![]() reviews & critiques ||| レヴュー&批評 |
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ギャラリー-3 | ||||||||||||
東京アートフィールド 「わたしの東京」のアート Taka Ishii Gallery |
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槻橋 修 | ||||||||||||
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住宅街、住宅建築のギャラリー
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![]() ギャラリー外観 二階より上は住居 |
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わたしの東京
「東京」と名付けられるカオティックなイメージにも、秋葉原の電気街、新宿歌舞伎町から高島平の団地群まで、いくつかのタイプがある。たとえば都築響一の『TOKYO STYLE』が紹介した若者の部屋のインテリア写真--部屋の広さや収納家具の数をはるかに超えてモノがあふれかえっているような室内の写真は、インテリア写真でありながら、外にある街の姿まで映し出している。それは西欧の街に比べて室内的な性格をそなえた過密都市であり、住処と街の境界が曖昧な空間に、雑多なモノがあふれかえっているような都市である。この室内的な「東京」像は、映画『ブレード・ランナー』などにおける近未来都市のヴィジュアル・モチーフとして知られた秋葉原電気街に比べて、もっと身近な、私的な都市像である。そこには確かに住人たちのコミュニティが存在していて、安い食事をとるところ、洗濯をするところ、立ち読みをするところ、暇をつぶすところなどが一揃いそろっている。ただコミュニティを構成している当の住人が、コミュニティに対して離れて立っているようなコミュニティ。つまり、職場や学校など、住人ひとりひとりが別個に持っているコミュニティはもっと広域なネットワークを持っているのだが、それぞれが部分的に重なり合って、たまたまその場所に生じているような見かけ上のコミュニティ。これが「わたしの東京」とも呼ぶべき都市である。Taka Ishii Galleryのある北大塚の商店街もやはり「わたしの東京」を想起させる。街はよそ者に冷たくはないし、かといって馴れ馴れしくもない。なにかが欲しいとなれば大体与えてくれるのだが、すべて揃っているという訳でもない。 |
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「わたし」をめぐって
Taka Ishii Galleryは、そんな「わたしの東京」で、現代美術・写真の中に描かれた「わたし」たちを紹介する。今月は3人の若手ヴィデオ・アーティスト――ダグ・エイケン、アレックス・バッグ、ナオタカ・ヒロのヴィデオ作品が上映される。ダグ・エイケンとアレックス・バッグの二人はニューヨークの303ギャラリーで発表された作品である。エイケンの『Autumn』(94年)はNYとLAの若者を撮ったコマーシャル映像から新しいひとつのものがたりを構成する。バッグの『fall '95』(94年)は彼女自身が様々に変装し、ひたすら語り続けるというもので、ビョークの歌う『Army of me』のシーンが挿入されている。ナオタカ・ヒロの『Cookin'』と『Eatin'』は「痛み」をテーマとして認知される肉体を問う実験的映像である。テレビとの相乗効果で10年足らずのうちに普及してしまったビデオは、日常生活、つまり生活の私(わたくし)性を簡単に映像化することのできるメディアである。このようなメディアの性質を作品に積極的に用いているのはバッグの独白だろう。挿入されているビョークといえば、前作『Telegram』でアラーキーによるポートレイトをジャケットに使用したことも記憶に新しい。荒木・ビョーク・バッグの三角形が、とある住宅の中に像を結ぶ。ギャラリーの静けさが、作品からあふれ出る「わたし」と、「わたしの東京」とのあいだの境界線となって、〈わたし-都市〉という主題を浮き彫りにしている。 |
![]() ナオタカ・ヒロ『Cookin'』 |
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