃い4人のキュレイターチームで展示空間を作り込んだとは思えないほど、その空間構成は精緻である。
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「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展示風景
左=立石大河亜の平面作品
中央=吉野辰海の彫像
右=内原恭彦の写真
奥=できやよいの平面作品 |
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しかし、さまざまな表現を包括しながらも、全体としては有機的に統一されている展示のありようは、美術館という着地点を考慮すればごくごくまっとうな形態なのかもしれないが、一方で美術館という出発点からはなにも飛躍していないという点では、物足りなさを覚えたのも事実だ。多くの場合、グループ展といえば、アーティスト同士の自我が衝突しあって、限られた空間のぶんどりあいになりがちだが、本展では空間全体の容量にたいして作家の総数があらかじめ抑制されていたせいか、そうした衝突の痕跡はほとんど見受けられず、どの作品も安心して鑑賞できるようになっていた。逆にいえば、こちらを不安にさせるような、危険で妖しい魅力に満ちた作品はきわめて少なかったということだ。この「安心」という感覚にこそ、この展覧会の特徴が集約されているように思われる。
たとえば、本展で圧倒的な存在感を放っていたのは、榎忠や吉村芳生といったベテラン作家たちだったが、それは本展の全体が「安心」感で満ち溢れていたがゆえに、彼らの不穏な空気感がより一層際立っていたのだろう。あるいは、それとは対照的に、年齢が若い、新進気鋭のアーティストたちの影が全体的に薄かったのは、彼らの作品がそうした「安心」感に容易に回収されてしまっていることに由来しているのかもしれない。近年目覚しい活躍を見せている名和晃平と鬼頭健吾は二人だけでひとつのホワイトキューブを使ってそれぞれの作品を発表していたが、それはまるでキュレイターたちの手の上で擬似的な「対決」を演じているようで、興醒めさせられた。ペアレンツカルチャー(両親の文化)から理解を得られないところにユースカルチャー(若者の文化)の醍醐味があるとすれば、親世代からも安心して見られてしまう若者の作品ほど退屈なものはない(むろん、そうした「安心」感が狭い「美術」の門戸を大衆に向けて解き放つための鍵となっていることは疑いないが、それは展覧会を企画する側の論理であって、作品を見る側にとって退屈な作品が退屈であることには変わりがない)。
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「不安な」アーティスト
そうしたなか、安易な安心や理解を徹底して拒否する矜持を見せていたのは、飴屋法水ただひとりである。幼い頃テレビ画面を通して目撃したという「浅間山荘事件」をモチーフとした作品は、周囲の「安心」できる展示風景からは完全に浮いている。山荘を破壊するために用いられていた大きな鉄球を空中に吊るし、床に敷き詰めた古い四畳半の上に埴輪のような粗雑な木彫りが3体、手前にもマッチ棒のような木彫りがひとつ、ゴロンと置かれている。ただそれだけだ。優れた技巧が見せられているわけでもなく、時間の蓄積を感じさせる執念があるわけでもなく、あまつさえ「美術」という共通の前提さえ踏襲されていない気すらする。「美術」の熟練者であろうと初心者であろうと、飴屋の作品を前にしては、誰もが不安な気持ちに陥らざるを得ない。廃屋からそのまま持ち出してきたかのような汚い畳は、ピカピカに輝く森美術館にはまったくそぐわないし、ひとたび軽く地震でも起きれば、超高層ビルに構える空中美術館のことだから、吊るした鉄球が縦横無尽に暴れまわり、他の作品もろとも展示空間をめちゃくちゃに打ち砕いてしまうのではないか、と心配させられるのである。美術館という出発点と着地点から大きく飛躍する想像力を感じさせた唯一のアーティストとして、飴屋法水は大いに評価されるべきだ。 |
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「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展示風景
左=岩崎貴宏《Reflection Model》ほか展示風景
右=東恩納裕一《untitled》ほか展示風景、courtesy: Yumiko Chiba Associates
以上すべて、撮影:木奥恵三、写真提供:森美術館 |
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クロッシングとは、複数の多様な線が交じり合うことだから、それが一方に偏向しては元も子もない。本展で見せられていたクロッシングは、表面的にはたしかに古今東西さまざまなアーティストやクリエイターの交差だったが、しかしその根底では「安心」できる性質の作家に大きく傾いた、じつに歪なクロッシングだった。しかも女性がわずか3人しか参加していないことも考え合わせれば、そのクロッシングの不均衡は明らかだ。展覧会を企画する側の論理は別として、それを受けとる側の論理からいえば、重要なのはクロッシングの厚みに尽きるのであって、それには「不安」なアーティストや女性の作家を今以上に含ませることによって複雑な交差線を描き出すことが不可欠だったように思われる。クロッシングを標榜する以上、なによりも考えなければならなかったのは、ほんとうの意味での「多様性」ではなかっただろうか。 |
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[ふくずみれん・現代美術/文化研究] |