クロスオーバー10拾遺
以下、いささか趣をかえるために、文体も変えて、事ここに至る経緯のご報告。若干私小説風な出だしお許しあれ。書き下ろしです。
1967年生まれの私が大学で美術史を学び始めた頃は、日本の戦後美術を歴史の中に定位、相対化しようとする試みがひとつの波を形作った時期だった。
1986年には千葉成夫による『現代美術逸脱史』が刊行され、またパリのポンピドゥセンターで開催された「前衛芸術の日本1910-1970」が論議を呼び、その翌年には東京の西武美術館で同館と多摩美術大学の共催で『もの派とポストもの派の展開』展が開催された。また古書屋では、今ではなかなか高値で手が出ない篠原有司男『前衛の道』(1968年刊行)が、そのキラキラの装丁を見せることも度々だったし、赤瀬川原平のいくつかの著作が新刊、あるいは文庫本化されて廉価に手に入った。
いつのまにか私は「読売アンパン」「反芸術」などの言葉を知るようになった。こうした中で1988年福岡市美術館で開かれた『九州派展』は、当時それがなんだがわからないながら、その強力な吸引力に見入られた私は、福岡へ帰省した同級生にわざわざ頼んで、その図録を買ってきてもらったものである。そう、その図録を手にしたときに「こんな芸術もあったんだ」そして「出来事は東京ばかりではなかったんだ」と、今にして思えば、あまりに当たり前のことに気がついたのである。
こんな私が、地縁も血縁もない岡山に幸いにも就職の口を得てやってきたのが1991年のこと。そしてダッフルコートなど誰も着ていない暖かな冬に驚き、直島で身を浸した瀬戸内の「ぽかーん」とした時間の流れに「こんな時間の流れる場所もあったのか。やはり日本はひとつじゃないんだ」と、これまたあまりに当たり前のことに気がついた。
やがて岡山で何人かのアーティスト達と知り合うことになる。とりあえずはじめ、県立美術館の学芸員である私を、みんな冷たい目で見つめ、そしてとりあえず、からまれた。けれどもたんなる愚痴話でもいじめでもなく、真剣勝負でコミュニケーションを取ろうとしてくれる人達とは、こちらも未熟とは言え真剣に向き合っているうちに、いつしかみんなが私にとってはかけがえのない存在となった。
こうしたアーティスト達との会話の中に、しばしば「はんせと」という言葉が出てきた。
それは岡山県総合文化センターでやっている汎瀬戸内現代美術展のことらしいとわかると、新参者の私はその目録や関連する文献資料に眼を通して学習を開始した。そして「九州派」同様、60年代の岡山にも岡山青年美術家集団のような活発な活動があることを知り、そしてその熱が生み出した「汎瀬戸内現代美術展」が今なお継続していることを知った。
この展覧会は岡山青年美術家集団などで活発な活動を行っていた寺田武弘、横田健三が主な呼びかけ人となり、高崎元尚、浜口富治(高知)、松谷武判、河口龍夫(兵庫)、速水史朗(香川)らが参加して1966年に始まった。
その展覧会が30年近く継続していることは驚きであったが、いわゆる前衛美術の展覧会がアーティストと行政の双方が運営に関わっていることもまた驚きであった。
このことについて、私と同世代ながらすでに「前衛土佐派」を中心とした高知の60年代の美術活動に着目した優れた実績を残す松本教仁が、高知県立美術館で開催され、同名のカタログを同館と高知新聞社が共編して一般書籍として流通させた『こんなアヴァンギャルド芸術があった! 高知の一九六〇年代』の中で、事務運営一切を土佐派のアーティストが担い結果的にその煩雑な作業に対応しきれずに瓦解してしまった南日本現代美術展の失敗を振り返りながら、「岡山の汎瀬戸内展の場合、岡山県総合文化センターという公的機関が様々な手配から事務処理まで行い、地元の作家は制作にのみ集中することができた」と述べている。だからこそ継続が可能であったのだ。
もっとも私が耳にする「はんせと」は「30年近い歴史」と「アーティストと行政のコラボレーション」という、こんな奇跡のような出来事とはいささか違うニュアンスを帯びていた。
「だれが選んでいるのかわからない。なんで私が選ばれたのかわからない」「会場が狭く、作品の容積、重量など制限が厳しい」「ほとんど作家負担で経済的に苦しい」確かに始めて汎瀬戸内現代美術展の会場を眼にしたとき「これはかわいそうだ」というのが率直な思いだった。会場には様々なタイプの作品が所狭しと並べられ、否応なく複数の作品がひとつの視界に飛び込んでくる。展示するための設備もけして十分ではなく、正直これではアーティストはその力量の半分も発揮できないであろうし、そんな展覧会だとわかっている者にとっては、始めからやる気などおこらないであろう。
観客にとっても、これでは「現代美術はつまらん」と思われてもしかたがない。
表だって見てもこれだけの状態だが、予算をみればどうしてこれで展覧会が成立するのか不思議でしょうがないし、なにより作家選定の責任所在がわからない。いったいだれが作家達の仕事を見守り、そして吟味して、この場に選出しているのだろうか?
1997年汎瀬戸内現代美術展は、その名を改め、さらに今までの瀬戸内沿岸に山陰2県を加えて「クロスオーバー10」として再出発を切った。しかし、そこでも上記したような状況は何も変わらなかった。
参加県に山陰2県が加わっただけで、相変わらず作家は手弁当で参加させられ、会場もごちゃごちゃと込み合っていて、状況は何も改善されていない。察しの良い作家なら、当初からお付き合い程度の作品しか出さないのも無理はないだろうし(そんな人もいた)、喜んで馳せ参じる作家などいるはずもない(と私は思った)。
しかし何を思ったかそんな思いを持つ私に、その展覧会の記念シンポジウムにパネリストとして参加の要請があった。
私は即座に断った。ひとつには、なにも私を呼ばなくても実際に展覧会を担当した者が出席すればよいのだし、かりに私が出れば、私が開催の当事者だと誤解される可能性がある。そんなの絶対いやだ。
ふたつめに、私は思っていることを言わずにはいられない。ならば岡山県職員が身内の批判をすることになる。それでは当事者も立つ瀬がないだろうと思ったからだ。
もっとも他県からのパネリストのメンバーを見ると、山口県美・河野、広島市現美・竹沢、高松市美・毛利、高知県美・松本と、日頃からその仕事に注目している学芸員、それも私と同世代の方も多い。展覧会担当者とも十分に話し合いを続ける中で、担当者からは「何を発言してもかまわない」との言葉をもらったこともあり(今思うと、そりゃそうだよな。責任は私にしか及ばないんだもんな。と思う)、覚悟を決めて壇上の人となった。
案の定シンポジウムはすごかった。私に発言の順番が来る前に、「こんなの現代美術の展覧会としてはひどい」「これでは観客が現代美術を嫌いになる」という発言が口火を切り、そして私が日頃から思う言葉が、他のパネリストの口からも飛び出し、はっきりと問題の所在が明らかになった。それだけ他人が言ってくれたのだから、よせばいいのに、私も「この展覧会にはいっさいタッチしていない」ことを最初に言明したうえで、ちょうど自館で開催したばかりの「アートラビリンスII 時の記憶」は、「汎瀬戸末期の運営と、作家に処する態度に対してのアンチテーゼとして提出したつもりなのに、それにも気づかずに状況が改善されないまま、名前が変わっただけなのはおかしい」と、言ってのけてしまった。おかげで私は直後にひどいお叱りをうけたが。(ちなみに美術館内では何も言われませんでした。しかたがないと思われているのか?)
さて2回目を迎えたクロスオーバー10は、このシンポジウムでの批判点を踏まえ劇的にリニューアルされた。その一環として、なんと私が実質的に運営担当者に引き入れられてしまった。だから他人事として無責任な態度は取る気はないのだが、問題は全面解決していないので心苦しい状態でもある。
大きな問題のひとつとして参加者の選抜方法があるが、今回は各県行政の文化担当部署に依頼し、そこから先は各県毎にまかせるという方式をとった。幸いにも先のシンポジウムのパネリストとなった学芸員達が実質的に作家を選出することとなり、また基本的に40歳以下、過去の汎瀬戸での出品歴なしという条件を付したことも手伝って、まさに現代美術展の様相を呈してきた。また各県1名と作家数を絞りこみ、また事前に会場視察の機会を作って、互いの作品を知りながら、会場の割り当てやプランニングを行うという当然といえば当然の状況にようやく至りついた。その他にも問題は多々あるし、即刻解決できない理由もわかっていることも多いのだが、それに触れる紙数の余裕はない。
最後にひとつ。30年前には十分に意義があったことだろうが、現在において中四国山陰という括りで展覧会を実施する意義はあるのだろうか?
私はあると思う。どうしても情報の発信、交換は東京や京阪神、あるいは元気の良い博多に集中してしまう。それに比すれば中四国山陰からの、特に現代美術の情報発進力は弱い。それゆえ中四国山陰にとって必要なのは、東京や大阪での現代美術の様相を紹介すること以上に、現地からの情報発信だと思う。それゆえ、このクロスオーバー10は、ある意味で全国に対する中四国山陰からの情報発信の窓口のひとつとなりうるし、それがかねてから、中四国からの情報発信の場を与えてくれていた、このアートスケープで紹介できるのも本当にうれしい(でも中国地方が私一人なのも正直つらいが)。
もしかしたら、このクロスオーバー10は、中四国の現代美術の状況の、強力な情報発信の場として大きく育つ可能性を持っていると思う。まずは今回の会場をまたしつこく吟味して、次へのステップに生かさねばならない。
長文読了ありがとうございました。
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