のっけから読む気をそぐようでアレですが、この原稿を依頼されたとき一瞬ためらってしまった。理由はふたつある。
ひとつは、今朝(9月16日)原稿依頼があって、今日中に書けという信じられないスケジュールだからだ。まだ夏休みの宿題(8月いっぱい締切の仕事)だって2本も残っているというのに、いきなり横から割り込んできて「すぐ書け」はないでしょ。こんなムチャな依頼をしてくるのも、私がつい断わりきれずホイホイ引き受けてしまう性格であることを編集者が熟知しているからだ。
もうひとつ、展覧会は見たには見たが、9月12日の内覧会の日に駆け足でまわっただけなので、原稿依頼があればもういちどじっくり見て書こうと思っていたのに、それができないからだ。その日、主要3会場を2時間半ほどかけて52作家の作品を見て歩いたので、所要時間は1点につき3分弱。映像はほとんど素通りしたし、今回の目玉であるパフォーマンスはまったく見ておらず、三渓園もまだ訪れてない。それでなにを語れるというのだ。
とりあえず見た作品だって、自慢じゃないが一つひとつ理解したとはいえず、ましてや「深淵を直視」★1したり「『タイムクレヴァス』へと下降」★2することなどとうていかなわなかった。結局「批判的な時間意識を覚醒させるような作品」★3は、ほかならぬ時間のない観客によって無批判的に脱力化されるのである。とエラソーにいうことではないが。
artscapeではこのあと、まともな書き手による続報を準備しているというから、個々の作品についてはそちらに任せることにして、ここはひとまず先発隊の村田二等兵が撃沈覚悟でパッと見の印象をレポートしたい。
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「タイムクレヴァス」へと下降したか?
今回の総合ディレクター水沢勉さんが掲げたテーマは「タイムクレヴァス」というもの。かいつまんでいえば、時間というものは単線的でもなければ硬直したものでもなく、複数の系として流れ、ときにねじれ、ぶつかりあって亀裂(クレヴァス)を生じ、深淵をかいま見せる。その深淵を直視し、見るものを「タイムクレヴァス」へ下降させていくのがアートの力ではないか……そんな意味らしい。
第1回のテーマなきテーマ、というよりキャッチフレーズにすぎない「メガ・ウェイヴ──新たな総合に向けて」や、第2回の、わずか9カ月間という短い準備期間のなかでつくりあげたプロセスそのものをテーマにしたような「アートサーカス」に比べれば、3回目にしてようやくテーマらしきテーマに落ちついたという感じ。だが、ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの詩に由来する「タイムクレヴァス」が、いまの日本でどれほど訴求力をもつのか一抹の不安も残る。時流におもねる必要はまったくないが、あまりに唐突すぎてピンとこないのではないかしら。
逆にそれだけに、チャラチャラと生ぬるい展覧会の多い日本では、いや世界中の国際展にあっても、作品とじっくり対話できる重厚で静謐な展覧会になるかもしれないとの期待も抱かないわけではなかった。ただしその場合、観客動員はあまり期待できないが。
はたして結果は? ジャーン! どっちつかずだったように思う。たしかに最近の国際展にしばしば見られるような目立ちたがりの作品や、奇をてらった表現、お笑いに走る傾向は影をひそめているものの、だからといって「タイムクレヴァス」の深奥へと私たちを誘うような作品がどれほどあったかといえば、いささか心もとない。もちろん2時間少々の鑑賞時間でそのような体験を期待するほうがムチャというものだが、しかしそれをいうなら、何十人ものアーティストの作品が大きな会場にひしめき、何千人もの観客が絶えまなく訪れる国際展において、見るものをして「深淵を直視」し「『タイムクレヴァス』へと下降」せしめること自体、そもそも無謀な試みということにならないか。
ならば失敗かというと、そうでもない。パフォーマンスそのものは見なかったけれど、歴史的パフォーマンスの映像やその痕跡としてのインスタレーションは見られたし、音の出る作品もあっちこっちで目に(耳に?)した(新港ピアではスロッビング・グリッスルの音が聞ける!)。つまりテーマとは別に、はからずも楽しめる作品が多々あったということだ。
よくも悪くもこのような結果になったのは、5人の強力なキュレーター(ダニエル・バーンバウム、フー・ファン、三宅暁子、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト、ベアトリクス・ルフ)の存在が大きいように思う。そもそも水沢さんの構想に入っていなかったパフォーマンスが導入されたのも、彼らと議論を重ねた結果だという。
思うに、水沢さんは「タイムクレヴァス」の「クレヴァス(亀裂=傷)」に重点をおいていたのに対し、キュレーターたちは「タイム」のほうにより強く反応したのかもしれない。だから時間芸術ともいうべきパフォーマンスや映像、音の表現が増え、にぎやかとはいえないまでも展覧会に動きをもたらし、結果的に水沢さんのめざしていた重厚で静謐な方向性から少しズレていったのではないか。
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「見終わったら絶対的孤独」を感じさせてほしかった
水沢さんは、前回の総合ディレクター川俣正とは違って、ボランティアやサポーターといった市民とのかかわりにはあまり関心を示さず、街なかに出て行く動きもほとんど見せなかった。学芸員らしく、あくまでホワイトキューブ内での展覧会づくりにこだわった。
しかし主催者のひとりである横浜市としては、展覧会自体の成功とともに市民との協働や街の活性化も実現させたいところ。だがそれも「タイムクレヴァス」という深刻そうなテーマでは難しいし、水沢さんもそれどころではない。この時点で両者のあいだには深くて暗い「クレヴァス」が生じていたようだ。そこで横浜市は、トリエンナーレの周辺に「黄金町バザール」「BankART Life II」「フライング・ダッチマン・プロジェクト」といった関連イヴェントを同時多発させることで、市民とのつながりや街のにぎわいを保とうとした。つまりハードコアのトリエンナーレ(グローバル志向)と、それをゆるく囲む関連イヴェント(ローカル志向)の二重構造にしたのだ。
これによって総合ディレクターは「雑音」に悩まされず、トリエンナーレに集中できるようになった。だからこそ水沢さんには当初考えていたような、すなわち「見終わったら絶対的孤独」★4を感じるような、「人生の辛さ、思い出したくないことを思い出す」★5ような、重厚で静謐な展覧会に徹してほしかった、と思うのは私だけかもしれない。
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★1──水沢勉「タイムクレヴァスへ」(『YOKOHAMA TRIENNALE 2008 TIME CREVASSE』所収)
★2──同上
★3──同上
★4──「総合ディレクター水沢勉さんに聞く」(『美術手帖』2007年12月号、所収)
★5──同上
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●横浜トリエンナーレ2008
会期:2008年9月13日(土)〜 11月30日(日)
会場:新港ピア、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)、赤レンガ倉庫1号館ほか
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[むらたまこと・美術ジャーナリスト] |