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Galerie 16 小泉雅代展 KAGAMIMOCHI KIGANSAI |
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ちょっと変わった展覧会、見てきました。会場で祈願祭をするというんです。段取りはこんな感じ。んで、私も前もって願いごとを書いて送りました。長さ15センチくらいの短冊状の紙を二枚重ねて、一枚目には自分の名前を、二枚目には次の年の願い事を書く、と。職場の人にも何人か書いてもらいました。会場に行くというと千に近い願いごとが壁に貼られてて、勝手にめくって読むことができます。知ってる人のも知らない人のもたくさんあって、面白いのもそうでないのも。ひそかにウケ狙いのとか、あと平和とか、健康とか、いろいろ。で、人の願い事というのはホント、単純なものだと思いましたよ。二、三行の言葉で表わしたりとか、一分くらい目をつむって願ったりする時には、みな無防備なくらいにシンプルなことしか考えない。初詣とか行って何を頼んでるんでしょうかね、みなさんは。私の場合「みんなをよろしくお願いします」とか、そういうまったく間抜けなことを願ったりしてますが。たくさんの言葉や行動がこの世を複雑にしてしまっていて、そこがまた文化だったりするんでしょうが、願い事を願っているときの単純さというのも時々は、人間という病人に必要なものなのかも、と適当なことを考えておりました。それが薬か毒かはわかりませんが。 で、祈願祭の時間です。口上を読むとなんだか怖いんですが、別に前衛なパフォーマンスが行われるわけでなく、実際には妙に明るく淡々と短く、ニ、三十人のお客さんといっしょに無事とり行われました。この祈願祭のご神体となったのが今回のメインの作品であるところの鏡餅で、台の上の白布の上に鎮座しておりますそのモノには、小さなオッパイ様のものが全面にはえていて、その間々には無数のプチプチした斑点が。で、台の下の方にはなぜか女性用の下着、というか各種パンティーがたたんで並んべられていて、よく見ると、オッパイ餅とパンティーの間にはなにやら、ビーズを編んだような、ギョウチュウのような、長細いものがいくつも垂らされているのでした。 きれいなような気色悪いような下腹がモゾモゾする感じ、というのがいつも小泉さんの作品にはあって、一見モチーフが変わってもその感覚はずっと持続している、というよりむしろモチーフは一定で、それがその時々に彼女のの手を通じてあふれてくるのだと、そんな気がするわけですよ、見てると。言葉でスラスラいえるコンセプトとはとても遠い場所で作っていて、確かに、母性とか女性性とかといった単語で修飾できそうにも見えて、実際本人も言葉にしてますが、だけど他人が発語したとたんにどこかずれてしまう。自分の身体に対するとても繊細な違和感のようなものを言葉でなくモノでつむいでいて、その感覚は本人でないと十分には体験できないものかもしれないけれど、ある時間ある空間の中では部分的に共有できるものとして、というより、共有できることを彼女が信用した時点において、かたちあるモノ、他人に現実に示しうるものとしての身体の延長として作られてきたんだろうと、思いました。ところで小泉さんの願い事って何だったんでしょうか。体調を悪くされているんで健康のことかな、とも思いましたが、全然ちがうことかもしれません。書いた紙、貼ってあったかもしれないんですが探しませんでした。知っている人の願い事を見てしまうと、それがかなわないような気がするのはなんででしょうね。
[もうり よしつぐ] |
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