Dialogue Tour 2010
鑑賞者の役割
鷲田──作品化するという行為は、必ずしも流通のためだけではなく、なにかを人に伝えようとする人が、相手との関係を調整するための手段として使うこともありますよね。昨日、高嶺格さんが、金沢での上映会で《木村さん》という作品についてお話くださったのですが、その作品の素材は、マイクテストでカメラを回した際に偶然撮られていた映像だったそうです。最初、高嶺さんが、その映像を別の友人に見せたところ、見せられたその友人はとても怒りだしたそうです。「そんなこと、したらあかん」と。非常にプライベートで、微妙な事柄をはらむものを、他人に見せるということに倫理的な抵抗があったのでしょう。ですが、その映像は高嶺さんにとって大事なことが入り込んでいる映像だったので、どうやって人に見せたらいいか悩みながら3年が経ち、最終的には「作品化することによって見せよう」という判断をしたとおっしゃっていました。
辻──販売するかどうかは別として、アイデアも含めて人に見せたり流通させるためには、なんらかの形式化をしなければいけないということですよね。その意味も含めて、アートを流通させるための一番適したパッケージが作品化だと思うんですね。うまく見せられないなにかを流通させるためのパッケージングはあるべきだと思いますよ。
鷲田──しかし一方で、高嶺さんは金沢で《木村さん》を上映するにあたって、映像だけ見せるのはよくないだろうという判断で、それを見せるなら自分も行きます、とわざわざ金沢まで来て下さいました。つまり、いったん作品化したとは言え、それを単独で流通するものとして自分から切り離すこともしていません。木村さんとの関係は、高嶺さんの生=ライフにとって重要なことで、それをさらに第三者に伝える際の伝え方を、慎重に、丁寧に考えておられるのだと思います。その伝え方のひとつとして〈作品化〉があって、作品として流通することが最終目的ではない。そういう、見る人との関係の作り方も重要じゃないかと、私はそれを肯定的にとらえています。たとえばCAAKのようなお互いに顔をあわせる小さい場所を選べば、〈作品化〉という方法をとらなくても、なにかを伝えることもできるのではないかと思うんです。
辻──パッケージングの形の違いは問題ではなくて……。
会場──作家が居るかどうかは、作品のプレゼンテーションの違いだけだと思います。
辻──そうですね。人に見せるということは、そうパッケージングしているということになるんじゃないですか。つまり、その環境も含めて作品としてパッケージする。
鷲田──CAAKにおけるコミュニケーションも全体としてパッケージ化された作品としてみなすべきだと。むしろそのことによってこそ、美術史に位置づけられる可能性はあるということですか。
辻──そのように評価される可能性はあると思いますし、そういう見方でないと評価しきれない活動や表現が増えているように思います。
鷲田──カオス*ラウンジのような活動が持っているおもしろさとか本質の部分が、逆にパッケージ化によって削ぎ落とされることになってしまうケースもあるかなと思います。パッケージ化に対してむしろどんどん関係性を継続していくことを評価しているのがブリオーの立場だと理解していましたが。
辻──カオス*ラウンジの面白さは、pixivなどのネット上のお絵かき掲示板で流通している絵師たちの作品を、別のパッケージングで現代美術の文脈で見せようとしているという点にもあると思います。ネット上の表現をギャラリー空間に移し替えるだけでも、絵師にとっては作品の大きさや使う画材が変わったりということでカオス*ラウンジというパッケージで初めてつくることができたような作品もでてきます。
関係性の美学は関係性の持続に作品を還元しようという立場ではないので、やはり作品体験の限界というのを織り込んでいます。ブリオーは構造主義的な「作者の死」という考えをはっきり否定しています。作者の重要性、というか特権的な主体としての作者の機能は後退しているけれど、「作者の死」ということではないと。ブリオーはデュシャンの「作品を完成させるのはそれを見る観客だ」という言葉を引用しているし、ガタリの主体性の生産というコンセプトに強く影響を受けていて、作者というのは作品とその環境によって事後的に作られる存在としてとらえているようです。
作者がいなくなるのではなくて、「だれでも作者になりうる」という立場です。それを効果的に機能させるためには、作品や作者を解体しないほうがいい。
鷲田──鑑賞者によって上書きされて、つねに別の作品になるということですね。コメントする人によって違う作品になると。
辻──その連鎖が美術史ですよね。
再び〈2.0〉とは?
会場──鷲田さんは、CAAKを作品化することに抵抗があるようですが、それはなぜですか。
鷲田──作品と位置づけられたときに、どうしてもCAAKのメンバーとかスタッフの作品ととらえられやすいからです。それ以外のそこに来た人たちも一緒に場をつくっているという感じなので、それ全体として作品としてとらえられるのであれば違和感もなく、実態に即しているのかもしれません。
会場──見る方としては作品として落とし込んであるほうがおもしろいというか、見ている充実感が得られます。そうでなければ、大阪から金沢に行ってなんとなくパーティに参加して、帰るときに「あれ、なにしに来たのかな」と思ってしまうかもしれません。
鷲田──そもそも、遠くからわざわざパーティに来てもらうことは想定していません。せいぜい歩いても帰れるくらいの範囲の人たちが、日常生活の延長線上で、遠くから来てくれた人の話を肴にお酒でも飲もうというノリで、レクチャー&パーティをしています。CAAKの活動自体を誰かに見せたいという感じもあまりない。いろいろな人が来てもらえるようなオープンなネットワークにしたいという気持ちはありますが。
辻──いまの質問はすごくよくわかります。参加したときに、自分がその場所にいる主体的な意味、そこで主体化されうる私というものを求めるわけですよね。それにすべて答えるべきと言うつもりはないけれど、答えるような仕掛けがあってもよいのではないかと。土屋さんのレビューのなかに〈アーキテクチャ〉という言葉が出てきますが、ローレンス・レッシグが定義するところの〈アーキテクチャ〉は管理されてはいるんだけど、それを制約とは感じないで、よろこんでそこに参加するというような仕組みですよね。また濱野智史さんはニコニコ動画をある種のゲーム性のあるインタラクションが生まれるようなアーキテクチャであり、その点を高く評価しています。アーキテクチャということを考えるならそういう次元での議論があるといいですね。
会場──受け入れる側にも責任性の考慮が必要ということですか。
辻──入力に対して応答可能性を高めていくということかな。多様な入力への対応を設計するというか。
鷲田──これをやっている意義を求める人もいるだろうし、そういう人への対応も用意したほうがいいということですね。
辻──それが〈2.0〉ということじゃないかと。〈2.0〉とは、オープンネスをどう効率的に実現するかという話で、たんにインターネットを使えばいいという訳ではないのではないでしょうか。