アート・アーカイブ探求
エドガー・ドガ《バレエの稽古(ダンス教室)》──平凡の中の真実「島田紀夫」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年03月15日号
※《バレエの稽古(ダンス教室)》の画像は2023年3月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
バランスがいい具象画
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)2023が始まり、日本は全勝して順調に3月16日の準々決勝へと勝ち進んでいる。日本チーム初の日系アメリカ人ラーズ・ヌートバー外野手(日本名:榎田達治)の全力プレー。二刀流の大谷翔平選手は、中国戦ではピッチャーとなり、オーストラリア戦では特大のホームランを打った。お互いに“ペッパーミル・パフォーマンス(ペッパーグラインダーポーズ:コツコツ粘り抜こう)”でエールを送りながら楽しそうに野球をしていて元気が出る。
日系の女性も世界で活躍している。バレエの名門パリのオペラ座のバレエ団で、オニール八菜(はな)さんが3月2日、日本出身のダンサーとして初めて最高位の「エトワール」に就いた。オニール八菜さんは、日本人の母とニュージーランド人のラグビー選手だった父の間に生まれ、2009年にはスイスのローザンヌ国際バレエコンクールで1位、2016年にはバレエ界のアカデミー賞と呼ばれるロシアのバレエ賞「ブノワ賞」の女性ダンサー部門で最優秀賞に輝いている。細い足首でつま先立って白鳥のように歩いたり、高くジャンプしたり、くるくる回るには相当の鍛錬が必要なのだろう。
エドガー・ドガの《バレエの稽古(ダンス教室)》(1873-76、オルセー美術館蔵)を見てみようと思った。窓から差し込む光に、透けるような純白の衣装が柔らかい空気を醸し出し、白いスカートに黄、緑、青のリボンがきれいで目を引く。垂直の太い柱に緑色の厚い壁、堅牢な建築に支えられた教室では、老教師がまだ幼さが残る踊り子たちに左手を差し伸べて指示している。線、色、形、筆触、構図のバランスがいい具象画の絵画らしい絵画である。同様な構図の作品《The Dance Class》(1874、メトロポリタン美術館蔵)と比較すると床の直線の方向が90度異なり、思案の末に本作品が完成したことが推測できる。《バレエの稽古(ダンス教室)》の見方を美術史家で実践女子大学名誉教授の島田紀夫氏(以下、島田氏)に伺いたいと思った。
島田氏は西洋美術史が専門で、特に印象派やポスト印象派など、19世紀後半のフランス美術に詳しい。石橋財団ブリヂストン美術館(現石橋財団アーティゾン美術館)の元館長であり、『世界美術全集17 ドガ』(共著、小学館、1977)や『印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』(小学館、2009)など、著書を多数出版されている。東京・港区の六本木ヒルズに近いご自宅でお会いすることができた。
絵は見るだけでもいい
島田氏は、1940年山梨県甲府市に生まれ、子供の頃から絵を見るのが好きな少年だった。高校時代には友人と2人で上野の東京国立博物館で開催していた「ファン・ゴッホ展」(1958)を見に行き、そのときのカタログはいまも手元にあるという。読書も数学も好きだった島田氏は、岩波新書の『無限と連続:現代数学の展望』(遠山啓[ひらく]著、1952)を読んだことも契機となって、大学は受験対策として理科系を選び、1959年東北大学の理学部に入学した。大学での数学は数式を解く高校時代とは異なり、哲学的、倫理的になり、難しかったという。理学部を卒業後、まだ社会へ出たくないという思いと、好きな文学に関心が向いて文学部へ編入学した。
そして、文学部に入り美術史を選んだ。「美術史は描く方ではなく、見る方だ」という古代ギリシア美術と印象派を専門とする村田潔先生(1909-73)の言葉に惹かれた。姿もかっこいい先生で、印象派しか知らなかった島田氏は、絵は見るだけでもいいことに気づかされ、しかもそれが学問としてあることに驚いた。卒業論文にはセザンヌを研究して書き上げ、大学院の文学研究科美術史専攻へ進み、1967年の修士論文でもセザンヌについて書いて修士課程を修了。その年に文学部の助手となった。
西洋美術を研究する逸材が数多く生まれるきっかけともなった名著『名画を見る眼』(岩波新書)を1969年に上梓され、国立西洋美術館から東京大学へ移った高階秀爾助教授(当時)らの紹介により、1972年に石橋財団ブリヂストン美術館の学芸員となる。最初に取り組んだのが「青木繁展:生誕90年記念ブリヂストン美術館開館20周年記念」だった。美術館に勤務しながら、非常勤講師をしていた実践女子大学で、文学部に美学美術史学科を新設することになり、1981年に転職、文学部助教授、同教授を経て、2006年実践女子大学を退職。この間、2000年より2006年には山梨県立美術館の館長を兼務した。2006年から石橋財団ブリヂストン美術館の館長となり、2014年退任する。
島田氏が《バレエの稽古(ダンス教室)》を初めて見たのは、現在の所蔵館であるオルセー美術館が完成する前に作品を所蔵していたジュ・ド・ポーム国立美術館だった。1972年にブリヂストン美術館に就職した後、共著で『世界美術全集17 ドガ』を書いて出版した直後にフランスへ行き実物を目にした。「小さい美術館で作品がごちゃごちゃと一杯あるなか、きちんとしている構成画面にまず驚いた。床の斜めの線が奥行きを表現していて、縦の柱があり、画面3分の2ほどの三角形の中にモチーフを収めたよく考えられた構図という印象をもった」と島田氏は述べた。
知性の産物
ドガは本名を、イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガスという。ド・ガス(De Gas)は、のちに縮めてドガ(Degas)と署名するようになるが、「ド」は貴族の家系を表わしている。1834年ドガはパリの富裕な銀行家の家庭に生まれた。芸術愛好家だった父ピエール=オーギュスト・イアサント・ド・ガスと、母セレスティーヌ・ミュッソンとの間の5人兄弟の長男(弟2人、妹2人)だった。
ドガが13歳のときに母は他界してしまうが、名門の高等中学校リセ・ルイ・ル・グランに入学、1953年大学入学資格試験(バカロレア)に合格し、パリ大学の法学部に籍を置く。しかし翌年、アングル派の画家ルイ・ラモート(1822-69)の弟子となり、ルーヴル美術館で模写をして勉強し、1855年国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学する。当時、印象派が目の敵にしていた新古典主義の巨匠ドミニク・アングル(1780-1867)を訪ね、「線を引きなさい。多くの線を」と教えられ、ドガはこの助言を一生涯守った。
1856年イタリアの聖堂や美術館を巡る旅行へ出発。約3年間ナポリ、ローマ、ペルージャ、アッシジ、アレッツォ、フィレンツェを回り、ギュスターヴ・モロー(1826-98)と出会う。1865年にはサロン(官展:国が行なう展覧会)に《中世における戦争の場面》を初出品。この頃、浮世絵など日本の美術に触れる。
1868年にはエドゥアール・マネ(1832-83)、クロード・モネ(1840-1926)、カミーユ・ピサロ(1830-1903)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)らが常連だったカフェ・ゲルボワに通うようになり、反サロンや反アカデミスムに賛同した。日常を捉える新しい視点で意表を突く表現は共通していた。しかし、自然に頼らないドガにとって、外光主義 は相容れなかった。自然は人間に対して働きかけるが、それを受け止める精神の働きによって、伝統とモダンが結合するように再構成して描く知性の産物がドガの絵画だった。
「踊り子の画家」
普仏戦争が起こった1870年、36歳のドガはフランス国防軍の砲兵隊に入隊し、右眼の異常に気づく。画商ポール・デュラン=リュエル(1831-1922)が1872年、初めて3点のドガの絵画を購入して、ロンドンの画廊で展示した。末弟のルネとロンドンを経由してアメリカのニューオリンズへ向かった。
1873年には、無審査のグループ展を開催するため「画家・彫刻家・版画家などの芸術家によるソシエテ・アノニム」という組織をモネ、ルノワール、ピサロらと設立。翌年開かれた公募展が「第1回印象派展」と通称される。ドガは10点を出品した(以降第7回を除き最後の第8回まで出品)。父が亡くなり、ルネと共同で行なっていた事業は不振に陥り経済的に苦しくなる。
1878年《綿花取引所の人々(ニューオリンズ)》が、ポー美術館に買い上げられ、初めて公的コレクションとなった。70年代後半から目が悪くなってきたこともあり、発色の明るいパステルを多用するようになる。アングルの教えに従いデッサンを繰り返していたドガにとって、線と色彩を同時に実現できるパステルはよい画材であった。
ポール・ゴーガン(1848-1903)とは1885年にディエップ(ノルマンディー)で出会い、1888年にはフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)の弟で画商のテオ・ファン・ゴッホ(1857-91)が、ドガの小展覧会を企画・開催した(ブッソ・エ・ヴァラドン画廊)。1889年にスペインとモロッコを旅する。1892年初個展を開催(デュラン=リュエル画廊)。1895年小型カメラでの写真撮影に夢中になる。
1900年パリ万博「フランス芸術100年展」に出品。1905年デュラン=リュエルが大規模な印象派展を開催(ロンドン・グラフトン・ギャラリー)。1911年ハーバード大学フォッグ美術館で個展が開催される。ドガ作品を中心に収集したカモンド・コレクションが1914年ルーヴル美術館に収蔵される。晩年には失明状態になり、彫刻に取り組んだ。人付き合いが良くない皮肉屋のドガは、生涯独身だった。1917年9月27日脳溢血により死去。享年83歳。バレエを描いた絵が全作品の約半数600点あり、「踊り子の画家」として知られた。モンマルトルの墓地に眠っている。
【バレエの稽古(ダンス教室)の見方】
(1)タイトル
バレエの稽古(ダンス教室)(ばれえのけいこ[だんすきょうしつ])。英題:The Dance Class
(2)モチーフ
稽古場、踊り子、教師、ピアノ、じょうろ、小犬、窓。
(3)制作年
1873~76年。ドガ39~42歳。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦85.5×横75.0cm。
(6)構図
やや縦長の画面に遠近法を用いた右斜め上の構図。建築内部に4本の柱と教師のステッキを垂直に立たせ、前景左には大きく踊り子2人を配し、右奥には小さく十数人を集めて対比させた。そして、この大小を結ぶ直線、すなわち床の直線と踊り子を見るバレエ教師の視線がクロスする。また隣接する部屋の窓が見え、奥行きのある空間に開放感を与えている。
(7)色彩
緑、白、黄、水色、赤、茶、ピンク、グレー、金、黒など多色。
(8)技法
各モチーフをデッサン後、アトリエで記憶を頼りにモチーフを配置し構成、筆跡の見えるタッチで油彩画を制作。窓からの明るい陽光を踊り子の白い衣装に対応させ、空間の広がりを示唆する。床には直線を加えて遠近法を強調、視線を部屋の隅に引き寄せる。
(9)サイン
画面の左下じょうろの下部に「Degas」と黒で署名。
(10)鑑賞のポイント
白いベル・チュチュ(鐘状のバレエ衣装)にカラフルなサッシュ(身体に着用する帯の一種)を付けた20名ほどの踊り子たちは、おしゃべりしたり、さまざまに動き、泡立つような華やかさがある。イヤリングを付け直したり、かゆいところをかいたり、衣装を整えたりと、自由な身振りの瞬間がありのままに捉えられている。前景には辛抱強く待つ小犬と、床のほこりを抑えるために水を撒くじょうろ。じょうろは前景に立つ踊り子の左腕の形と相似形。バレエ教師は、有名なダンサーだったジュール・ペロー(1810-92)。ペローの話に耳を傾けているのは、ペローの前の踊り子のみである。往時の様子が偲ばれる重みのあるペローの立ち姿は、未熟な若い踊り子たちとは好対照だ。後景では、座り込んだ踊り子たちが雑談を交わし、娘の世話をしている母親もいる。批評家で哲学者のイポリット・テーヌ(1828-93)はダンス教室を「少女市場」と評した。当時バレエの踊り子は、最下層の人たちであり、パトロン探しの労働でもあった。劇場の定期会員として踊り子たちと話をし、親しくしていたドガは、華やかな表舞台とは異なる舞台裏での踊り子たちの日常の一瞬を捉え表現した。ドガの鋭い観察と才気によって描写された現実の光景。動いているものを瞬間的に停止させたスナップ写真ではなく、対象の動きをも含めた全存在を凝縮、集約した永遠の形象である。1876年に開催された第2回印象派展に出品されたドガの代表作。
デッサンの蓄積
島田氏は「踊り子の絵は《バレエの稽古(ダンス教室)》のほかにもあるが、この絵は奥行きのある大胆な構図で、画面構成のうえでも非常によくできた作品。ペローというバレエ教師の足元が広く空いており、写真で現実を撮って映した絵ではない。遠近法によって、動きを感じさせる斜めの空間をつくった。特に床の直線は、奥行きを出すために描き加えられ、青いサッシュを付けた踊り子へ視線を誘導している。日常的な光景の一瞬を捉えたように見えるけれど、実は一瞬を捉えたのではなく、踊り子の練習場面を個別的にデッサンし、蓄積してそれを構成している。また、画面手前の背中を見せる2人は、奥行き感を強調すると同時に、鑑賞者がダンス教室の空間に参加するように促している。ドガは踊り子の画家と言われながら、踊り子を美しく描いているわけでなく、現実の情景の美しさを探求した。踊り子たちはみんなプロの踊り子にはなれず、洗濯女やメイド、大半は娼婦になる」と語った。 19世紀のオペラ座は、バレエやオペラを鑑賞するブルジョワ階級の人々がステータスを示す社交場であったが、その陰では男女の駆け引きが行なわれていた。多くの紳士たちが「オペラ座ネズミ」と呼ばれる若い踊り子たちを品定めし、自分の愛人である踊り子の出番を見るために観劇にやってきた。 ドガによって、初めて踊り子たちは、絵画の世界で正当な市民権を得られるようになった。ドガの鋭い観察眼と卓越したデッサン力が、絵画史のなかでも優れた成果を挙げた。「真の優美さは、平凡な人間のなかにある」というドガの言葉は、真実の追求がドガにとっての美であったことを物語っており、美術史家の高階秀爾氏は「ドガは、偶然の一瞬の姿と見えながら実は対象の本質を鋭くえぐり出す形態の追求に生涯を捧げた」(高階秀爾『ドガ展』図録、1976)と記している。
開かれた「無関心性」
印象派というグループは、みな風景画を描いているが、そのなかで都市風俗を描くドガやルノワールに興味があったと島田氏は言う。「印象派は、モネやルノワールが人気だが、ドガだけは風景画が少なく、都市の風俗画を描いている。それも上流階級ではなく、庶民的な風俗画である。ルノワールは風景画を描くけれど、《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》など風俗画も描いた。モネは風景画しか描いておらず、印象派のなかでドガとモネは対照的。印象派を“風景の光の変化を描いたグループ”と定義するとドガは抜けてしまう」と島田氏。 風景画のほか、印象派のもうひとつの特徴は、グループ展を初めて開催したことである。特にドガは審査のあるサロンに反発し、無審査の印象派展実現のため主動的な役割を果たした。島田氏は「いまでは普通に誰でもグループ展を開くが、最初にグループ展を開いたのは印象派であり、ドガはグループ展の推進者として重要な存在だった」という。 また、《バレエの稽古(ダンス教室)》は、踊り子一人ひとりの内面や教室の雰囲気が画面から伝わってくるが、それがドガの意図ではないという。島田氏は「結果として鑑賞者が思うことであり、ドガの心理的な画面構成ではない。ただフランスの小説家エミール・ゾラ(1840-1902)やユイスマンス(1848-1907)などはそういう風に取る。読み取ることはできるが、ドガ自身が意図していたわけではない。ドガは対象に客観的にアプローチしており、心理的な意味や情緒的な意味、社会的なメッセージを加えてはいない。考えてはいないが、見る方はそう思うのだろう」と述べた。ドガの対象に対する「無関心性」が、開かれた解釈につながるのかもしれない。
島田紀夫(しまだ・のりお)
エドガー・ドガ(Edgar Degas)
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参考文献
2023年3月