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2023年03月15日号のバックナンバー

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フォーカス

空気をめぐって──有機物とアートの新たな関係

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[2023年03月15日号(四方幸子)]

2011年3月11日。この日、津波に加えて、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、大気や環境に放射性物質が放出されたことを忘れることはできない。
あれから12年……。その後に全世界で起きた新型コロナウイルス感染症を経験したパンデミックの時代においては、私たち人間も、多くの微生物と身体内外で共存し、一部を振りまき交換していることを自覚せずにはいられない。つまり身体は世界の一部であり、世界は身体の一部として循環し続けている。私の世界観における「情報のフロー」、つまり可視/不可視、可聴/不可聴の境界を超えて常に生起している流れとしてあらゆる存在を捉えるならば、身体と世界とを切り分けることは難しい……むしろつながり循環し続けているのではないだろうか。
本稿ではそのような観点から、ポスト3.11、ポストパンデミックの時代において新たな兆しを見せるアートの実践例として、有機物による作品やプロジェクトを空気との関係において展開する大山龍と三原聡一郎の活動を紹介する。また末尾で追記として、1990年代に空気の問題を検討した三上晴子を紹介したい。

キュレーターズノート

絵画について考える──椿昇、李禹煥、佐川晃司の作品から

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[2023年03月15日号(中井康之)]

絵画と人類の関わりは、語り尽くすことができないほどに永い年月の積み重ねである。そしておそらくこれからも人類の歴史が継続する限り、絵画の歴史も終わることはないだろう。もちろん、絵画の存続に関しては、何を絵画とするのかといった人々の認識にも拘る問題であり、意見を違えるところではあるのだが。私は、昨年末から絵画について、いくつかの文書を綴りながら考える機会をもった。その過程で、このようなとてもナイーヴな文句が私の脳裏を過ったのである。

アーティストが社会運動の主体になること──「『二つの栃木』の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く」から

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[2023年03月15日号(町村悠香)]

日本の公害問題の原点とされる明治期の足尾銅山鉱毒事件の存在は、その窮状を天皇に直訴した田中正造の名前とともに、授業で学んだ人は多いだろう。だがこの事件をライフワークとして描いた画家がいたことはあまり知られていない。
栃木県立美術館で開催されている「『二つの栃木』の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く」は、小山市を拠点に油彩画から版画へと展開した小口一郎(こぐち・いちろう、1914-1979)の画業の全貌を紹介する画期的な展覧会だ。

アート・アーカイブ探求

エドガー・ドガ《バレエの稽古(ダンス教室)》──平凡の中の真実「島田紀夫」

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[2023年03月15日号(影山幸一)]

もしもし、キュレーター?

第6回 「ひとりの人間として扱ってもらう」経験に出会う場所を──森山純子(水戸芸術館)×赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)[前編]

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[2023年03月15日号(森山純子/赤井あずみ/杉原環樹)]

学校と連携して教育普及事業を展開したり、地域と美術館をつないだり──従来の「学芸員」の枠組みにとらわれずユニークな活動を展開する全国各地のキュレーターにスポットをあて、リレー形式で話を聴きつないでいく対談連載「もしもし、キュレーター?」。今回と次回は、2025年春の鳥取県立美術館の開館に向けて準備を進める赤井あずみさんが、そのなかで出会った悩みを携えて、水戸芸術館のオープン当初から教育普及事業に携わる森山純子さんを訪ねます。
書籍『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル、2021) にも登場し、あらゆる文脈の人々と美術との接点のつくり方を模索し続けている森山さんは、ご自身も水戸出身。市民からの風当たりも強かったという1990年の開館当初から現在に至るまで、教育プログラムやボランティアスタッフとの協働、「高校生ウィーク」といったチャレンジングな試みの数々を通して開かれていった、水戸芸術館の奮闘の過程を伺ってきました。(artscape編集部)
[取材・構成:杉原環樹/イラスト:三好愛]

※「もしもし、キュレーター?」のバックナンバーはこちら

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