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彫刻を見よ──公共空間の女性裸体像をめぐって
小田原のどか(彫刻家、彫刻・銅像・記念碑研究)
2018年04月15日号
日本で育った大多数の人々にとって、「美術」「彫刻」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、古風な衣服をまとった西洋人の石膏像と並び、駅前や公園など、屋外の公共空間にある記念碑的な人物銅像(その多くが裸体を晒している)ではないだろうか。しかし(「美術」「彫刻」という言葉と同じく)国内でそうしたイメージが定着したのはそれほど古いことではない。その過程に何があったのだろうか? 最近のartscapeでも、 3月1日号村田真レビューでは「小沢剛 不完全─パラレルな美術史」展、また同じく4月1日号の星野太レビューで荒木慎也『石膏デッサンの100年──石膏像から学ぶ美術教育史』がピックアップされている。今号では、彫刻家で彫刻・銅像・記念碑研究者の小田原のどかが、公共空間での「女性」裸体像の起源に迫る。なお本稿に関連し、昨年4月15日号高嶋慈レビューによる小田原の個展「STATUMANIA 彫像建立癖」評も参照されたい。(編集部)
見なくてもいい彫刻
戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所である。
昨年、このような一文からはじまる小論を書いた
。小説家であり評論家でもあった堀田善衛が「あれが表象するものは、断じて平和ではない。むしろ戦争そのものであり、ファシズムである」と評した北村西望作《平和祈念像》と、北村の直弟子・富永直樹作《母子像》の師弟による二つの大型彫刻、浦上天主堂の被爆聖像、世界各国から寄贈された平和の彫刻群、そしていわゆる《母子像》裁判……。彫刻であふれた爆心地・長崎から、「人間にとって彫刻とはなにか」という「彫刻の問題」を抽出する試みだった。
2014年から長崎の原爆碑と爆心地一帯の彫刻を調査している。数回の長崎滞在において、いまだに忘れることのできない言葉がある。爆心地の遺構をめぐるツアーガイドとともに「爆心地公園」を歩いたときのことだ。公園の一画に、薔薇の花がちりばめられた服を着た女性が、病んだおさなごを抱えた巨大な彫像がある。この下でふと思い立ち「この彫刻はなんですか?」とガイドの方に尋ねた。本当はこの《母子像》という彫刻について、作者・富永直樹氏の経歴や、建立をめぐる激しい反対運動、そして撤去を求めた裁判といった、込み入った事情を多少は知っていた。しかしそのことは隠して、観光客のように質問をしてみたのだ。ガイドの方はこのように答えた。
「この彫刻は見なくていいです」。さらにこのように続けた。
「こんなへんなものを建てちゃって」
まるで雷に打たれたようだった。なぜなら、ある種の彫刻を前にして「この彫刻は見なくていい」「こんなへんなものを建てちゃって」と誰より思ってきたのはお前自身ではないかと突きつけられたように聞こえたからだ。ある種の彫刻とは、さまざまな場所に設置されたアニメキャラクターの銅像や、裸体彫刻のことである。特に公共空間の女性裸体像に対して、彼女たちをどのようにまなざせば良いのかと考えあぐね、答えは見つからず、長いあいだ意識の外に追いやり、「見なくてもいい彫刻」とすることで深く考えないようにしてきた。
長崎でその後ろめたさを自覚したとき、公共空間の女性裸体像に向き合おうと私は決意した。やがて調査を進め、その出自が明らかになるにつれて、「見なくてもいい彫刻」はひるがえってこう言っているのだと思い至るようになった。「彫刻を見よ」と。
あの裸の女たちはどこからやってきたのか。彼女たちの物語を語りたい。
軍人像から平和の女性裸体像へ
1951年、皇居濠端の三河田原藩上屋敷跡、三宅坂小公園に《平和の群像》が建立された。《平和の群像》の正式名称は「広告人顕頌碑」という。広告人顕頌碑は電通(当時の正式名称は日本電報通信社)が建設し、東京都に寄贈された広告功労者顕彰のための記念碑で、台座の上には東京藝術大学彫刻学科教授・菊池一雄が「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した三体の裸婦彫刻《平和の群像》が据えられた
。『電通 一〇〇年史』および『電通創立五十周年記念誌』によれば、この《平和の群像》こそ、この国の公共空間に初めて誕生した女性裸体像である。
1951年の日本はアメリカの占領下にあり、《平和の群像》が設置された三宅坂にはかまぼこ状の米兵用官舎が建ち並んでいた。「パレス・ハイツ」と呼ばれたその一帯は、日本人利用禁止の、米兵のための軽食施設も併設された米兵街だったが、いまは最高裁判所と国立劇場になっている。パレス・ハイツとなる以前、三宅坂一帯は帝国陸軍の拠点であった。明治以降、この土地は軍との関わりが深く、教育総監部や東京衛戍病院、陸軍省があり、さらに参謀本部など軍の中枢も置かれ、「三宅坂」とは参謀本部の別称でもあった。
実は、《平和の群像》建立から溯ること28年、後に平和の女たちが据えられることになる台座は1923年から存在した。当時、台座の上には北村西望が制作した《寺内元帥騎馬像》が置かれ、軍閥の威光を讃えていた。しかし戦時の物資不足から金属回収がはじまると、《寺内元帥騎馬像》も回収されて戦争のための資源となった。《平和の群像》は、空のまま残されていた台座を再利用して据えられたのだ。
寺内元帥像の台座を使った彫刻制作の依頼を電通から受けた菊池は、騎馬像を仰ぎ見ていた戦時と区別して「親しみやすいもの」にするために、残された台座の「寺内元帥像」と書かれた銘板から上を取り除いて台座を低くし、そこに花のレリーフをつけ加えた
。軍人像から平和の女性像へ。彫刻の交代はいくつかの新聞や雑誌で取り上げられた。管見の限りでは、英雑誌『Time』、毎日新聞、朝日新聞が報じている。毎日新聞には次のような記事が掲載された。
「裸婦像」が街頭に建てられる。パリの話ではない東京、それも国会議事堂前の寺内元帥銅像跡、まさに軍国日本から文化日本への脱皮を象徴する女神の像である。
(『毎日新聞』1950年6月14日付)
このように、国威の発揚および戦意昂揚のディスプレイとなっていた軍人像が置かれていた台座に、軍服を脱ぎ捨てた「三美神」が建立されたというニュースは、日本の軍国主義・超国家主義的思想との決別と新たな出発を象徴する出来事として、国内のみならず『Time』のような海外のメディアでも報じられたのだった。
広告宣伝とタイアップの彫刻
一方、彫刻の施主であった電通はこれらの報道をどのように捉えていたのか。『電通創立五十周年記念誌』に「ニュースへの反響を見る」と題された《平和の群像》に対する各種報道をとりまとめた特集頁がある。このなかで電通は、広告と彫刻の安易な結びつきに警鐘を鳴らす主旨の新聞記事に対し、懸念は杞憂であると反論した。さらに《平和の群像》は「今後の広告宣伝とタイアップの彫刻の街頭進出に対して好個のタイプを示すもの」と主張している
。また、当時の電通社長・吉田秀雄は同誌で、当初は上野公園、芝公園を設置の候補地としていたが、銅像回収のために台座のみが多数残されている状況を知り、「広告人顕頌碑」を一からつくるのではなく、残された台石を利用して記念彫刻を製作することにしたと述べている。つまり、どのように報道されるかを見越したうえで、《平和の群像》はあえて三宅坂の軍人像跡地に据えられたのだ。台座を再利用した男性の軍人像から女性の裸体像への移行は「広告宣伝とタイアップの彫刻」として演出されたものだった。
他方、軍人像の出征から生じた空白の台座に関心を持っていたのは電通だけではなかった。1946年から47年にかけて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は東京都内のいくつかの記念碑と、金属回収によって残された空の台座をリストアップし、また日本人に聞き取りも行なって、国民的記念碑としての彫刻と日本人の関係を調査していた。そして、軍人の銅像のいくつかを撤去させた。さらに、報告書には、そのようにしてできた空白を平和的シンボルで埋めるべきだと記されている
。
今のところ《平和の群像》建立にGHQの関与があったことを記録する確固たる証拠は見つかっていない。だが占領下でのGHQと電通の浅からぬ関係を照らせば、前者から後者への何かしらのサジェスチョンがあった可能性は低くないと私は考える。「広告は平和産業」という強い思想を持っていた吉田が熱心に取り組んだパブリック・リレーションズ(PR)についてここで詳細を述べることはしないが、《平和の群像》というタイトルは彫刻の作者・菊池ではなく吉田がつけたということは記しておきたい
。新しい時代の理念を、「平和」という名前を冠した彫刻を用いて宣伝すること、それこそが吉田の企図であった。その意味でこの彫刻の設置は、上野公園でも芝公園でもなく、ほかの空の台座の上でもなく、航空陸軍本部の接収によって生まれ、皇居に張り付くように存在した米兵街のある「三宅坂」でなければならなかったのだろう。
このようにして生まれた《平和の群像》は、67年前の建立時と変わらぬ姿で、今日も皇居に向かって手を振り続けている。
《平和の群像》は「新しい日本」を示したか
《平和の群像》の除幕式においても「平和」と「新しい日本」が強調された。以下は、日本国憲法制定の議論に関わり、読売新聞社社長も務めた馬場恒吾による除幕式での式辞である。
軍閥の銅像があったこの場所に、平和を象徴する女性の群像が建設されようなど、いったい誰が予想しただろうか。……この平和の群像は、新しい日本を示すものである。……われわれは、この平和の群像を守らねばならない
(『電通66年』電通発行、1968年)
しかし果たして、三宅坂の台座の上で起こった彫刻の交代劇は、「新しい日本」への転換を示したと本当に言えるのだろうか。国民的記念碑としての銅像は、明治後半から雨後のたけのこのように乱立し、プロパガンダ(宣伝)に活用された。だが1,000体近くまで増えた銅像は、金属回収とGHQの方針による撤去により一斉に消える。その空白を利用して、平和の時代の平和の彫刻が誕生したが、それは《平和の群像》銘板に刻まれているように「平和を象徴する広告記念像」であり、宣伝広告のための彫刻だった。
ここに「新しさ」はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性があると言えないか。つまりは、軍国主義が台頭した戦中に民衆教化に用いられた銅像も、敗戦後に旧体制からの脱皮と「新しい日本」が重ねられた平和の裸婦像も、体制の宣伝装置としての彫刻をいたるところに建立させる現象と見ればまったく同質のものである。公共空間の女性裸体像こそ、政体がかわろうとも彫刻が求められたこと、その証なのだ。
話を現代に戻そう。2017年、アメリカ、シャーロッツビルでは、南北戦争の銅像記念碑の撤去をめぐって賛成派と否定派のあいだで激しい衝突が起き、死傷者が出た。一方、韓国において80体以上を数える「慰安婦像」(正式名称《平和の少女像》)は日韓の国民感情を著しく悪化させたとされる。これらの彫刻はまさに「歴史」の表象であり、かたどられた人物が背負う思想の身代わりでもある。だからこそ、身代わりは繰り返し引きずり倒され、打ち壊されてきた。彫刻が深刻な対立を生み出し、暴動が起き、死者すら出ている現実がある。しかしそれでも、人間は彫刻を求めてやまない。そこに何を見いだすことができるだろうか。
《平和の群像》を起点とする公共空間の女性裸体像が示すのは、敗戦と占領というこの国の「歴史」だ。この意味で、彼女たちは「戦後民主主義のレーニン像」であるとも言えるだろう。長崎という場所がこのことに気付かせてくれた。
これまで《平和の群像》が三宅坂の軍人像跡地に建てられたことは、いくつかの本や論文で取り上げられてきた。だが驚くべきことに、《平和の群像》こそ公共空間の女性裸体像第一号であり、それが電通の演出による広告記念像として誕生したという事実と、平和の彫刻への交代劇にGHQが関与した可能性については、光が当たることはなかったのである。彼女たちは顧みられることなく、無言で立ち続けてきた。
だからいまこそ、この国に女性裸体像が氾濫している意味を問う必要がある。人と人が彫刻によって分断され、彫刻をめぐって衝突するいまこそ。
彫刻を見よ、街頭に固定された裸の女たちを見よ。
人間にとって彫刻とは何か、その手がかりがここにある。
量産される女性裸体像
それにしても、どうして《平和の群像》は裸婦でなければならなかったのか。吉田は菊池から、ギリシャ神話の三美神になぞらえた裸婦像のアイデアを聞いた際、「構想が奇抜で、今の時代感覚からすると早過ぎはしまいか、むしろ子児の像を配した方が良くはなかろうか」と思ったという
。しかし菊池の強い希望で、《平和の群像》は裸婦像となった。菊池の弁はこうだ。わが国では最初の裸婦の街頭進出なので、アイデアを練るのに相当勇気が必要だった、従来の銅像タイプを破って芸術性の高いものを意図したが、これを機会に彫刻家がこの方面に大胆な意欲を発表して欲しい
(『毎日新聞』1950年6月14日付)
《平和の群像》は前例のないヌード彫刻の街頭進出であったため「建設時には裸体彫刻が猥せつでないことを区長や区議長に説かなければならなかった」と菊池が苦心した記録が『電通 一〇〇年史』に残っている。菊池がつゆはらいとなり、そして彼に続いたたくさんの彫刻家が「大胆な意欲」を発揮した結果、この国の公共空間には他国に例がないといわれるほど、裸体の彫刻があふれるようになった。軍国主義からの脱皮を示しているのだ、というだけではもはや説明がつかない。どうしてこれほどまでに裸の女は量産されたのか。答えは端的に、この国の彫刻教育にある。
日本において彫刻を学ぶこととは、裸の女をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言ではない側面がある。そこでは、西洋における文脈や図像学的な解釈を学ぶことは留め置かれ、形態を模倣し再現することが重んじられる。このような仕組みは「石膏デッサン」の問題とも通底するだろう。
『電通創立五十周年記念誌』のなかで菊池は、「わが国では最初の裸婦の街頭進出」に際して、ギリシャ神話の三美神を参照し、敗戦から起き上がる「意欲」「理知」「愛情」を3人の女性の裸体をもって表現したと述べている。軍人像の跡地に置く「文化日本を象徴する彫刻」として、ここで目指された「芸術性の高さ」には評価に値するものが確かにある。
ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。
裸婦像の制作を必須のカリキュラムとする美大・芸大の彫刻教育の現場において、ここに記した彼女たちの出自が共有され、「彫刻家」が何に荷担してきたのかについての教育が行なわれることを私は望む。
結びにかえて──答える者のいない問い
1987年、日本においても多数の公共彫刻を手がけてきたアメリカの美術家、ジョナサン・ボロフスキーが個展のために来日したとき、会場であった東京都美術館では「日展」が開催されていた。会場にびっしりとならぶ大量の裸婦彫刻を見て、ボロフスキーはいたく感心したという。これだけの量の彫刻を用意し、展示を構成した美術家はいったい誰なのかと。「アーティストの名前を教えてください」と彼は言ったという。
このエピソードは信頼のおける年長の美術家数人から伝え聞いたものだ。おそらくこの話の教えとは、新鮮なまなざしを取り戻そうということなのではないか。そうであるなら私も、この国の公共空間にあふれる女性裸体像について問うてみたい。
「誰がこれほど大規模なインスタレーションを構成したのですか? アーティストの名前を教えてください」