Dialogue Tour 2010
〈アート〉の使い方
鷲田──個々の活動に関してはいかがですか?
光岡──Dialogue Tourで取り上げたスペースのうち、私が実際に行ったのは京都のSocial Kitchen★9です。かじこや山口のMaemachi Art Center(MAC)★10にも共通しますが、ほとんど家であるということがよかったです。取り立てて美術を意識するわけでも、立地がよいわけでもなくただ街の一角に佇んでいて、継続しようという意志を感じて好感を持ちました。グローバル/ローカルの話にも繋がりますが、Social Kitchenの須川さんの生きている空間がそのままニューヨークやイスラエルに繋がっているという感覚があって、対東京の意識はあまり感じられませんでした。そのほうが、「東京」や「美術館」の対立項としての強い意識が働かないので、継続性の点でもいいなと思いました。あくまで生きることが最初にあって、そのなかに欠かせない要素のひとつとしてアートがポツンと佇んでいる感じです。
鷲田──須川さんは自らの活動を〈公民館的〉という言い方をしていますね。沖縄の前島アートセンター★11の宮城さんも公立の公民館に務められていて、地域のなかで公民館がはたす役割を強く意識しているし、こういうスペースのひとつの重要な特徴ですね。
光岡──〈アート〉や〈美術〉が言葉のなかで占めている位置は特殊で、この言葉を掲げるとそれに関心を持っている人しか集まりません。美術館の例で言うと、どんなに不特定多数の人に開こうと思っても、美術作品を置いている場所なので、やっぱり美術を見たい人が来ます。アウトリーチ活動で間口を広げようとしても、統計的に言うとたいていは学歴が比較的高い一定の社会集団が多く訪れるという結果が出ます。そこでは、そもそも美術館という施設自体がそこに来る人に一定の社会的なステータスを与える機関として成立しているという基本的な理解が抜け落ちてしまっています。つまり〈美術館〉と名乗る以上は、「美術を鑑賞する知的な大人」であるとか「美術に詳しいお洒落さん」的なステータスを得たい人が来るので(笑)、〈美術館〉という言葉それ自体を変えない限り、来館者という側面から見れば制度的な変化はあまり生じないのではないかと思うのです。Social Kitchenはその名前を見る限りは、美術という言葉の欠片もありません。あくまで生活が中心にあり、そのなかでアートと出会うセレンディピティが担保されています。そういう意味では、YCAMも図書館がベースなので、受験勉強中の高校生が息抜きをするなかで、いきなりメディア・アートに遭遇することも起こりうるでしょう。アートかどうかということよりも、結果的にそこにいる経験がおもしろいからほかのものを見てみようとか、関心のある人がワークショップまでいけるという線路が引かれています。
鷲田──逆に〈アート〉のステータスを利用して、自宅や生活の場のようなところに〈アートセンター〉をでっち上げて──青森のMidori Art Center(MAC)の服部浩之さんの言葉を借りれば〈捏造〉として振る舞うことで──場所を開いていくという方法もあります。実際にはただの生活の場でしかないところを、きちんとした展覧会であるかのようなDMをほとんど事後的につくったりとか、きっちりとバイリンガルでウェブサイトをつくったりとか、確信犯的な〈捏造〉によって、生活の場を開くという側面もあります。梅香堂での回でも、CAAKをアートプロジェクトとして作品化してもらったほうが逆に参加しやすいといった発言も会場から出ました。
光岡──もちろん、逆に地域を開く方便として〈アート〉を使うという手もありますね。
〈プロジェクト〉とは?
鷲田──私が芹沢さんのスタンスでおもしろいと思っているのは、アーティストとの距離の取り方が美術館で働いているキュレーターと少し違うところです。いま金沢21世紀美術館で展覧会をやっているイェッペ・ハインは、コペンハーゲンで「カリエール」というバーを運営していて、そこでほかのアーティストにコミッションして多くの作品を展示しています。そのことを聞いたときに彼が強調していたのが、〈アーティスト同士の関係〉と〈アーティストとキュレーターの関係〉の違いです。やはりキュレーターはアーティストと一定の距離を取らざるをえないけれど、アーティスト同士だと貸し借りを平気でつくることができるから頼みやすいと。つまり、このバーは自分がアーティストだからこそできたプロジェクトなんだと言っていました。それは確かだと思いましたが、一方でキュレーターしか取れない距離感もあります。
芹沢──僕自体、キュレーターとしての教育や実地を経ないで現代美術の世界に入って来たので、ただ知らないということも大きいと思います。東長寺のオープニングも何人かの作家に会って、彼らの展示をオープニングにしようと思っていたのですが、事情があってダメになりました。それで結局は、若いころから関心を持っていたバックミンスター・フラーをやりました。そうしたら、それをたまたまインゴ・ギュンターたちが見に来て、地球儀の作品《ワールドプロセッサー》を見せてくれました。「じゃあ、1年後にやろう」ということになって、今度はその展示を蔡國強が見に来て「火薬でアートしてます」なんて言って、「また変なやつが出てきた」と(笑)。自分にとってはそれがアーティストとの関わりで、それしかなかったんです。
もうひとつ特徴を挙げるとすれば、P3を始める前に都市開発に関わっていたことです。そのなかでいくつかの〈プロジェクト〉を経験していましたから──当時はまだ美術で〈プロジェクト〉という言葉はあまり使われなかったけれど──、自然に自分たちの活動を〈アート・プロジェクト〉ととらえていました。いまだと地域での事業が〈プロジェクト〉と思われている節がありますが、そうではないと思います。プロジェクト・チームやプロジェクト・マネージメントという言葉からもわかるように、プロフェッショナルが集合して終わったら解散していくような形態でつくられる事業が〈プロジェクト〉の意味するところだと認識しています。
僕自身はP3の活動は映画製作に近いなと思います。自分がプロデューサーで、ディレクターとしてのアーティストがいて、話し合いながらつくる。好きな監督につくってほしいと依頼するときもあるし、よい原作が見つかったから、誰に撮ってもらおうかと考え始めるときもある。そうして出来上がると、それを社会化してお金をどう回収して……と、そういったやり方が普通というか、僕自身の体質としてもともとあったから、普通の美術館のキュレーターや、現代美術と全然違って見えるんだと思います。