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愛知県美術館 中西夏之展/ |
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●中西夏之展/We Love Painting 展 東北はすっかり冬ごもり、というわけでもないが、さほど面白い展覧会もなかったので今回は名古屋と東京に遠征した。愛知県美術館の「中西夏之」展と東京都現代美術館の「We Love Painting:ミスミコレクションによるアメリカ現代美術」展だ。 中西の美術館での大規模な個展としては、'85年の北九州市美、'89年の西武美術館及び高輪美術館、'95年神奈川県近美、'97年東京都現美につづく5回目ということになる。日本の現代美術を語るうえで忘れることのできない重要人物ではあるにしても、多くの美術館でこれほど頻繁に中西が取り上げられてきたことには今さらながら驚かされる。'60年代における前衛美術の旗手というイメージ、そして'70年以降現在にいたるまで、世間の趨勢から距離を置きながら一貫して独自の絵画論を展開しつづけてきた孤高のアーティストというイメージが、美術館学芸員たちの企画意欲をくすぐるのだろうが、特筆すべきは、それがけっしてイメージの独り歩きではなく、膨大な量の作品群と作家自身の多くの言説によって裏付けられた厚みをもっていることだ。 しかし、展覧会企画者の立場から言えば、中西はもっとも手強い作家の一人でもあるだろう。手強いとは、「思弁的」なこの作家の思考を十分に理解し、我がものとしなければ、対等な立場で作家や作品と対峙できないということだ。中西は、作品数や展覧会数が多いだけでなく、本人によるものも含めてきわめて文献も豊富な作家でもあるが、それらの言説の多く、とくに作家自身によるものは、彼の絵画作品がそうであるように、明晰な論理性をもつ一方である種の神秘主義的要素もあり、早い話がとても難解だ。こうした資料を読み解き、展覧会を構成してゆく作業が一筋縄ではいかないことは容易に想像できる。だからこそ、この困難な仕事にあえて挑んできた、愛知県美をはじめ前述の美術館の学芸員たちには素直に頭の下がる思いがする。実際、北九州と神奈川を除く前述の展覧会を見てきた経験からすれば、それらのいずれもが、中西展だから言うのではなく、展覧会というメディアとして非常に充実した内容をもっていたことが思い出される。これは出品作の内容もさることながら、企画者の真剣さのボルテージが高かったことの証だろう。これから「中西」展を見る人には、是非そうした企画者の思い入れも感じとっていただきたいと思う。 ミスミコレクションが特徴的なのは、アメリカ現代美術、それも、絵画・版画・写真といった平面作品にしぼって、まさに同時代の作家・作品を収集しつづけてきていることだ。時代的にはポップ・アート以降で、もちろん、ウォーホルやリキテンスタインなど「オールド・マスター」たちの作品もあるが、今回の展示で目をみはるのは、やはり、'60年代以降に生まれた若い作家による絵画作品群だろう。 とはいうものの、ピーター・ハリーやフィリップ・ターフくらいまでは、「シミュレーショニズム」という言葉とともに記憶に残っていたが、彼ら以降の世代に関しては、白状するとまったく知らない作家ばかりで少々愕然とした。しかも、ほとんどが絵画である。昨今の国際展などを見るとビデオやインスタレーションばかりで、絵画という形式が完全に忘れ去られた感があったが、じつは絵画は死滅したわけではなく、美術館、評論家、美術ジャーナリズムなどがそれらを取り上げてこなかっただけであることをあらためて実感した。「取り上げない」といえば、アメリカ現代美術の情報も以前に比べ圧倒的に減っており、そういう点で、今回の展覧会はぼくの空白部分を二重に突く内容だった。もっとも、この空白はぼくだけの怠慢ではなく、日本の美術関係者全体に当てはまることではないだろうかとも思う。 肝心の内容だが、正直に言えば、ピーター・ハリーら数人の仕事を除くと、かつてのアメリカ現代美術がもっていたダイナミックな大きさやウィットに富んだセンスが薄れ、総体的にずいぶんと小粒になってしまった印象を受けた。ドナルド・サルタンやジェニファー・バートレットにはじまり、ニール・ジェニー、デイヴィッド・サーレ、シュナーベルといった一連のニュー・ペインティングの画家たちを知った20年以上前には、彼らの作品に素直に魅了されたものだったが、今回の展覧会で見た若い作家たちの作品には残念ながらそういう衝撃は感じられなかった。しかし、これは実際に社屋内に展示し日常的に鑑賞することを目的に収集された企業コレクションであり、いわゆるミュージアム・ピース的なサイズの作品が少ないので、その分は差し引く必要があるだろう。
[きど ひでゆき] |
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