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未完の世紀――20世紀美術がのこすもの/
サム・テイラー=ウッド「TO BE OR NOT TO BE」 南雄介[東京都現代美術館] |
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●未完の世紀――20世紀美術がのこすもの 1999年初夏の「横山操」展以来、約2年半にわたって改装のために休館していた東京国立近代美術館本館がリニューアル・オープンする。たとえリニューアルにせよ、開館記念の展覧会の企画に何をもってくるかというのは気を遣うものである。「東近美」(=東京国立近代美術館)のそれは、20世紀美術の回顧。オーソドックスな選択である。 展示室のすべてを使い、「この100年の美術を、重要文化財11点を含む日本画・洋画・彫刻・版画・写真・工芸など370余点によって振り返る」展覧会であるという。聞くところによると、そのうち約6割がコレクションだそうだ。東近美の大きな魅力の一つは、そのコレクションにある。むろん、日本の近現代美術に関しては、質量ともに世界一充実している。そしてそれとともに、ナショナル・ミュージアムとして、日本の近現代美術史――つまり、20世紀美術史――の一つのスタンダードを提示しているコレクションでもある。そのコレクションのなかから選りすぐられた230点、そして外から借りてきた150点、それらによって東近美は、新しい世紀に向けてどのようなスタンダードを示そうとしているのか――それが、この展覧会の大きな見どころである。 2年半という、この東近美(本館)の「不在」の期間に、美術館業界は不況の影響をじわじわと受けて、「冬の時代」はますます厳しさを増している。そして痛切に感じるのは、美術館というシステム自体が「近代(モダン)」と密接にリンクしていたということ。美術館自体が変化を要請されているのは、脱=近代化(ポストモダン化?)を強く求められているということではないだろうか。そういう状況の中で語られる20世紀美術は、当然ながらモダニズムのみに収斂されて行くものではない。どういう視点が選択されているのか――それは、東近美がどのように自己を語ろうとしてるのかを示すものということになるだろう。 もう一つの大きな見どころは、リニューアル自体である。展示室の面積は1.5倍になっているそうだし、アートライブラリと情報コーナー、それにミュージアム・ショップやレストランもできるという。そのレストランが「クイーン・アリス・アクア」だというのが、実は密かに大きな話題となっている。エージェンシー化の成果の一つ、なのだろうか? お壕を望む抜群のロケーションを活用しない手はない。レストランは8日から11日までプレ・オープンされるそうである。 ●サム・ティラー=ウッド「TO BE OR NOT TO BE」
だが、個人的にこの作家に関しては、スチルの写真による作品の方がよく記憶に残っている。それは、《Five Revolutionary Seconds》という連作で、360度カメラを使用したもの。だが、これも本来、サウンド付きのインスタレーションとして発表されたものだそうで、また360度カメラという代物自体が、まったく映画的な仕組みなのではないだろうか。カメラがパンする時間を内包しているわけだから。(revolutionaryという言葉には「革命的」という意味とともに「回転する」という意味もあって、ここではその2つの意味が重ね合わされているのだろう)。360度くまなく見渡した部屋の中に認められる数人の男女。彼らはそれぞれ関係があるのかないのか、全体を統べる意味なり物語なりは何なのか、そもそもそういうものがあるのかないのか――そういうことはいっさい説明されない。さらに、5秒間の回転という「カメラの物語」もまた、信じていいものかどうかわからない。映像というものの本質的ないかがわしさが、そこではよく表われていた。 今回の個展は日本で初めてのもので、98年から制作している《Soliloquay》(ソリロクイ、と読むのだろうか。芝居などの「独白」という意味のようだ)連作など10点あまりが出品されるという。この《Soliloquay》連作は《Five Revolutionary Seconds》と比べてもさらに凝ったつくりになっていて、360度カメラの細長い小さなイメージの上に大きな主イメージがのる構造になっている。この構造自体は15世紀のイタリアルネサンスにおける祭壇画の主画面+プレデッラ(主画面の下に添えられた複数の小画面で、フリーズ上に物語を展開している)を模していて、主イメージと360度カメラのイメージは、図像的に、または物語的に、連関しているように見える。さらに、たとえば主イメージの人物の手が下の画面の一部にかかっていたり、というように具体的に連続性があったりもする。主イメージはまた、美術史上の有名な絵画などから採られていると思われるものもある。仕組まれた映像であることは変わらないのだが、閉塞感は強まっているようだ。私たちにはもはや何も新しいものは残されていないのではないか、私たち自身の身振りの一つひとつでさえ、すでに誰かにどこかで演じられたものなのではないか、という具合に……。
●学芸員ノート 少し古いけれども、3カ月前のあの事件のときに感じたことを書いておこう。 おそらく誰も想像もしなかったような感じでワールド・トレード・センターにジェット機がつっこみ、誰も想像もしなかったような形でビルが倒壊する映像をくり返しくり返し見つめた2日後、横浜トリエンナーレに出かけることになった。愛と調和の時代の幕開けになるはずだった新しい世紀のこの最初の1年が、このような敵意と死と暴力のしるしで永久に記憶される年となってしまったことに動揺し、頭も心も麻痺したままで、会場に足を運ぶことになってしまった。 そして……とうぜんのことながら、映像作品の多かったこの展覧会の、次々と繰り広げられた作り物の映像や些末な危機意識は、なにか退屈な、自分とは関係のないものとしか映らなかった。ただ、フィッシュリ&ヴァイスのライトボックスに並べられた世界のさまざまな場所を写した無数のスライドは、たいへん美しかった。それが失われた「昨日の世界」のイメージだとわかっていたからかもしれない。 いちばん良かったのは、オラファー・エリアソンの巨大な銀の玉の振り子だった。暴力ギリギリの、しかし事実のもつ存在感は、何ものにも代えがたかった。 せめて、充実した質の高いペインティングが1点あれば、気持ちは変わったかもしれない。この事件を切っ掛けに、アートは変わるかもしれない、変わらざるを得ないだろう、と思った。情報/映像主体のアートは、これで破綻するだろう、と思ったのである。 あれから3ヶ月がすぎ、トリエンナーレを見たときの記憶はだいぶ薄らいでしまった。だけどやはり、しっかりした絵や彫刻のもつ力をもう一度見直すべきなのではないか、と思ったりはするのである。 [みなみ ゆうすけ] |
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