キュレーターズノート
鑑賞者が主体となるフラットな関係性をどうつくるか──「音で観るダンスのワークインプログレス」京都公演
田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)
2022年08月01日号
対象美術館
「音で観るダンスのワークインプログレス」(以下、「音で観るダンス」)は、2017年から2019年までKAAT神奈川芸術劇場のプロジェクトとして企画した。その後城崎国際アートセンターの委嘱により新作を制作することとなり、城崎での滞在制作と上演を経て、2022年6月11日と12日の2日に渡り京都芸術センターにて開催した。主旨については、城崎の上演後に改めて書いたテキスト
で詳しく書いているが、視覚に障害のある人に対して音声で視覚情報を伝える「音声ガイド」に着想を得て、ダンスをテキストや音と共に上演し、視覚障害者を含むほかの観客と共に観てイメージを共有することで、観客側からもダンスを造形するような場をつくることを目的としている。実はこのプロジェクトを2日連続で上演を行なうのは今回が初めてのことだったが、それぞれの日でまったく異なる場となった。構成は同じ公演なのに、一体何によってそのような結果となったのか。そのことについて少し考えてみたいと思う。音で観るダンスの5年間の変遷
まず、神奈川芸術劇場での3年間は、捩子ぴじんによる約10分間のソロダンスを、観客はラジオを操作して3つの異なる視点でつくられた音声ガイドを選んで聞きながら、明転/暗転で何度か繰り返されるなかで観るというのが主軸にあった。上演映像や制作過程の記録はウェブサイトから見ることができるが、さまざまな試行錯誤を経て、3年目はラジオを使わず、観客が舞台を囲む形でひとつのテキストを全員が聞こえる状態でダンスを上演した。また、大きな点として、ダンスと共に上演するテキストを「音声ガイド」と呼ぶのをやめたことがある。それは、晴眼者が見ているのと“同じ”体験をしてもらうのを目指すのではなく、晴眼者・視覚障害者それぞれが、そのままの状態で想像を広げる土台になるようなものへとテキストの位置付けを変えたためである。
次に、城崎で制作した新作は、康本雅子と鈴木美奈子のデュオによる約25分間のダンスがもととなっている(実は途中まではまったく別のダンスだったが、脱線するのでこれについてもご興味があれば城崎のレポート
を参照頂きたい)。同じくラジオは使っておらず、荒木優光による「サウンドバージョン」と、五所純子のテキストを中間アヤカが朗読する「テキストバージョン」を制作し、音声ガイドから着想したがゆえにテキストの比重が重かったこのプロジェクトの、次の次元を模索した(城崎公演については中島那奈子のレビュー がある)。ここでの大きな変更点は、暗転を設けず、終始明転の状態で上演したことだろう。どうしてもこういった障害当事者が可視化されるプロジェクトにおいては、「見えない人の気持ちになれた」という感想を口にする人が少なからず出てくる。しかし記述の通り、このプロジェクトの主旨はそういったものではない。むしろ誰もが自分のままで、どのように障害の有無を含めた違いを踏まえて他人とイメージを重ねていけるかを目指しているので、もはや暗闇という要素は不要だった。そして京都公演では、もとになるダンスは同じだが、構成や内容、客席の配置などの大部分を変更した。それは、会場や土地の性質の違い、城崎で未成熟だった部分を発展させたというのもあるが、このプロジェクトの核となる、上演後に設けている感想を共有する時間での観客の反応の影響も大きくあった。
このプロジェクトは、当初から上演よりも感想共有の時間の方を長くとってきたのが特徴である。通常のアーティストトークや質疑応答の形式ではなく、観客にそれぞれ見たものや感じたものを口にしてもらう。晴眼者の場合は視覚からどんな印象を受けたのか、視覚に障害のある人の場合は音やテキストからどんなダンスを想像したのかから始まることが多い。ダンスのイメージについて語るのは、絵画や写真などある時間が物質として定着したものと異なり、残像について話すようなものだと最近思う。それくらい不確かなものに対して見えるイメージと見えないイメージを重ねていく過程を通して、1人として共通のイメージを持ち得ないままに想像を交わすことを味わってもらいたいと思っている。そのため、観客の反応により変更したというのは、受け取られ方の良し悪しの問題ではなく、観客がイメージを共有するところまで辿り着けないような難しさがあった部分を、なるべく多くの人が同じ土台で想像を共有できるように整えたというのが近い。
京都公演の全体像
京都公演は、5部構成で行なった。まず、⓪京都在住の全盲で美術家の光島貴之と、一緒に活動しているダンサーの伴戸千雅子による導入、①薄暗い照明の中で康本と鈴木によるダンスの一部抜粋、②ダンスから発想したテキストの朗読がダンスに重ねられる「テキストバージョン」、③ダンスをサウンドパフォーマンスとして発展させた「サウンドバージョン」、最後に④トークという名の感想共有である(②以降は明転で行なった)。トークは、1日目は美術家・映像作家の山城大督、2日目は演出家の和田ながらが進行を担った。①から③の内容の詳細については高嶋慈のレビューに詳述いただいているのでそちらをご覧頂ければと思うが、いくつか補足したい。
まず、⓪の光島と伴戸の導入は、京都公演独自の試みだった。城崎では康本がダンスのテーマ(後述)に関連してワークを行なったが(前述の中島のレビュー
に記載あり)、京都公演では光島が普段どのように人やモノのイメージを捉えているかを伴戸とのやり取りを通して紹介してもらうのと同時に、視覚障害当事者がこれから同じ上演を共に見ることを観客の意識に置いてもらう狙いもあった。次に、暗転はやめたというのに①でなぜ照明を薄暗くしたかについてだが、完全に暗転ではなく、ダンサーの輪郭がぼんやり見えるくらいまで照明を落とすことにした。今回のダンスは「質感」、特に関わりによって変容するモノと体の主従関係や関係性をテーマに康本に振付を考案してもらった。それにあたり、康本の言葉を借りれば、自分の体とモノを“馴染ませる”のに10分ではとても足りないということから、ダンスは20分を超えるものとなった。そういった性質のダンスを鑑賞するにあたって、晴眼者の側もいきなり視覚で全体を把握するのではなく、ダンスの佇まいや気配などを他の感覚からも感じとるように体を慣らしてもらう意図があった。
最後に、このプロジェクトのこれまでの変遷のなかで、声が持つ身体性の問題については度々触れられてきた。実際、1年目に捩子ぴじんが書いた音声ガイド1を女優の安藤朋子に朗読してもらったとき、捩子が朗読するリズムと安藤のリズムがまったく異なる箇所が複数あることが判明した。その際は、安藤が捩子のリズムを体に取り込むのではなく、敢えて安藤のリズムのままで録音を行なった。そのことによって安藤の身体性も浮かび上がってくる興味深いものとなっているが、一方で朗読者の身体性が強すぎてダンサーの身体性が消えてしまう場合もあった。今回は五所の言葉が持つ意味性の強さを中間の声質とリズムによって軽くする目的で中間に依頼したが、この部分はダンスの意図や性質によって、さまざまに試行錯誤できるところだと思う。
鑑賞における関係の公平性について
それぞれのパートも日によって違いはあったとはいえ、今回は特に感想共有の場の設定について大きな学びを得た。具体的には、通常のアーティストトークや質疑応答のような場ではないことをどれだけ最初に共有できるかということ。つまり、作り手と観客のヒエラルキーをなくし、フラットに印象や感想、イメージを交わすことで観客同士でダンスを再構築していく場がどのように設定できるかによって、まったく異なる体験になってしまうということだ。
このプロジェクトの特徴として、アンケートの回収率が毎回半数を超え、そのほとんどに自分はどう見たかということについての来場者の言葉が具体的に書き込まれていることが挙げられる。また、多くのアンケートのなかでトークの意義について触れられていることからも、発言するかどうかは別として、感想共有がその人にとって他の人の感想に重ねながら自分を反芻する時間になっているといえるだろう。
場の設定が上手くいくときは、上演内容の細部についての具体的な感想や印象の共有を重ねていくうちに、観客が「もっとほかの観客の意見を聞きたい」というモードに入っていき、それが連鎖していく。一方で上手くいかないときは、目の前にあるダンスよりも、ダンスの一般論や上演の構成などのメタ的な話を観客が作り手に聞く時間になってしまう。一般的なアーティストトークならそれでいいかもしれないが、それだとヒエラルキーは崩れない。例えば「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」でも、最初は晴眼者が目の前にどんな美術作品が見えているかを描写するところから始まるように、晴眼者に「何が見えているか」は、視覚に障害のある人にとっては、自分の想像を立ち上げる大きな足がかりとなる。それは決して視覚障害者のためということだけでなく、ダンスを見ることにハードルを感じている一般の晴眼者も安心して感想を言うための土台をつくるのにも重要な役割を持っていると思う。
それは、その後の議論を公平に行なうための地ならしのようなものだ。晴眼者と視覚に障害のある人とが一緒に鑑賞する場では、晴眼者が視覚に障害のある人に対して障害があるがゆえの独特な発想を期待しがちだが、そういったものが生まれる場には、主観と客観の入り混じったさまざまな視点を、どちらか一方ではなく、互いに持ち寄ることが必要なのだ。そういった意味で2日目の感想共有で和田が言った「2次創作を誘うような上演だった」という言葉は、このプロジェクトの核心を突いたものだと感じた。
このプロジェクトを始めたきっかけは、視覚に障害のある人と何かを共有しようとする際に晴眼者が用いる言葉遣いが、借り物の言葉でなく、その人の視点やものの見方を素朴に露呈させることに魅力を感じたことがまずある。それを媒介として視覚以外の方法で観ている人の想像力を重ねることが、芸術の閉じた側面を開き得るのではないかと感じたためだった。ただ、安全が確保されている「観客」という立場を、時に自分を曝け出すような「主体」にするのは、ひと筋縄ではいかないことを痛切に感じる2日間となった。最初から「ワークショップ」と名づければまた集まる客層も違うのだろうが、そうではなく、あくまで公演のなかで観客の体や思考をほぐしていく方法をこれからも模索していきたいと思う。他人と鑑賞することの意義を体感することは、芸術の内に留まらない価値をもたらすはずだから。
Co-program 2022 カテゴリーD 音で観るダンスのワークインプログレス
会期:2022年6月11日(土)〜12日(日)
会場:京都芸術センター
住所:京都府京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2
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