諏訪直樹の没後11周年の回顧展/鷲見麿《under the rose》
拝戸雅彦[愛知県美術館] |
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多くの公立の美術館の予算が目に見える形で削られはじめて、かれこれ5年ぐらいになるだろうか。私の勤務する愛知県美術館もまた、その例に漏れないのだが、現在「時の旅人たち−1980年以降の美術」が開催されている。コンセプトを考えたのは私だが、年間の企画展予算が削られた中での、企画展のふりをした所蔵品展である。企画展を行なうにはある程度のまとまったお金がいるので、企画展の予算が数字的に10パーセント削られてしまうと、一つひとつの企画展の規模を縮小するという方向よりは、クオリティを下げないために、動かしやすい展覧会を先延ばしするということになる(諏訪の展覧会が没後11周年というのはそんな状況を推測させてしまうのは、うがった見方だろうか)。そこで、あわてふためいて、会期の穴埋めをしなければならない。それが全館所蔵品展の姿で登場する。しかし、「所蔵品展」と展覧会タイトルをつければ、企画展にしか関心をよせないほとんどの人は美術館には来ない。忙しい時間を割いて見るメリットがないからだ。そこで行なった奇策が、内容とは直接関係がないが耳に心地よいタイトル付けと、インパクトのあるポスター作りである。所蔵品なので、撮影室に運んで、ポスター用に、作品の細部を考えることなく、写真の心得のある学芸員が撮影した。 予算がなくなると、少ない予算を確保して削られないようにするために、書類資料の作成する時間が増える。学芸員は研究職というよりは、予算資料作成班と化している。そして、展覧会や美術の広報普及のための講演会やギャラリートークが増えているのは、どこの美術館にも見られる現象である。美術館は大衆化して、入場料収入と売品の売り上げをある程度、稼がなければ生き残っていけないという状況に追い込まれていて、落ち着いた研究活動は困難である。展覧会は自ずと、大衆的でメディア受けする展覧会がメインとなり、志のある美術館では、その稼ぎの上がりで、かろうじて現代美術の展覧会が行なわれているわけだが、(奈良美智展や村上隆展は、矛盾するものが両立した希有な例であろう)作品や作品に関する資料を収集し整理し、展示するという恒常的な美術館活動の姿は見えにくくなっている。そして、2002年の夏には私の美術館で、「韓国の色と光」という現代美術展が開催されそうである。内容的には韓国独自の現代美術の成立が見えてくる、タイムリーな企画である。言うまでもなく、ワールドカップという国際的かつ大衆的なイベントの余波の中で実現する展覧会である。ただ、これは悪いことではない。警戒しなければならないのは、非大衆的なものの価値が大衆的なものの影で忘れられていくということだろう。どんな場合でも、稼いでいる人々の態度は大きく、稼ぎの少ない人は立場は小さい。美術は、確かに大衆化し商品化することも可能な領域ではあるのだが、シナリオ優先のメディアには載せにくい複雑で先鋭的で大胆な思想を持った媒体でもあり、存在でもあることを忘れてはならないだろう。 今の美術家の活動もまた、大衆化という問題と格闘を迫られているのだろう。メディアの上での流行風が吹いて、地道に活動していた作家たちが、表面上に登場するのは、わずかな時間のことで、日替わりメニューのようにして、メディアをにぎわしている。同時に、私も含めた学芸員の目もメディアの情報に踊らされて、限られた数の美術家だけがやたら忙しい状況に追い込まれる。 社会が、現代美術を知性や感性の「慰安」的商品だとし、美術館がそうした「慰安品」の棚という位置づけうするのであれば、いつまでも進化はないだろう。諏訪も鷲見の作品は、心地よさにショックや不安を与えを災いのようなものであり、「癒し」や「慰安」ではない。 ●没後11年諏訪直樹展
●鷲見麿《under the rose》展
[はいと まさあき] |
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